透明な水を染める
筏を降りて地面を踏み締める。なんとなく、まだ足元が揺れているような錯覚が起きた。
レテ川の中流でマッシュとはぐれて以来、私たちの間には奇妙な緊張が張り巡らされているようだった。それまで明るかったサクラが口の端さえも笑わなくなったから。
彼女はバナンから徹底的に距離を置き、エドガーともあまり目を合わせたがらない。
「そんな顔しないで。マッシュなら大丈夫だよ。それは君もよく分かっているだろう?」
「……でも、心配なものは心配です……」
エドガーが気遣うように声をかけたけれど、サクラはやんわりと彼から離れて私の隣を歩き始めた。
私もマッシュのことは心配だった。でも彼は強いから、一人でなんとでもできるというエドガーの言葉を信じていた。マッシュ自身も「エドガーを信じろ」と言っていたから。
エドガーとバナンが先を歩き、私とサクラが少し離れてその後をついて行く。ずっと俯いている彼女が気になって声をかけてみる。
「どうして、エドガーを避けるの?」
サクラは戸惑った様子で顔をあげた。
あのリターナーの本部でサクラはバナンに怒っていた。彼は優しくないから嫌いだと言っていた。それが事実なのかどうか私には分からないけれど、少なくともエドガーは“優しい”と思う。
彼女がエドガーを嫌っているとしたら、その理由が知りたい。嫌っていないのに避けるなら、それも知りたい。
「サクラはエドガーのこと、嫌いなの?」
「そんなことないです。……でも顔を見てると、マッシュが心配になるから」
どこまで流されただろう、怪我してないか、無茶をしないか、戻ってこられるのか、どうしてあの時マッシュを止めなかったのか。
頭の中がいっぱいになって泣きそうになるから、まともにエドガーの顔を見られないのだと彼女は言った。
ここにはいないマッシュを想うのが辛いから、彼と似たエドガーの顔を見ていたくない……。サクラの感情は複雑すぎて、私には難しい。でも、だからこそ触れてみたいと思う。
心配でいっぱいになるのが嫌というのは、マッシュのことを考えたくないとも受け取れる。けれど違う。彼が酷い目に遭っているという想像をしたくないから、サクラは今それを考えたくないだけ。
本当は……。会いたくてどうしようもないのに会えないから、今はあえてその存在を頭から追い出している。
「サクラはマッシュを愛してるの?」
「はい! 控えめに言っても結婚したいです!」
その瞳から感じる熱心さを見る限りでは、とても“控えめに言ってる”とは思えなかった。
サクラはマッシュをすごく愛している。それだけじゃなくて、コルツ山の麓で初めて出会った時から彼女はとても感情豊かだった。
私たちについて行きたいと言った時、必死な顔をしていた。山を登り始める時、マッシュが心配だと不安そうだった。私が魔法を使うのを見た時、彼女の瞳は嬉しそうに輝いた。
夜から朝へと空の色が変わるみたいに、揺らめく水面が形を留めないように、サクラの表情は彼女の心をあらわして色とりどりに変化する。
きっと彼女はたくさんの“気持ち”を持っているんだわ。そしてそれをありのままに表に出すことができるのね。
歳も近い、性別も同じとマッシュが言っていた。なのに私とサクラはこんなにも違う。彼女をよく見ていれば、“普通”が何なのか、いつか私にも分かる気がする。
サクラの心が知りたい。彼女の思考に触れたい。その鮮やかさで私の中に眠る何かが目を覚ますかもしれない。
「サクラの一番強い気持ちって、何?」
「それはやっぱり、愛でしょう!」
マッシュに対する愛かとは聞く必要がなさそうだった。サクラは彼を愛してるから結婚したい……それじゃあ。
「結婚……って何?」
私が尋ねたら、サクラは少し悩んでいた。
「ええと結婚っていうのは……、こっちの制度的にどうなんだろう? 同じでいいのかな」
そんな独り言でまた意味を聞きたい言葉が増えたけれど、ひとまず結婚とは何かの答えを待つことにする。
「うーん、そうですね。結婚っていうのは、大好きな人と死ぬまで一緒にいようって約束して、いずれ子供を作って、家族になることです!」
一頻り考えたあとサクラはそう宣言した。彼女の言葉が聞こえたらしく、エドガーがこっちを振り向いて瞠目している。
死ぬまで一緒にいて、子供を作って、家族になる。帝国軍にも妻や夫を持つ人々がいた。つまり結婚というのは、配偶者を作ることを言うのね。そういう言葉として聞く機会がなかったから、分からなかった。
結婚は“愛”によって成り立つものだった……それなら、帝国にいた頃であっても私の周りの人たちは“愛”を知っていたんだわ。
サクラがマッシュを想うような、とても強い“感情”を。
「じゃあサクラはマッシュと子供を作るのね」
「えっ……い、いや、まだ……片想いなので、そうなるとは限らないかと」
急に顔を真っ赤にして口籠ってしまった彼女に首を傾げる。片想いというのは文字通りの意味だと思う。
言われてみると確かに、サクラはマッシュを愛してると口にするけれど、マッシュがそう言っているのを聞いたことはない。
「それじゃあ、マッシュはサクラを愛してないの?」
「……そうですね、たぶん」
