爪痕のように残る面影はどこかあなたに似ている




※注:4巻辺りのシリウス・捏造有り






 時計が21時を回った頃、最後の観光客と見られるお客さんにウイスキーを渡して背中を見送ったナマエは、酒屋の店じまいをする準備を始めた。
 店主であるスチュアートは、今日は娘の誕生日だからとナマエに店を任せ、とっくの昔に家へ帰ってしまっている。ここで働き始めてもう3年になるが、こうして店を任せてもらえるようになった事をナマエは内心誇らしく感じていた。

 全ての窓がちゃんと閉まっているか最終チェックをし店を出たナマエは、入り口の鍵をしっかりとかけた。シャッターを上から勢い良く引き下げると、シャッタースラットがガラガラと音を立てながらレールを滑る。その音が閑散としたダフタウンの街中にやたら大きく響き渡った。

 11月になった事もあり、もうすっかり寒さを感じる。ナマエは羽織っていた上着をぐいっと肩までしっかり引き上げると、家路を急いだ。灰色のレンガ造りの建物が幾つも立ち並ぶ街中を15分程歩き、寂れたパブのネオン看板を左に曲がれば、ナマエの住む古びたアパートメントが見える。アパートメントの入り口近くに立つ街灯は、今にも電気が切れそうにカチカチと音を立てていた。
 ナマエは何年も使い込まれてクタクタに成り果てたハンドバッグに手を突っ込み、部屋の鍵を探し出すのに苦戦していた。ガサゴソとバッグを漁っていると、何やら前方に人気を感じ、ハッと顔を上げる。ナマエは自分の心拍数が僅かに上がるのを感じた。
 それから数メートル先の、これまた消えかけた街灯の下を目を凝らして良く見ると、何やら黒い大きな影が蹲っているのが見えた。その黒い大きな影に釘付けになって見つめていると、それはモゾモゾと動いたかと思うと、ゆっくりと首を起こした。
 ――犬だ。ただの真っ黒な影だと思ったそれは、注視してみるととても大きな犬だと言うことが分かった。ナマエはバッグを漁る手を止め、犬に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。犬は、何処から何処までが頭なのか判断もつかぬ程に真っ黒だったが、此方の存在に気が付いている様子でゆっくりと立ち上がった。それからしっぽを左右に振りながら、此方に近付いて来た。

「お前、かわいいね。」

 あまりの人懐っこさに、ナマエは笑みが溢れた。それから頭を撫でてやろうとすると、何やら犬が口に何かを加えているのが見えた。何だろう、と口をこじ開けてそれを取り出せば、それは既に事切れたネズミの死体であった。ナマエは思わずひい、と声を洩らした。どうやら、この犬は野良犬らしい。それにしても人懐っこい犬だ、とナマエが思ったのも束の間、ぽつり、ぽつりと古びたアスファルトに染みが着く。あ、と思った時には勢い良く灰色の大粒の雨が地面に叩きつけた。ナマエは咄嗟に犬をアパートメントの入口へ引き入れていた。

「びしょびしょだね。私の部屋、行く?」

 濡れたモップのようになった犬の頭を撫でながらそう聞くと、犬は「ワン!」と元気よく吠えた。その声が思ったよりもアパート全体に響いて、ナマエは慌てて「シーッ!」と犬の口を塞ぐ。それからびしょ濡れの犬を引き連れて、ナマエは2階の自分の部屋へ階段を登った。

 階段を登ってナマエの家の玄関口まで来る間も、ナマエが家の鍵を探している間も、犬はまるでナマエの飼い犬かのように大人しく、忠実にお座りをして待った。ナマエが玄関を開けて中に入っても、犬はナマエをじっと見つめてその場を動かなかった。

「えっと……どうぞ?」

 ナマエも自分自身でバカバカしいと思いながらも犬にそう声を掛けて家に招き入れる。すると犬はその言葉を待っていたと言わんばかりに家に気取った足取りで入ると、それから野良犬らしくスンスンと家中の物の匂いを嗅ぎ始めた。そして犬が満足する頃には、部屋中びしょびしょの泥まみれになってしまっていた。はぁ、とため息をつく。有難いことに明日は仕事が休みだった。掃除は明日しよう。

「じゃあシャワーを浴びようか。」

 明日の朝まで面倒見てあげるとしても、そんなノミだらけの身体で歩き回られたらたまったもんじゃない。ナマエのその言葉に、犬は耳をピクりと立てた。それから勢い良くピョンと跳ねると、その場を嬉しそうにクルクルクルクルと何度も回った。
 シャワーを浴びている間も、犬は心底気持ち良さそうに目を薄め、ナマエに大人しく洗われていた。そりゃこれだけ汚れているのだ。洗う方もひと苦労である。ナマエは着ていたTシャツをびしょびしょにしながらやっとの思いで犬を洗い上げた。浴室から出ると、犬はすぐさま濡れている体をブルブルと振るった。それに合わせて水しぶきがナマエの顔に跳ね返り、ナマエはうんざりした顔で顔を拭った。
 犬をドライヤーで完全に乾かし終わる頃には、時計の針はほとんどてっぺんに差し掛かっていた。

