「ハチ、ク、さん?」
「ハチク、だ」
「変わった名ですねぇ、でも、素敵ですねぇ」
そう言ってころころとした子供のような笑みを浮かべた彼は齢二十二の天才芸術家だという。緩やかに伸ばされた語尾はまるで糖菓子さながらの甘さだが、それは彼自身から香るオーデコロンをなぞらえているようでとても似合っていた。皮肉を言うつもりも無いが、随分と甘ったるい香水の匂いが少し女々しい容姿をした男に、これまた似合っている。不思議な男だ、そう確信したのは話し始めて二言目くらいの頃だった。ぱちりと大きな垂れ目に僅かに涙の膜が張っているのは今やソファに横たわり静かな寝息を立てる彼女――カミツレの持ち込んだ値の張る白の葡萄酒の所為である。それがまた、桃色をした頬と相互効果を築き、女々しく感じさせる。どうにも男と飲んでいる気がしないのはその為だろうか、先程からくるくると回していたワイングラスの中、芳醇な香りを楽しむ間も無く、僅かに困惑の色を浮かべているだろう自分が想像できて溜め息をつく。第一に言い出したのは彼女であるのに、寝てしまってはどうしようも無い。しかし、帰るわけにも行くまい。
そうして考えこんでいると、大きな瞳がぱちぱちと瞬きをしてこちらを見ていることに気が付いた。長い睫が頬に影をおとし、不思議そうに揺れている。
「ハチクさん、あのぅ、もしかしてぼくのこと苦手ですか?」
「…いや、そう言うわけでは」
「なら良かった、カミツレちゃん寝ちゃったから、なんかむさ苦しいですねぇ」
「君とはかけ離れた言葉だ」
「むさ苦しい、がですか?」
「ああ」
「…同じこと言われちゃったなぁ」
もっと男らしくなりなさいとか、よく言われるんですけども、と照れたような困ったようなそんな笑みを浮かべる彼に、彼女が呆れたようにして言い放つ様があまりにも想像し易く笑ってしまう。
「すまない…そう言う意味で言ったわけではなかったんだ」
「ふふ、優しいですね」
「初対面なのに何だか失礼なことを言ってしまって申し訳ないな」
「お酒の席じゃ無礼講ですよ、ぼくのほうが年下ですし」
「…そう、か」
呟いてワイングラスをくるりと回す。洒落た暖炉の光がわたしと彼を照らすばかりで、電気の消えた広い部屋は暗かったが話をする分には何の問題もなかった。バックミュージックである寝息をたてている彼女が風邪をひかないかと心配だったが生憎わたしはフェミニストではないし、いっそ風邪の一つや二つひいてもらっても構わないだろう。彼女が誘わなければこんな風に「ふふ」と色っぽく笑う彼と酒を交わすことも無かったのだから。


「友人を紹介したいの」。それだけを告げてライブキャスターを切ったカミツレはいつも通りの無表情だった。突然の話に戸惑い、人との交流があまり得意でないことも重なり申し訳ないが紹介されてもどうすることもないだろうと判断し断りの連絡を入れようと今度はこちらからライブキャスターを繋げると、彼女の話に続きがあることがわかった。彼女が幼い頃からの付き合いだが、必要最低限しか話さぬところは直してもらいたいところの一つだ。しかしそんな性格がライモンのジムリーダーに相応しくもある。まるで電光石火だ。
どうやらその友人と言うのはつい先日ヒウンのジムリーダーに就任した男のことだった。それが幼なじみだと言うのだから更に驚きだ。どれだけの才能を持っていれば幼なじみ同士が誰もが憧れるジムリーダーに就けるものなのだろうか。しかし感心しているわたしとは裏腹にカミツレは急に不機嫌そうに端麗なその顔を歪めたかとおもうと口早にその友人の文句をこぼし始めた。「もう大人なのにふらふらとしている」「言わなければろくに食事も摂らない」「でも、外見だけは誰よりも美しいから腹が立つわ」そんなようなことを一頻り言い続けたかと思うと途端に彼女は眉を寄せ、強い口調でわたしに告げた。
「だから、彼にガツンと言ってやってよ」
「…初対面のわたしが、か?」
「そうよ、あなたみたいな怖いひとに言われたら彼だってきっとちゃんとするわ、じゃあ来週の十八時に迎えに行くから、準備していてね」
「いや、まだ行くとは、」
プツン。再び返事も待たずに切られたライブキャスターを呆然と見つめると先程浮かべた言葉がぐるぐると浮かんではわたしを笑うようだった。電光石火。全世界を魅了するスーパーモデルだって近くで見てみれば何てことの無い一人の女性だと、どれ程の者が信じてくれるだろうか。無意識についた溜め息だけが現実味を帯びていた。元から選択肢の無かったお誘いを今更断るのも億劫で、気乗りしないものの支度をする。そこで漸く怖いひととはどういう意味だと文句の一つも浮かぶのだから習慣とは恐ろしいものだ。そうして考える。
(あのカミツレに美しいと言わせる男とは、どんな者なのだろうか)

