「ノボリ、お疲れ」
そう言って、ぼくは未だ机上で戦争を続ける彼に声をかけた。ただでさえ青白く不健康な顔色はより血の気が引き、濃い隈とのコントラストがなんとも言えない不気味さを醸し出している。さながらホラー映画の主役級の存在感だ。短針は既に一の字をまわり、遂には電気をともしているのも、この事務室だけになっている。既に乗務員はもちろん清掃員さえ帰路につき、残っているのも今し方車内点検を終えたぼくと、残りわずかになった書類の山に目を通し続ける兄のノボリだけだ。車内点検は日毎に乗務員がしっかりと確認してくれているのは知っているものの、用心にこしたことは無い。第一に、言い方は悪いが、あそこは僕らの最優先仕事室だ。誰よりもあの場所にいる者こそが最後に見るのは当たり前じゃないか。それならば最初から自分で確認するだけで良いと怒る者もいるだろう、しかし、用心にこしたことは無い。
ぼくの言葉がやっと届いたのか目線だけをこちらに投げたノボリは疲労困憊の様子である。頬が片方しか持ち上がっていない。
「ああ、クダリ、お疲れ様です」
「コーヒー淹れるよ、ミルクは?」
「結構です」
「あとは明日にまわしても良いんじゃないの、少しだけでしょ」
「そう言うわけには、期限は今日までなのですよ」
「ほんとうにきみは分からず屋だなあ」
そんなことを言って体調を崩しちゃ元も子もないだろうに、こうなったノボリは梃子でも動かない。意外と言われるが聞き分けがわるいのはノボリのほうだ。
戸棚からコーヒー・マグとインスタント・コーヒーを取り出して溜め息をつくと、ふと疲れた顔をしたノボリがこっちを見ていることに気がついた。不思議に思いマグとコーヒーを手に近寄るとぼくよりも儚いかたちをした骨張った手が頭上に伸びた。
「わたくしより、自身の心配をしてくださいまし、クダリ」
「…少しはかっこつけさせてよ」
「百年早いです」
そう言い切った兄の目にはすっかり威厳が戻り、まるで敵対するトレーナーを目前にしたようにギラギラと燃えている。困ったように肩を落としてコーヒーを淹れるとすっかり元気を取り戻したように鼻で笑う音が聞こえた。つくづく適わない。




「……はー…」
重々しい空気を払拭するように爽快な溜め息をついたノボリに、すっかり暇を持て余していたぼくは顔を上げて時計を見た。ああもう二時に近い。それにしてもこんな時間まで淡々と一定のペースで仕事をこなす兄に、尊敬の念を抱かずにはいられない。ぼくなら途中で投げ出したり適当になってしまうだろうし、それを見越されているものだからこういった事務の類を任されることは無い。恥ずかしい話だ。
「今度こそお疲れ様、かな?」
「ええ、お待たせして申し訳ありませんでした」
「とんでもない、片付けはぼくがしておくから、先にロッカールームに行きなよ」
「ありがとうございます」
それでは、と言って席を立った兄の足取りはフラフラとして覚束ないもので心配になったが、彼も子供でないのだから問題ないだろう。目を何度か瞬かせ、電灯の消えた薄暗い廊下に消えていく細身の体を見つめた。何故か目が離せなくて、今すぐに名前を呼びたい心地になる。兄さん、いや、ノボリ。心の中だけで反響したその名になんだか罪悪感を覚えた。いけない、早く片付けをしなくちゃ。これ以上帰り支度を遅くさせるわけにもいかないと、兄に言われた通り披露の募る体に鞭を打つ。どうせならシャワーを借りていこうかなどと考えながらも無理に思考から彼を追い出した。短針は二時を過ぎていた。
デスク上や鍵など、最後の仕事と奮い立たせ不備は無いかとチェックする。格好つけて先に行かせたのだから問題があっちゃいけない、もう子供じゃないんだから。そう言い聞かせてふと兄のデスクへと目を向けると、見慣れた黒い帽子を見つけた。ああ彼こそ人のことを言えないじゃないか、ふふふともれた笑みはまるで幼いころのような失態を見せた兄へのものだ。それを掴んで電気を消し、ドアを閉める。廊下はひどくひんやりと疲弊した体を冷やし、なんだか恐ろしかった。急いで鍵をかけると、確認をして足早にロッカールームへと歩を進める。窓に映った自分の影が化け物のようにおどろおどろしくて、笑えないからだ。