「シャワー浴びてくるから、大人しくしてるんだよ。」

 ナマエは眠そうにソファで丸まっている犬にそう声を掛けると、シャワーを浴びに浴室へ向かった。浴室は先刻、犬がブルブルと振るい落とした水でびしょ濡れだ。浴室の床が濡れているのに足を取られ、ナマエは足を滑らせかけた。間一髪の所で壁に手をつき、ひっくり返るのを阻止した。

 シャワーを浴び終わり、ダイニングに向かう。犬に「お待たせ。」と声を掛けたナマエは、驚愕した。先程まで犬が丸まっていたソファの上に、人が寝ている。酷く痩せこけた、浮浪者の様な男。ナマエは思わず叫び声をあげた。
 その声に男は驚いて飛び起きた。それから取り乱すナマエと、自分の体を交互に見て、何か合点がいった様子だった。

「あ、あなた、誰ですか!警察を呼びます!い、犬、犬はどこ?」

 気が動転しながらも、ナマエは部屋を見渡す。犬の姿は見えなかった。それから男の後方の扉をちらっと見る。隙を見て外に逃げようとナマエは考えていた。

「待て、落ち着いて聞いてくれ。」

 この期に及んで、男は冷静な態度でそう宣った。その声のトーンは、やけに落ち着いている。ナマエは依然落ち着いた様子の男に、サイコパスなのでは無いかと青ざめた。

「犬はここにいる。私が犬だ。」

 ナマエは絶望した。この男は間違いなくマトモではない。この世の中に自分を犬だなどと言う人間がいるものか。きっとこの男は狂ったサイコパスで、私は普通ではない方法で惨殺されるんだ、とまでナマエは思った。

「た、たすけて、助けて!」

 ナマエの口から絞り出された声は、酷く弱々しいものだった。この恐ろしい状況に、喉はカラカラに渇ききっていたし、舌は喉の奥に張り付いていた。握りしめた拳には、尋常ではない量の汗をかいている。
 男は震えるナマエを見ると、何やら「仕方ないか」などとブツブツ独り言を呟いた。それからにわかに信じ難い事だが、その男は次の瞬間みるみる内に縮み、毛が生え、そして真っ黒な犬になった。ナマエは二度目の叫び声をあげた。とても受け入れ難い事実に、混乱して今にも倒れてしまいそうだった。男は先程とは逆の過程で人間に戻ると、「だから言っただろう、私があの犬だ。」と悪びれぬ様子で言った。

「け、警察、警察を……」ナマエは覚束無い様子でテーブルに乗せたハンドバッグを取ろうと手を伸ばしたが、すぐさま男がナマエの手を掴んだ。男の手は、痩せて骨ばっている。

「頼む、話を聞いてくれ。」

 男はそう言うと、懇願するように膝を付いた。痩せて落窪んだグレーの瞳が、ナマエを捉えて放さない。その目は光を全く写しておらず、奥の奥まで闇が広がっている様に見えた。この男がどんな人生を歩んだのか、ナマエには考えも及ばない。その上、ナマエは未だかつてこんなに必死に誰かに懇願された事はないと思った。

「……わ、分かりました。とりあえず私から離れて壁際に行って手を上げてください。何か少しでも怪しい動きをしたら、私は貴方を警察に突き出します。」

 男は素直に手をあげて壁際に立った。ナマエは今のこの状況に緊張を感じながらも、内心「昔見た映画のワンシーンのようだな」と冷静に考えていた。ハンドバッグから取り出した携帯を握りしめて玄関口に一番近い場所へ移動すると、ナマエは男に話をするように促す。それから男は、ぽつりぽつりと自分の生い立ち、過去、自分が何者なのかを語り始めた。
 途中、"魔法"やら"アズカバン"やらと、日常では到底聞き得ることのない言葉が男の口から出てくる度にナマエは聞き返していたが、その度に話が停滞してしまう為ナマエはもう聞き返すのを辞めた。


「つまり貴方は魔法使いだと。そして無実の罪でアズカバン?という刑務所に入って脱獄して追われているけど、ハリーという子の為に今は捕まる訳にはいかない、という訳?」

 エクセレント、とその男は頷きながら拍手をする。魔法などという物が存在するなど到底容認し難いが、目の前でそれを見てしまった以上現実として受け止めるしか無さそうだ。それに、男の語るハリーという男の子を救いたいという必死な思いにナマエは嘘偽りを感じなかった。例えこの男が今現在指名手配をされている脱獄犯だとしても。

