耳のずっとずっと遠くで、

いや、もっともっと内側で、叫びにも似た鋭い悲鳴が幾つも響いている。けれどそんなこと、私にとってはどうだっていいこと。悲鳴だってなんだって結局はわたしの一部であって統御することが出来る、そう信じたい。信じなければならない。幾つもの小洒落たランプが照らす日本風居酒屋の店内は相変わらずモウモウと湿気で満ちていて、目の前の麦茶のコップも汗をかいている。同じく汗で少しだけしっとりとした指先で水滴を拭ってみた。ぴりりと電気が走ったよう、つまり痛み。分かっていたけど思わず顔をしかめて右手を睨みつけた。絶対痛みなんて感じない、いや、感じれないのに。じゃあ何が痛い…?
自問自答を繰り返すうちに、同席していた彼ら彼女らは帰りの支度を始めていた。…違う、店を改めるだけか。それに対する答えはもう決めていた。神経のない右手に痛みが走るほど頭のイカれた女はもう帰るべきなのだ。
来る?と聞かれて数秒、考えるフリをしてからごめんねと手を合わせると、残念だとかまた誘うねとか、口々に別れの言葉を告げた。次の瞬間にはもう何を言われたのかも忘れて、マフラーを持ち立ち上がる。右手がじんじんしていた。左手を挙げ彼らに手を振った。ああ、左手も痛みだした。彼らの笑顔も全部痛い。握りつぶしてしまいたい。


店を出ると一転、年末の寒さに身震いする。白い息が全て凍り付いて落ちてしまえばいいのに、なんてどうでもいいことを考えながら足を速める。タクシーの捕まらない小道から大通りへ出ると、幾つもの空のタクシーが歩行者を見つめていた。乗り込んで目的地を呟くと車は走り出す。相変わらず街は浮き足立ったよう。わたしには眩しすぎる。




あの店から20分。ミラノ中心からほんの少し離れた高級住宅街。雄々しくそびえ立つ地上30階建てマンション。白い息が嫌で仕方なくて、息を止めて入り口まで歩いていった。元々裏の仕事をしていたわたしにとって、息をすることもしないことも大して変わらない。だけどわたしは変わりたかった。変わりたかったから刺した。変わりたかったから、右手を殺した。
コートのポケットからカードキーを取り出す。ピ、と無機質な音とともにガラスの扉が開く。痛みに震えはじめた左手を押さえつけ、エレベーターホールまでの距離、そう遠く無いはずの道を歩いた。30階へのボタンを押そうとした瞬間、また右手が痛みだす。咄嗟に左手で掴むと後ろから綺麗な手が伸びてきて、地下1階を押した。扉はゆっくりと閉じていく。振り返ることも出来なかった。


「久しぶり、元気してた?」
「…ベル」


そこには1年前と全く変わらないベルが居た。沢山の感情がいっぺんに押し寄せて名前を呼ぶだけで精一杯だった。会いたかった。だけど会ってはいけなかったのだ。わたしは、


「わたしは、暗殺、やめたのに、そんな、」
「そんな、俺に見せる顔ねえって?」
「…そう」
「同じマンション住んでんのに1年会わなかっただけでも奇跡じゃねーの」
「ごめん、わたしが出てかなかったから」


そんなことを言っている間にもエレベーターは動く。地下1階へと着いたそれは勝手に扉を開ける。神経の切れた右手が震えた。暗殺をやめる代わりに殺した右の手が。そして勝手に涙が溢れた。どうしたらいいか、分からなくなった。

目の前には愛した人の胸があって、背中には腕が回っていた。

縋らずにはいられなかった。一般人として生きていくには、わたしは弱すぎた。どんなに足がはやくても、視力が良くても、武術ができても、わたしは弱い。社会の波にのれない人間は弱い。わたしは今日まさに弱り切っていた。ベルと別れて、今日で1年だった。一般人になればもっと楽しいんだと思ってた。殺されるかも知れないという常の不安から逃れたかった。だけど何も変わらなかった。喪失感だけが残った。わたしは無意識に願っていたのだ、ベルの体温をもう一度感じたいと。


「なあ、戻ってこいよ」
「だめだよ」
「なんで」
「もう右手が使えない」
「左手は」
「震える、使えない」
「じゃあ俺のとこ来いよ」
「え?」
「…結婚、は、出来ねーかもしれないけど」
「…え?」


エレベーターはずっと開いている。まるでどうぞと言っているかのよう。わたしは1年ぶりに元カレを見つめた。痛い。心が痛い。そうだわたしは心が痛かった。ベルを裏切って心が痛んだ。ベルを求めて痛がっていた。泣いていた。頬に涙が伝った、久しぶりに暖かい涙だった。



まだ3日早いクリスマスの音色は、ベルの甘い言葉と共に心に深く染み渡った。ベル、生まれてきてくれてありがとう。私をあなたの世界に受け入れてくれてありがとう。手をつないでエレベーターを出ると、まず私は会社への辞表の書き方を考えた。そして次に、いいお嫁さんになりたいなと微笑んだ。つないだ手は震えない、痛くない。






ベル誕:20101222