ガチャリ。無機質なドアノブを捻る音と共に光の目映さに目を細めた。やけに広いこのロッカールームは、やはり不便だと苛立ちさえ感じながら歩く。連なるロッカーのタワーを五つも通り過ぎたころ、漸く見知った姿を見つけた。
ミントグリーンのベンチに腰掛けた兄は呆然と彼方を見詰めながらぼくを待っていた。手に持っていたのはどこにいったのかと探していたぼくの帽子で、なんだ持っていってくれてたのかと安堵する。
「ノボリ、ごめんね遅くなっちゃった、ぼくが支度する間、良かったらシャワーでも浴びてきたらどうだい?」
「いえ、平気ですよ…クダリ」
呟くように生み出された自分の名に何故か背筋がぞわぞわとした。鼓動が逸る。そっか、と簡素な返事をしコートを脱ごうとして漸く手に持ったままの兄の帽子に気がついた。
「そうだ、きみ、事務室に帽子を忘れていたんだよ」
「あ…これは失礼しました」
「ふふふ、そんなことを言わないでよ」
「いえお恥ずかしい、兄ながら弟に指摘されるなど」
「昔はこうだったじゃないか」
そう言ってベンチに彼の帽子を置くと重々しいコートを脱ぎ、凝り固まった体を伸ばす。
「神父様だって僕らを見分けられなかったよ、昔は、まるで二人が一人のようで、ええと、何て言うのかなあ」
「…今はそうは言ってられませんよ、あなたの気を煩わせては、申し訳ないのです」
「そんなことを言ってはいけないよ」
コートをハンガーにかけると彼の横に座る。少しだけベンチの軋む音がしたけど、別に構わなかった。少しだけ痩けた頬に触れるとその体温の低さに驚いた。ああでも昔からこうだった。ぼくは高体温で、きみは低体温。昔はぼくよりずっと弱くて怖がりで…いや、今もだろうか。暗闇さながらの廊下に吸い込まれていくその光景は映画のワンシーンのように不安定に揺れていたのだから。
「もっと頼ってよ、頭は良くないけどその代わり体力ならあるし、なんだってするよ」
「わたくしは、あなたさえ側にいてくだされば良いのですよ」
「ぼくだって同じさ、それにそう思うなら、体調を崩すような真似はよしてよ、一人きりの事務室なんか考えただけで欠伸が出る」
「本当に…あなたは素晴らしい弟です」
「なんなら一日だけぼくとノボリで立場を交換してみようよ、きっと誰も気付かないし、とても楽しいよ」
ふふ、とやっと笑ったノボリは今までのお化けのような顔を崩してみせた。ほら、笑ってしまえば鏡のようだ。
彼の帽子を手に取る。綺麗に手入れされたものは見ていて気持ちが良い。まるでノボリという人間を表しているようだと考え、それを被ろうとした。視界の隅では窓に映った僕らが、まるで化け物のような姿をしていた。その瞬間、

「     」

ガン、と頭を殴られたような心地に見舞われた。いまなんと言ったのだろうと思わずにいられないぼくは情けなく帽子を被ろうとしたその瞬間から体を動かせずにいる。
「え、と、いまなんて、言ったの」
「で、ですから、わたくしは、あなたのことが…い、愛おしくおもえるのですよっ」
吐き捨てるように言われたって、ねえぼくはどうすればいいのさ。こんなに動揺することがそもそもの間違いなのだと自分に言い聞かせると被ろうとしていた帽子を再びベンチに置いた。別に、兄弟愛を囁いてはいけないという法律は無い。恋人のように肉欲を求める愛でないのは分かり切っているのにどうしたって落ち着くことができない。ああ嫌な空気だ。
「ノボ、リ、それは、その、」
「ごめんなさい、ごめんなさいクダリ」
謝り続けるノボリの目に浮かぶ涙の正体に気付くと、腰を抜かしてしまった。ああそうか、そうだったのか。
そろりそろりと背に回る腕のなんと細いことだろう。馬鹿みたいに走る心臓が爆発しないかだとか、そんなことしか考えられずにいる自分が愚かで仕様がない。

「わたくしを、お抱きになって下さいまし」

尊敬する兄はぼくと一つに戻りたがっているのだ。







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