「それで貴方……」
「シリウスだ。シリウス・ブラック。」
「そう、シリウス……。とりあえず今日は泊まらせてあげるとして……、シリウスはいつまでダフタウンに?」

 シリウスなんて変な名前だ、と思いながらナマエがそう聞くと、口を開きかけたシリウスのお腹からギュルギュルと激しく音が鳴った。驚いて彼の顔を見れば、彼は照れたように顔を伏せる。
 彼の年齢は恐らくナマエより歳上だが、その一連の出来事でなんだか小さな子供のように思えたナマエは思わず吹き出した。

「ご飯、食べる?有り合わせしかないけど。」

 シリウスは闇のように仄暗かった目を初めて輝かせた。こんなに痩せこけているのだ、まともな物を食べていないに決まっているとナマエは思った。それから冷蔵庫からポテトやプディングを取り出し、電子レンジに突っ込んだ。温めている間、シリウスは興味津々という様子で電子レンジを見ていた。
 ナマエに言われた通りに両手を上げたまま、じっと電子レンジを見つめるその姿はやはり幼子のようで、ナマエはまたしても笑った。

「手、もう下げていいよ。」
「助かるよ。ありがとう。」

 チン、と電子レンジが温めが終わったことを告げた。取り出してテーブルに並べれば、シリウスは待ち切れないとでも言う様に、料理に目が釘付けになっている。
「どうぞ。」とナマエが言うが早いか、シリウスは夢中になってプディングとポテトを息継ぎもせず 貪るように食べ始めた。ナマエが呆気に取られているうちに、シリウスはペロリと瞬く間に食事を平らげた。きっと、あんなスピードで食べたって、味も何も感じないだろう。あまりの勢いに気圧されながらもナマエが「……私の分も食べる?」と聞けば、「いいのか?」とまたしても目を輝かせた。彼がもし犬の姿であったなら、きっと物凄い勢いでしっぽを振っているに違いない。
 彼はそれからナマエの分の料理も平らげると、満足したのかソファに移動して犬のように丸くなった。どうやらその姿勢の方が落ち着くらしかった。

 ナマエが後片付けをしていると、ソファで丸まっていたシリウスは小さな声で「恩に着るよ。」と呟くと、それっきり寝てしまった様で静かになった。時計を見ると、夜中の1時を回っていた。明日が休みで良かったと、ナマエは心底思った。明日は泥だらけになってしまった部屋を掃除しなければ。寝室へ向かう途中、リビングのソファでシリウスを見やる。彼はスヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てていた。ナマエはふと、この男の言葉を信用してもいいのだろうか、という不安に駆られた。彼の生い立ちや必死さに絆されてしまったが、いつ化けの皮が剥がれて襲いかかってくるか分かりやしない。
 ナマエは寝室のドアに鍵を掛けると、布団を頭から被って身を潜めるように眠った。







 それから何時間経っただろうか、ナマエはリビングから聞こえる声に飛び起きた。リビングの方で、何やら苦しそうな唸り声の様な物が聞こえてくる。ナマエは何か護身出来るものはないかと辺りを見渡し、ベッドの脇のキャビネットに置いてあるベッドサイドランプを手に取ると、寝室を出て恐る恐るリビングへと近付いた。

「……シリウス?」

 ナマエが息を潜めながら彼の名前を呼ぶが、返事がない。意を決してリビングに飛び込むと、そこにはソファの上で変わらず丸まって縮こまっているシリウスの姿があった。気が狂ったシリウスが暴れ出したのでは無いかと思っていたナマエは、ほっと胸を撫で下ろした。それからシリウスの顔を覗き込めば、彼は数時間前とは打って変わり、顔を苦痛に歪めながら「……て、くれ……」と、何やら掠れた声で呟いている様だった。

「……許し、てく……れ……。」

 シリウスは確かにそう言った。それからまた、苦しみながら唸り声を上げる。ナマエは思わず彼の肩を揺さぶっていた。それにより彼は正気を取り戻したらしく、がばっと勢いよく起き上がった。

「だ、大丈夫?凄くうなされていた様だけど……。」
「ああ、すまない。寝るといつもこうだ……。」

 シリウスは深く溜息をついた。その表情は、酷く怯え、憔悴しきっている様に見える。きっと彼は牢獄での生活を夢で見ているに違いないとナマエは思った。縮こまるその姿がとても小さく不憫に見え、ナマエは痩せて骨ばったシリウスの手をいつの間にかぎゅっと握りしめていた。

「手、ずっと握っててあげようか?」
「……ありがとう、でも遠慮するよ。良い大人が情けないよな。」

 シリウスは一瞬驚いた顔をした後、照れ臭そうにナマエの手を離した。ナマエは「冗談だよ、おやすみ」とシリウスに伝えると、何度も振り返りながら寝室へと戻った。




「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -