陰雨寂然
何気なく一人で暗い空を見上げていたら、自分が本来は外出を好んでいたことを思い出した。
ゴルベーザ様の御命令がない時には各地へふらりと出かけて、何をするでもなく時を過ごしていたものだ。それはとても気楽で、過ごしやすい時間だった。
セリナが来てからはそんな無為の時を過ごす機会もなく、奴から逃げる以外で、用もなしに一人で出かける機会は減っていた。だから忘れていたのだろう。
たまには何にも煩わされることなく一人でぼんやりしていようと思い、久しぶりに外へ出かけた。
……なのに、空模様が変わって雨が降り出した途端に慌てて帰って来てしまった。それも「風邪を引いては困るから」などと馬鹿なことを考えた末に、だ。
塔に戻り、雨の雫で濡れた床を見つめてようやく気づいた。一人で出かけたのだから雨に打たれた程度で誰も風邪など引くわけがないだろう。馬鹿か私は。
今や外出と言えばセリナがついて来るのが当たり前になっている。そのことに愕然とした。
「ていっ！ うわ……」
自分の愚かしい行動に呆れていたところに後ろから頭突きを食らった。馬鹿の上塗りか。振り返ると、ぶつかったセリナの方が弾かれてよろめいている。
「……私を相手にバックアタックとはいい度胸だな」
「スカルミリョーネ、なんで濡れてるの？ カイナッツォと喧嘩でもした？」
なんとなく私が負けたという前提で尋ねているように思えるのだが気のせいだろうか。
私がわざわざバロンに赴いて奴に会うわけがないだろうに、分かっていて聞いているとしたらつくづく腹立たしい。無論、分かっていなくても腹が立つ。
「外へ出たが、雨が降ってきたから濡れただけだ」
「えー！」
「……いきなり大声を出すな」
「散歩に行くなら声かけてよ！ 私も出かけたかったのに〜」
悪びれもせず言い放つから、つい溜め息をついてしまった。
そういつもいつも連れ歩けるものか。私が出かけるたびに同行して当たり前だとでも思っているのか。
……当たり前だと思ってしまっているから、雨などに惑わされて帰ってきたんだ。
それにしてもセリナは雨が降っていても出かけたがるのだな。むしろいつもよりも未練たらしいのは何故だ。もしや雨が好きなのか？
……いや、雨の日に出かけたことはなかったはずだ。単に変化を求めているのだろう。雨でも風でも晴れの日でも、昨日と違う今日であれば彼女は“何か”をした気になれるのだ。
平坦な日常に満足してくれれば、こちらとしても有り難いのだがな。
ただ塔で何もせずに過ごせばいいという、こんなにも気楽な状況下にありながら……セリナは己の境遇に不満を抱いている。
「雨はもう止んだぞ。今から出かけても無駄だ」
「えー……、そっかぁ」
先程ぶつかった時に水が移ったのか、セリナの前髪から雨粒が滴り落ちる。雨に濡れた雑草が脳裏に浮かび、無意識に手を伸ばしていた。摘んだ髪は冷たい。
「……ここには血が通わんのだな」
「そりゃあそうでしょ」
そういうものか。人間の体は、爪の先まで温かいから髪もそうだと思い込んでいた。思えばあまり意識して触れたこともなかったな。
いつの間にか、塔の外で眺めた記憶の方が大きくなっている。陽の当たる場所でセリナの黒髪は温かかったはずだ。
「スカルミリョーネ、どうしたの？ なんかあった？」
「……お前は、」
塔の中にいる方が似合っている。外界を自由に駆けるよりも、この塔にずっといればいい。
たとえ私がそれを望まなくともセリナはここにいるべきなのだ。人間という生き物が日常にあらねば壊れてしまうものなら、ゴルベーザ様のために、あの方の隣に。
後ろ姿を見送ることには慣れてきたはずだった。だが、もしもセリナがここを出たいと言ったら、それはおそらく私にとっても辛い出来事となるはずだ。
……ゴルベーザ様の望みに背くことになる。
絆を結び、繋ぎ止める役目など私には向かない。そうしなければならないのは分かっているのに、セリナとの距離を縮めるのが耐えられない。
厄介なものだな。ゴルベーザ様のためにできないことなどないと思っていたのに、未だ無意味な感情に惑わされる。
私が黙っているとセリナは不審そうに眉をひそめた。
「なんか変だよ、今日」
「……気のせいだ」
「雨で冷えて風邪引いちゃったんじゃない？」
そんなわけがあるか。冷えているのはいつものことだ。アンデッドでありながら急に体温など上がればその方が驚く。
しかし確かに、さっきから私は妙なことばかり考えている気がする。それが雨のせいだというのは事実だろう。あれは、いろいろと余計な思考を呼ぶようだ。
暗く陰鬱な空のせいで、長く静かに染み渡る雨音のせいで、とりとめのないことばかりが浮かんでは消えてゆく。
束の間じっと私を見上げ、セリナはなぜか唐突に抱きついてきた。
「雨上がりのスカルミリョーネって、くさい」
触れ合った部分に濡れたローブが張りついて気分が悪い。その向こう側に熱い血の流れを感じた。
「…………嫌なら近寄るな」
腐臭は気にしないくせに何なんだ。いや、私の匂いに慣れられるというのも、それはそれで気に食わないが。
「部屋干し生乾きって感じ」
意味は分からんがとても苛立たしい言葉だ。
「晴れたら乾かしに出かけようね」
「晴れる前に乾くと思うが」
「晴れたら出かけようねってことだよ！」
「……」
そうだなと言いそうになって口を噤む。だがどうせ晴れたらまたセリナに押し切られて出かけるはめになるだろう。
雨の気配が塔を取り巻いている。聞こえるはずのない音が、目に見える景色の向こう、思い浮かぶ記憶の向こうに余情を呼んだ。
「……冷えるぞ、もう離れろ」
「やだ」
そこに嘘が含まれていても、行かないでくれと言えばこいつは満足するだろう。ただ一言でゴルベーザ様のために役目を果たすことができる。
言えない理由は何だ。自尊心などいつでも捨てられる。ならば私自身に理由がある。
セリナがここにいるのはゴルベーザ様のためだと分かっているのに、どうしても気に入らない。そのくせ外界へ出たがる姿に腹を立てるのは矛盾している。
突き詰めて考えれば答えは容易に掴めるような気がした。しかし……きっと、雨で余計なことを考えているだけだろう。
じきに晴れれば忘れてしまう。
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