07
昔……と言えるほどの時間が実際に経ったわけじゃねえんだが、そう感じてしまうのは、なんだかんだで俺も長く人間の時間を生きてきたってことかねぇ。
それとも過ぎた日の遠さを実感させる娘が、俺の目の前で眠っているせいか。
まあいい。とにかく俺は昔、人間の男と一つくだらない賭けをした。取引なんて面倒なことは柄じゃねえ。向こうの一方的な勘違いから発展したものだが。
そもそも俺はこの娘を欲しいなぞと一言も言ってねえし、興味をひくものを見つけたら許可も求めず勝手に奪っていく気でいた。
だが、賭けに勝つことであの野郎により深い絶望を与えられるなら、話に乗ってやってもいいかと、あの時は考えていたように思う。
人間の愚かさは知ってたが、あんな阿呆はさすがに見たことがなかったしな。少し面白がってたのは確かだ。
――将来は「おとうさんとけっこんする!」なんて言ってな。当然のごとくお前に勝ち目は無いぞ。ざまあ見ろ! ……だがもし、あの子が自分でお前を選んだら――
ちゃんと大切にして、守ってやるのなら、くれてやってもいいだろう、それがあの娘の意志ならば。
どっかで知らねぇうちにくたばったらしい男の言葉が、今も目の前にいるような錯覚を以て脳裏に蘇る。
どうして死んだのかは知らんが、結局あの野郎は溺愛していた娘の行く末を見届けられなかったわけだ。
さぞや悔しかろうなァ、父親を亡くしてクレアが辿り着いたのが、よりによって俺のところだなんてよ。今すぐ地獄まで訪ねて嘲笑ってやりてえよ、全く。
あの執着ぶりじゃ今でも逝ききれずに彷徨いてるかもしれんが、自我はとっくに消えてるだろう。
たとえクレアに会っても互いに相手が誰かも分からねぇ、と。同情なんかしてやらねえがな。あんなに想ってても人間なんぞ、死んだら呆気ないものだ。
さて、どうするか。成り行き任せのくだらない口約束はどうでもいいとして、こいつが俺の所有物だってのは過去も今も変わらない事実だ。
しかし人間の命は短い。死にそうにない男が死んだのがいい例だ。どうすりゃ長く愉しめるのか?
クレアはモンスターに成り果てても構わないと豪語している。何も知らずに俺の腕の中ですやすや眠る顔に、答えを探そうとしてアホくさくなった。
魔物になるなんて簡単に言うもんじゃねえ。ヘタに手を加えりゃ自意識までなくなっちまうのがオチだ。
なら、死んでから手を出すか。人間の器を脱いで無防備になった瞬間なら、俺の領域に引きずり込むこともできるだろう。
だが婆さんになるまで生きられると面倒くせえよな。どうせなら瑞々しい体の女の方がそばに置いて楽しいってもんだ。婆を侍らせる趣味はない。
かといって、今は、なぜか一歩踏み切れない。
……若い女の肉体が欲しいならさっさと魔物にした方がいい。なのに俺は何を迷っているんだ。魔物に作り替えてクレアの心が消えちまうのが、怖いとでも?
「おい、クレア」
相も変わらずぐーすか眠りこける頬をぴたぴた叩くが、全く起きる気配がなかった。
警戒心だの何だのについては後々嫌と言うほど教え込むとして、とりあえずいつまでも膝に乗せてたせいで足が痺れてきた。とっとと退きやがれ!
「起きろっつーんだよ、こら」
「むにー」
「お、なかなか面白ぇな」
両頬をつまんで引っ張ってやると、しまりないツラが更に間抜けになった。柔らかいな。どこまで伸びるんだ?
