傷痕縫合
冷たい床の上に並んだ奇妙な物体を呆然と眺める。引き裂かれた緑の布、散らばる白い綿、少し前まではぬいぐるみ……だったもの。
まるで死体のようだわ。こんなものをセリナに見られたら、なんと思われるのかしら。いいえ、私の評価が下がろうとも構わないわ。
ただ、あの娘を悲しませるのが心苦しい。
「迂闊にも程があるな」
「……」
「日頃から何も考えず周囲に八つ当たりばかりしているからそういうことになる」
「……」
「己が贈ったものの無惨な姿を見てセリナは何と言うだろうな」
不機嫌そうに顔をしかめながらもスカルミリョーネは饒舌だった。
嫌がらせだわ。絶対に、途方に暮れている私を嘲笑うためだけに来たんだわ。暇なやつ。それも私に反撃する気力すらないのを分かっているのよ。
今までは、この部屋の中に、いいえ他のどこにも……大事なものなんて存在しなかった。だからこんな危険を想像もしてみなかった。
つい、いつものように苛立ちまぎれに放った風が、よりによって『セリナの土産』に直撃するなんて思いもしなかったのよ。
セリナが言うにはとても可愛いらしいカエルのぬいぐるみ。緑の体が鋭い刃に引き裂かれる様が、スローモーションで目に焼きついていた。
あ、まずい。そう思った時にはもう、この有様。
「不様な。いつまでそうしている気だ? なんならセリナをここに呼んできてやろうか」
「……殺すわよ」
「目を逸らしたところで現実は変わらん。いつまでも隠せるものか」
腹立たしいけどその通りだわ。素直に謝れば許してくれるかしら。セリナならば、怒りはしないわ。こんなことで。
ただ笑って、自分が与えた思い出が破壊されたことに少しだけ傷つくのよ。
「……チッ」
ろくに反応を示さない私に飽きたのか、苛立たしげな舌打ちの響きを残してスカルミリョーネは消えた。
何かしなければならないのは分かっているわ。でも、何も思いつかないんだもの。ここまで目茶苦茶に壊れてしまったら、元に戻すこともできないじゃない。
ただひたすらに呆然として時をやり過ごしていた私の耳に、今は最も聞きたくなかった声が飛び込んでくる。
「わー、ホントにボロボロだね」
「……な、な、な」
「一応は裁縫道具も用意してもらったけど、これは私には直せないかなぁ」
「なん、ど、どうしてここに!?」
「バルバリシア様が大変だからどうにかしてくれってスカルミリョーネに言われたから来たよ」
おのれ、スカルミリョーネ。後で五回は殺してやるわ。呼ぶなと言ったのに。
大変だから、なんてセリナは言葉を濁しているけれど、あの性格の曲がり腐った死にぞこないがどんな伝え方をしたか分かったものではない。
これを壊してしまったのはわざとではないと、伝えなければ。
「セリナ……その、ごめんなさい。私……」
「……」
他者に謝罪したことなどない。そもそも謝意を抱いたことがない。だから何をどう謝ればいいかも分からず、情けなく口籠る私を彼女はまじまじと見つめていた。
怒ってはいない。それは間違いないようだった。でもそれはセリナが私に甘いからよ。自分のやったものが無惨な扱いを受けて、気分がいいはずないもの。
きっと彼女は不快な思いをしているに違いない。そう考えるとスカルミリョーネのついでに数刻前の私自身も引き裂いてやりたかった。
けれど……。
「かわいい!」
「……え?」
「弱気なバルバリシア様の顔も新鮮でいいね! やっぱ美人はどんな表情も様になるよ!」
セリナは嬉しそうに笑みを浮かべながら頻りに頷いていた。
……喜ばれるという展開は、想像していなかったわ。怒らせず傷つけもせず済んで嬉しいはずなのに、さっきより気分が塞いでいるのはなぜかしら。
「えっと、あのね……大事にしていなかったわけじゃないのよ。不注意で壊してしまったけれど」
「そんなの分かってるよ〜」
事も無げに言いながらぬいぐるみの残骸を拾い集めると彼女は辺りをキョロキョロ見回し、物の少ない部屋の中を手当たり次第に探りはじめた。
「セリナ?」
「目が片方ない」
言葉だけだとまるセリナの眼球をなくしたみたいだわ。自分の想像に肌が粟立って、慌てて一緒に探しまわる。
黒い木の実でできたぬいぐるみの瞳は、どこにも見当たらなかった。風の刃に当たって砕けてしまったのかもしれない。
「ま、いっか。代用品がなかったら眼帯でも巻いちゃおう。ちょっと厨二っぽいけど」
「直せるの?」
「私は無理だけど、ゴルベーザなら大丈夫じゃない?」
「……えっ」
ゴルベーザ様がぬいぐるみの修理を? そ、そんなことをさせるわけにはいかないでしょう。でもどうしよう、少し見てみたい気もしてしまうわ。
あの厳めしい甲冑がちくちくと繕い物をしている姿を思い描く。……やっぱり、見ない方がいいかもしれない。
忠誠と好奇心の狭間で迷う私をよそに、セリナはぬいぐるみの残骸をまとめて布でくるみながら更に不敬な言葉を呟いた。
「縫い物と料理が得意ってさ。偉そうに魔物の親玉やってても独身のオッサンだもんね。いろいろ特技増えちゃって可哀相」
ゴルベーザ四天王としてこの言い種を咎めるべきなのかしら。
でも、彼女のこういった態度はゴルベーザ様が望んでそうさせているもの。ならば私が口を出すことではない。
私が悩むべきはセリナの不敬ではなく、私自身の贖罪だった。
もしゴルベーザ様が修理をなさるなら、セリナの贈り物を無下に扱った私に失望されるだろう。気が滅入り、体も重くなってくる。
浮かんでいるのが億劫で床に足をつけると、セリナは私を見上げて苦笑した。
「壊れたら直せばいいし、直らなかったら新しく作ればいいんだから、そんなへこまなくて大丈夫だよ」
この娘は、読心術も特別な力を持ってるわけでもないのに、どうして他者が抱える内心の不安を感じ取れるのだろう。
どうして近づこうとするのだろう。どうして私たちを知りたいと、思ってくれるのかしら。きっとゴルベーザ様も、セリナがこういう娘だからそばに置きたがるのね。
壊れてしまったら、二度と戻らないものだってある。大丈夫じゃないことも存在するのよ。特に彼女は非力な人間で、私たちとは違うから。だから……。
「セリナ、あなたのことは絶対に、いつでも大事にするわ」
「えっ、なにそれ! プロポーズみたいだよ?」
「そう取っても構わないわよ」
「ええっ!」
ぬいぐるみだから直すこともできる。けれど彼女をなくして後悔するのだけは御免だもの。
セリナの存在に誓って、もう二度と迂闊なことなんてしないわ。
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