鬼灯に朱の隠るころでせうか、紙で飛行機を折る兄を度々見たのは。わたくしのうんと幼き幾多もの記憶を遡ったとき。へらへらとマシマロの其れの様な笑みを浮かべる兄が、何よりも嫌悪の念を滲ませる対象であったのに変わりは無いけれど。何もせずして何もかもをこなす兄の笑みはいつしかわたくしを苛立たせるために浮かべているのだと、そう確信してから、わたくしと兄の間には埋まることのない溝が出来たのです。


月下の光を一身に浴びた兄の姿がまるで何とやらの絵画に相違ないように映ったのは何故か。厠にと目を覚ました未明の刻、障子を閉めぬままの兄の部屋の前を通ると月見酒に謡う姿を見た。常の兄とは思えぬ地を這う歌声が紡ぐのは夢二の其れである。嗚呼と思わず耳を傾けて立ち止まって仕舞ったのは兄の歌声が妙齢の女のように何ぞ妖しい色香を放っていたからだ。
そうしていると遙かを泳いでいた二つの瞳がぐるりと此方を向いた。わたくしの寝着の釦をひとつふたつと数えるようにしてゆっくりと視線を上げ顔に嵌めた。驚きも喜びも見せぬ色をした瞳の常闇の如き無表情にうっと息をのんだのも束の間に、兄は又常の笑みを浮かべると薄い唇を開いた。
「――おや、珍しい夜だなァ、おそろしいゆめでも見たのかい、ノボリ」
「からかうのはお止め下さいまし、兄様。」
「昔は夜な夜な泣きついてきたじゃあないか。…怖い夢を見たのです、共に眠ることをお許しくださいませ、って」
「昔の!…話に御座います」
声を荒げたわたくしにまた底の知れぬ表情で酒を呷るは月を見上げ目尻を下げた。ああきれいだ、華街の愁いの女郎よりもずっと、とそう言って笑った兄はわたくしなど見えていないかのように満たぬ不格好な月に舌鼓を打つ。その様子がわたくしにも分からぬほど気に食わぬもので、苛立ちが募る。
「…実に不細工な形に御座いましょう。幾らか待たれれば満ちますのに、何故あのような中途を美しいと仰有るのですか。」
そう口にすれば腹立たしいあの笑みが緩やかに引いて、何も移さぬ無表情になった兄に月光が降り注ぐ。日に焼けた綺麗な鼻筋とわたくしよりも逞しい腕の筋に目を奪われたまま、薄い茶色の瞳を見つめた。
「…今宵は随分とつっかかるのだなァ、君は。興も冷めて仕舞う。もう眠りなさいノボリ。」
「兄様、まだわたくしの話は、」
「まるで恋い慕う者の其れだ。眠れぬのであればキスをしてあげようか?」
兄のその言葉にカッと顔が赤くなったのがわかった。何も考えられぬまま敷居を乗り越え傍まで寄ると胸ぐらを掴みあげる。怒りに満ちたわたくしの顔を見ても兄はうんともすんとも言わず、また其れが苛立ちを増幅させるのだ。
「貴方はいつもそうして笑っている、わたくしが苛立つのがそんなに面白いと言うのですか?…わたくしは昔から貴方が大嫌いだった」
今まで我慢していた本音がするりするりと溢れ出す。指の先が真っ白になる程力を込めた胸ぐらを掴む手を一度だけ見やった兄は瞳に更に鈍色を浮かべたように見えた。わたくしの蒼白く、細い腕ばかりが際立つ。幾ら顔の造形が同じでも生まれ持っての病弱症だけは隠しようも無かった。
「わたくしの、体の弱さを笑っているので御座いましょう?せめて学はと勉強に励んでも及ばぬわたくしを笑っているので御座いましょう?嗚呼けれど其れは事実、わたくしはそんな事でこの様な非礼な真似をしでかしている訳にありません。…兄様のその、わたくしの遙か高みから、何もかも分かっておいでと言うような、その態度に、心の臓がざわつくのです。」
言い切らぬ内から頬を伝う熱きものに情け無く感じるのは確かなものの、そうでもしなければどうにかなってしまいそうだった。これだけ好き勝手につらつらと言われても何も反論しない兄に次第に罪悪感が募る。嗚呼わたくしは何をしているのだ、早く厠に行き用が済んだらさっさと眠ってしまえば良かった。胸ぐらを掴んでいた手から徐々に力を抜くと皺だけが残ったシャツの襟元に視線を送る。勝手極まりないが、今兄がどのような表情をしているか、見たくなかったのだ。月明かりの元にうつしだされたわたくしの穢れも、何もかも。
そうして幾ら時間が過ぎたろうか、数分とも数十分とも分からぬ間ののちに、兄は今まで聞いたことのないような冷徹な声でわたくしに告げた。
「きみが生まれるまえの父がどんなニンゲンだったか、しってる?」
「……」
「無理もない。年をとって温和になったけど昔は厳格だった。父の目を気にして育ったぼくと、父にも母にも馬鹿らしいほどの愛情を貰ってきたきみ。機嫌をうかがいながら生きるのなんてなれてるんだ。ノボリ、きみがわるいんじゃない。でもきみには理解できないだろう。」
声だけが置き去りに、次第に輪郭をぼやけさせた兄の頬にも涙が伝う。今までに見たことが無いほど弱々しくおどろおどろしい兄の言葉の数々に胸の内が締め付けられる。
「きみを苛立たせるためにわざわざ笑顔をつくるなんて、そんなことしてられない。こんな本心を語るのだって馬鹿らしくて仕様がないんだ。みんなぼくのことを出来た男だとおもっていればいいんだ。今までやってきたようにぼくは生きていきたい、ひとりで。――きみになんか理解されたくないんだ。」
掌で目を覆った兄のただ静かに涙を流す姿に漠然とした既視感を覚えながらも指先一つ動かせずにいる自分自身の甘い考えに眩暈がした。それであるのにわたくしはどうすることも出来ずにただ早く涙が止まれば良いと願うばかりで。


僅かに欠けたあの月こそが兄に酷似していたのだと気付いた時、兄は深く息を吐くとまたいつもの笑顔に戻り、動けずにいたわたくしの手を引き廊下に連れて行くと頬にキスをした。
「さあ、もうお休み。」
そう言って部屋へと戻った兄はゆっくりと後ろ手に障子を閉めた。わたくしよりも分厚い背中を眺めながらも漸く考えることのできるようになった頭が警告を鳴らす。
(嗚呼、兄様、それならば何故このような宵の刻に夢二を謡っていらしたのです)
遙か昔、紙飛行機を飛ばす兄の謡う姿が頭から離れぬのを無理に忘れて獄のようなわたくしの部屋へと向かう。
全て夢であれば良かったのにと考える自分はやはり我が身が可愛いのだと其処で思考を終わらせた。夜更けに聞こえる兄の涙声を枕に、何も知らぬ振りをして眠らなければ成らぬこの定めを呪う。







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