「……」
伸びきった頬のせいで顔の幅が1.5倍ほどになったがクレアは起きない。
ここまで来ると呆れるぜ。野っぱらで寝こけてモンスターに食われても気づかないんじゃねえのか。
「…………」
僅かに開いた唇の隙間からよだれが垂れそうになったのをきっかけに、つまんだ頬をつねりあげてやった。
「わいっひゃひゃ!! なんっ……なに!?」
声を出した拍子に流れたよだれを腕で拭い、跳び起きたクレアが呆然と俺の顔を見つめる。目の焦点が合ってねえ。寝ぼけてんなこいつ。
「殴れば目が覚めるか?」
「えっ? なんで既に痛いの?」
赤くなった頬を押さえて微妙にずれた答えを返され、ちょっとばかり気が削がれた。
寝たふりかとも思ってたんだが本気で爆睡してたようだな。よく寝られたもんだぜ、俺の膝の上なんぞで。まあ床でもどこでも眠る奴だからなあ。
……村での生活が偲ばれるっつーかな。
まだ頭が働いてないのは承知のうえだ。ま、本能で選べて逆にいいんじゃねえか。そんな投げやりな気分で、欠伸でもしそうなクレアの頭をがっちり掴む。
「お前に一つ選ばせてやるよ」
「ほっぺたが痛い。うん?」
「死ぬまで待ってモンスターになるか、今すぐにでも人間やめるか」
「ふぁ」
「どっちか選びな。三秒以内だ。いーちにー」
「えっ? ちょ、早っ!」
あからさまに慌てふためくクレアは言葉の意味を理解するまでに三秒を逃したが、そこから更に無言で三秒待つ。
眠気のとれないぼけっとした顔に苦味が走り、ようやっと目が覚める。
「正直、もうちょっと人間を楽しみたいなあ」
じっと目を覗き込めば内心が透けて見えてくる。クレアの中には俺が怒るだろうかと危ぶんでいる気持ちが少しあった。
モンスターになってもいいと言いながらまだ嫌だと我が儘を言うのは、不興を買わないだろうかと。
阿呆が。べつに心を読まずとも分かる。人間やめてもいいってのは間違いなくクレアの本心だ。心変わりしたなんて思っちゃいねえよ。
ただ俺が魔物だからこそ、人間の身でそばにいるという優越感を今しばらく味わっときたいってわけだろ。
魔物になるのはいつでもできる。なら、急ぐのはもったいない。……同感だな。
どうせまだ先は長いんだ、せっかく人間に生まれついたもんを無駄にしちゃ確かにもったいねえだろう。死ぬまではそのままでいればいいか。
人間ってのは弱っちいもので、死ねば何もかも終わりだ。
魂も肉体も消え失せ、遺された人間の心の中にあるのは、結局のところそいつの思い出でしかない。生きていた存在と同一のものは何処にもいない。
だが魔物は違う。死してもその魂が、全く同一の存在が、必ず残される。完全な死など得られはしない。
死の瞬間クレアがそれを選ぶなら、別れなんか望んだって来やしねえ。
四肢を投げ出して他者に全部預けて、夢の中で遊んでいられるのも人間の特権だ。せっかくなら人間であることをきっちり味わい尽くして死ねばいい。
まったく、本当に何を迷ってたんだかな。
「俺は、俺の得られない物をお前に求めることにする」
寝起きのぐんにゃりした体を抱えたままベッドに倒れ込む。俺と寝台に挟まれたクレアは潰れたカエルのような声で抗議してくるが無視だ。
考えてみりゃ急ぐ必要なんかねぇんだよ。俺もこいつも現世にある、その間はどうせ自由になんかならねえんだ。
現状に甘えてふわふわ地に足のつかないクレアも、その先に待つ絶望を味わった顔も、人にあらずの存在になっても……隅々まで拝ませてもらおうじゃねえか。
「クカカカ、愉しみができたなぁオイ」
「か、カイナッツォ様、重い……!」
当たり前だろ。魔物からすれば一瞬のこと、とはいえこの俺様が律儀に待ってやると言ってんだ、軽々しく受け止められてたまるかよ。
← | →