あの突然の誘いから一週間後の今日、十八時きっかりに迎えに来た彼女はホワイトのタイトなシャツにスキニージーンズと言ったラフな格好で花束と大きな荷物を抱えていた。何かと問う前にわたしの視線に気付いたカミツレは淡々と「一応就任祝いだからね、上等のピノ・ノワールと新しい画材よ、彼、ワイン好きの画家だから喜ぶわ」と話し、だからそう言う詳細はもっと先にと諭すも彼女は聞いていないようで、可憐な笑みを浮かべながら助手席のドアを開けてくれた。些細な気遣いは嬉しいがそれ以前を気にしてくれと切に願う。乗り込み、シートベルトを閉めるとけたたましいエンジン音と共に車が走り出す。スポーツカー好きの彼女は見る度に新しい車で、もはや驚くこともない。ただ荒い運転ばかりが心配だと溜め息をつくと車窓の向こうでは、セッカにしては珍しい粉雪が舞い落ちていた。


数時間前の出来事を思い返しながらも目の前の男を見つめる。呆気なく少量のピノ・ノワールに屈したカミツレをソファに寝かせてからこの男、アーティと他愛のない話をしているが、何故か話は尽きない。全く以て正反対の人間同士故だろうかと考えていると何杯目かも分からぬワインを飲み干したアーティが幸せを噛み締めたように満足げな笑みを浮かべては溜め息をつく。相当な酒豪かと思えばそうでもなく、呂律は回らなくなってきている。酒に弱くは無いが強くもなく、単純にワインが好きであるらしい。二十二にしてワインが好きとは変わっているなとぼんやりと考えていると、空いていたグラスに注がれた。
「ああ、悪いな」
「ぼくだけのむのも悪いんで、ハチクさんものんでください」
「明日はジムを休業させねば」
「ですね、ふふふ、あー良い夜だなあ」
すっくと立ち上がったかと思うと、くるりくるりと回りカーテンを開けたアーティはとろりとした目を輝かせ満点の星空を覗いた。
「ヒウンは都会ですけど、夜空が綺麗なんですよ、今の季節は特に、星座までハッキリ見えちゃうんです」
そう言って笑うアーティの後ろ姿を見て、その痩躯に驚いた。とても男とは思えぬほど華奢に出来ている彼は未だ子供のように星のはなしをする。シンプルなブラックのパーカーにカーキのチノパンツと言ったラフな格好をした彼は実年齢より余程幼く見えた。しかし潤んだ瞳とすっかり赤く色付いた頬だけは、洒落にならない。柄にもなく逸る心臓の音が煩わしい。何だと言うんだ、ああでも、こうして窓にぺったりと頬をつけて星を見るアーティの姿というのは恐ろしいほど儚く美しく、男だとかいうくだらない括りを超えてしまう。カミツレの言葉を今更になって思い出した。ああ本当だ、腹が立つほど美しい。
「…アーティ、風邪をひくぞ」
「ハチクさん」
今までの子供のような表情が嘘でないかとすら思うほど、凛とした視線に打ち抜かれる。幾つだって年下の青年であるのに目も反らせない。このヒウンの夜空のように、無機質でいて美しい。
「ぼくはね、一瞬に全てを賭けたいんです、つまらない先の予想に今を潰したくないんです、だから風邪をひくかも知れなくたってこの夜空を目に焼き付けたい、いつかぼくのためになる筈だから」
「しかし、お前が体調を崩したら沢山の人が悲しむだろう」
「それってハチクさんもですか?」
「…え」
耳に飛び込んできた言葉につい聞き返せば、端正な顔に美しい笑みを乗せ、薄い唇がいやらしく紡ぐ。このガキ初めから子供なんかじゃなかったのか。思わず内心の口調すら悪くなったが、これ見よがしにこちらへと距離を詰めてくるアーティのなんと扇情的なことだろう。鼻を抜けるピノ・ノワールの華やかな香りも、仄かに漂う蜂蜜の香りも、甘いヴァニラのオーデコロンの香りも、何もかもが意図的だった。意図的に、魅了する。
「ハチクさんは、ぼくに会ってみて、どうですか?何か、感じましたか?ぼくは感じてますよ、…あなたのことがもっと知りたい」
「アーティ、しかし…」
「ね、ハチクさん、ぼくのこと、嫌いですか?」
「カミツレだって寝ている」
そう言い彼女へと目配せをすると、ソファに寝かされたカミツレが丁度寝返りをしたものだから二人して驚き、間抜けにも口をぽかんと開けたまま目を合わせる。
一瞬の沈黙の後に、腹を抱えて笑い出したアーティに段々と恥ずかしみが沸いてきた。一体何をしていたんだ良い年をして。
「ふふ…あーあ、なんか眠くなっちゃったなあ、ごめんなさいハチクさん、ベッドやソファは適当に使ってください、ぼくお風呂入ってきます」
また悪戯好きのこどものようにふふふと微笑んで、先程の妖艶な雰囲気もどこへやら。言葉通り眠そうに欠伸をしたアーティは呆気なくわたしから離れて行った。それを止めるでもなく目で追うでもなく立ち尽くしていると、離れていった筈のアーティがふと近くにいることに気が付いた。驚いたわたしを笑うとほんの一瞬だけ先程の妖艶な雰囲気を醸し出して囁く。
「今度は、きっと抱いてくださいね」
舐めるなよガキ、そう返そうとした唇を颯爽と奪って彼は浴室に消えていった。


――ああ、ああ、なんて夜だろう。唇に残る余韻だけがこのヒウンの夜空のように瞬いていた。




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