みるみるうちに彼女の表情が沈んでいく。
「ごめんなさい。私は何か悪いことを言ったのね」
「いいえ、言ってないです! 先輩は事実をそのまま言っただけで、私が悪く受け取っちゃっただけですから」
だとしたら、言ってはいけない事実もあるということだわ。
私は彼女の感情、心の動きが知りたい。でもサクラが悲しそうな顔をするのは、なぜだか分からないけれど、とても嫌なのよ。
サクラはすぐに沈んだ空気を払拭した。もしかしたら、私に気遣ってくれたのかもしれない。
「ティナは、記憶がないんだって……ええと、お父さんとお母さんの記憶もないの?」
「……」
「そっか……」
それで愛について知りたいんだねと彼女が呟く。
「どうして私が知りたいことが分かるの?」
「何を知りたいのかなって想像したから。だから先輩がやってることは、合ってると思う。私がどうしてその感情を抱くのか考える、ってのは」
「……あなたを観察してもいい?」
「手本になれるほどのもんじゃないけど、私が役に立つならどうぞ!」
拳を握り締めて力強く頷いたサクラは、どこかマッシュに似ている気がした。
漠然としたものはあるの。歩いて息をして戦って、それは教えられなくても簡単にできる。だから記憶がなくたって生きていくことはできるのよ。
たとえば“赤”はどんな色か、“青”とどう違うのか、色を識別できるのと同じように目の前の人が“喜び”や“悲しみ”を感じているのは理解できる。
でもそれが私の中から生まれてくることはない。喜ぶってどんな“気持ち”なの? 悲しいとか腹が立つとか、どうすれば“心”がそれを感じられるの?
操りの輪を着けていた頃は、ただ生きていくのに感情なんて必要なかった。だけど心を塗り潰すものがなくなった今、この胸の中がなんだかとても……空っぽで……何かで埋めたくて堪らない。
ナルシェを発ってから時々強く感じるものがある。それは痛みに似ていた。きっと怒りや悲しみというものだと思う。傷つけられれば容易に心を染めてしまう強い“感情”だった。
私にとってはそれも大切なもの。けれどできるなら私は……。
もっと明るくて優しい、サクラがマッシュに向けるような気持ちが、知りたいの。
ナルシェに向かう足取りは、ロックと二人で逃げてきた時よりもゆっくりだった。なぜなのかと考えた時、ふと思いつく。
今回は四人で旅をしている。そしてエドガーもサクラも旅慣れてはいない。バナンの歩く速度だって私から見れば決して早いとは言えなかった。ナルシェまでは一週間ほどかかると思う。
考える時間はたくさんある。その事実にホッとする。
その夜は簡易テントを設営して野原で眠ることになった。サクラの隣に寝そべりながら、昼間の続きを話してもいいかと聞いたら、彼女はもちろんと言って笑ってくれた。
「コルツ山を登ってる時、サクラも家族がいないって、言ってた」
「うん。気づいた時にはいろんな場所を転々としてたから、家族のことも覚えてない」
「あなたは誰から愛を学んだの?」
「学んではいないけど」
強いて学んではいないけれど、生き物なら誰でもそれを知っているのだと彼女は言った。
「私が今ここにいることが、愛情の証だと思うから。誰かが私に生まれてきてほしいと思ってくれた。私は、彼らのことを何も知らなくてもその愛を信じる」
彼女は自分の両親が誰かを知らない。でもどこかで誰かが愛し合い、結婚して、サクラが生まれたんだ。
「ティナはここにいる。だから顔も知らなくたって両親は存在する。先輩の中にも“愛”はあるってことです!」
「私の中にも……」
かつて愛し合い、私をこの世に送り出した人たち。……私の両親は愛を知っていた。だから私が生まれた。
「もうひとつ聞いてもいい?」
「いくつでもどうぞ!」
煩いと言われても仕方ないはずなのに、サクラはいつまででも私の相手をしてくれる。昼間にどうしてエドガーを避けるのかと聞いたお陰で見当がついた。きっと彼女も、私との会話で気晴らしをしているのね。
「サクラはどうしてマッシュを好きになったの?」
「受け止めて、助けてくれたから。私はどう考えても怪しかったと思うし、彼には私を助ける理由なんて何もなかったのに、当たり前みたいに手を差し伸べてくれて」
彼女は魔導の力にも似た不思議な能力を持っている。でもマッシュはそんなことを気にも留めず、行く宛のない彼女を受け入れてくれた。
「この人の腕に帰りたいなって、思った。他の場所には行きたくない……マッシュのそばにいたい」
一緒にいたい。好きになってほしい。自分の存在を、求められたい。とても切実な何かを“欲しい”と思う気持ち……きっとそれが愛なんだわ。
私は自分のことを何も知らない。自分に何が欠けているのか分からない。だから自分が何を欲しているのかも理解できない。
それを知ることさえできれば、きっと私が欲しいものを持っている人を、愛することができるかもしれない。
サクラみたいにまっすぐに誰かを求めて、会えなくて心配したり会えて喜んだり……、私もそれを知りたい。
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