遠い故郷
「なっ、何だこれは!?」
聞き慣れない男の声がして目を覚ました。……午前十時過ぎ。昼前に起きたのって久しぶりかもしれない。
のんびり着替えて部屋を出るとリビングのソファーの上にアーロンが立っていた。
行儀が悪いぞ、お客様。
「ミトラ! 妙なものが部屋を走っているんだが……」
「え?」
ゴキブリでも出たのかと思って見回したけれど幸い何もいなかった。
必死の形相でアーロンが指差した先には、懸命に床を掃き清めている愛機の姿があるだけだ。
「これは掃除機だよ」
「掃除……き?」
アーロンはものすごく不審そうな顔を向けつつ床を這う掃除機を警戒している。
かなりのオーバーリアクションだけど嘘ついてる感じじゃなくて、本当に初めて見たって顔してるのが恐ろしいよね。
まあでも、あのでっかい剣で壊されなくてよかった。
ポストを覗くと八時間前に注文した品物が届いていた。それを手に取ってリビングに戻る。
彼は寝室に移動していく掃除機を恐ろしそうに見送っていた。
「アーロン、とりあえずこれ適当に買っといたから着替えちゃってよ。そっちは洗濯しとくから」
すでに乾いているとはいえ、いつまでも血塗れでウロウロされると心臓に悪い。
それに、結局どういう知り合いなのかよく分からないけれどジェクトさんの家に行く予定ならその格好はまずいだろう。
どういう事情があるにせよジェクトさんの家は今すごく大変なのだ。
用があるなら、アーロン自身が落ち着いてからにした方がいい。
アーロンが眠っていた部屋に入って汚れまみれのシーツを剥がす。幸いにもベッド自体は無事だ。
丸めたシーツを抱えてリビングに戻るとアーロンは手早く着替えを済ませていた。
念のために大きめのを買ったんだけど、それでちょうどピッタリだったみたいでよかった。
「……昨夜あれから買いに行ってくれたのか」
「ううん? 出かけてないよ。ネットでちゃちゃっと注文しただけ」
好みとか知る由もないのであとは自分で買ってもらうつもりだ。
といっても、掃除機が分からない人にインターネットなんて言葉の意味が分かるわけないか。
他の服を買う時は私も付き添って画面を見てなきゃいけないんだろうなあ。
シーツに加えてアーロンが脱いだ服も洗濯機に放り込む。この鎧? のようなものは、あとでどうするか考えよう。
「洗濯くらいは俺が自分で……」
私の後ろにくっついて来ていたアーロンが呟くと同時に洗濯機が回り始める。
「俺が自分でスイッチ入れたかった?」
「……」
真顔で硬直しつつ、アーロンは洗濯機から目を離さない。
「さしずめ、これは“洗濯”をする機械というわけか」
そうかもしれないとは思ったけれど、案の定アーロンは洗濯機も生まれて初めて見たらしい。
どこから来た何者なんだという気持ちはある。でもべつにどうでもいいかなとも思う。
なんとなく、彼には帰るところがないんだということだけ理解している。
私にとってはそれで全部なんだ。
「本当に何もかも機械任せなんだな」
責めるというよりは単純に驚いてるような言い方だったので私も素直に受け止めた。
「人を雇ってもいいけど、それはそれで面倒だからね」
「自分の手でやろうとは思わんのか?」
「何のために?」
私が怠惰じゃないとは言わないけれど、掃除や洗濯程度なら機械に任せるのはおかしなことではないと思う。
正直なところ、未だに手仕事に拘る人なんて前々世代くらいのお年寄りでも稀じゃないだろうか。
一体どこで生活してたら掃除機や洗濯機を見たことがないまま大人になるのかと不思議だ。
何か「機械に頼らず自分の体一つで生きる!」みたいな先祖代々伝わる掟でもあったとか?
詮索するつもりはないけれどアーロンの素性はかなり謎めいている。
一人で町に放り出すのを躊躇する程度には。
呆然としている彼を残してリビングに戻り、昼食のメニューを考える。
なにやら心細そうな顔をしてアーロンが後を追ってきた。
「アーロンは何を食べたい?」
「……分からない」
それは困ったものだね。昨夜も秘蔵のプリンを手に「分からない」と言ってたっけ。
もしかするともしかしなくても、プリンさえ見たことがなかったんだろうか?
「まあいいや。適当に注文しちゃうよ」
体はピンピンしてるけれど一応は病み上がりとして、栄養たっぷり刺激の少ないメニューにしておこう。
それにしてもあの血は何だったのか。
アーロン自身が怪我をしていないことを考えると、全身を汚していた血は、誰かの返り血だったんだろうか。
彼はジェクトさんを殺してなんかいないと言っている。それはたぶん、本当だと思う。大それた嘘がつけるタイプには見えないから。
でも行方不明だったジェクトさんは既に亡くなっていて、彼と一緒にいたというアーロンは血塗れでうちの庭にいきなり落ちてきて。
……すごく危険なことがあったんだろうな、というのは分かるけれど。
ついでだからジェクトさんの自宅の場所を調べておくことにする。
モニターに向かう私を眺めて、アーロンはおっかなびっくり尋ねてきた。
「その機械で料理もできるのか?」
……え? ああ、掃除機や洗濯機みたいにスイッチ一つで料理ができると思ったのかな。すごい発想だ。
「近くの店に配達を依頼しただけだよ」
「なら、食事の支度は人がやっているんだな」
「ロボットが作ってる店もあるけどね」
そう言ったら彼は苦々しげに眉をひそめた。
どうしてそんなに嫌そうなんだろう。金属アレルギーとか? でもあの大きな剣を持っててそれはないか。
やっぱり、単純に機械が嫌いなのかな。
「自分の口にする物まで機械で作るのか……どうしてそこまで機械を信頼できるんだ?」
「信頼っていうか、手間を省いてるだけだと思うけど」
それに見知らぬ人が作るものより正確無比の機械が調理をする方が信頼できるのではないだろうか、なんて思ったりする。
「便利なのは……分かる。だが頼りすぎではないか?」
「そうかな。自分でやると疲れるし、機械でできるんだからそれでいいじゃない」
「疲れるほどの仕事でもあるまい」
私がじっと見つめるとアーロンはばつが悪そうに俯いた。
「……すまない。余計な世話だな」
本当にね。
それにしても、掃除機を見たことがないどころかその存在さえも知らない、アーロンはまるで機械のない場所からやって来たみたいだ。
「なんかすごいね。大昔からタイムスリップしてきた人みたい」
「むしろ俺の方が未来から来たんだが」
思わずこぼれたらしい言葉にアーロンが慌てている。
「そういう冗談も言えるんだ? ちょっと意外」
時代錯誤も甚だしい考え方をしてるくせに「わたくしは未来から参りました」なんてすごいジョークだ。
ああでも……。
「文明が滅びたあとの世界から来たって言われたら、納得かも」
機械が発達しすぎたせいで人間が必要なくなってどんどん数を減らして、滅びが目前に迫った世界。
便利だけれど精神を腐らせる機械を廃止して、今一度人間の心と向き合おうとする。原始の時代に逆戻りしたかのような世紀末。
そんな未来を描いた作品が流行ったこともある。
でも私にとっては自分の力だけで生きなきゃいけない世界なんて、自然の摂理に支配された苦難のディストピアに思えるのだけれど。
想像を飛び越えてくだらない妄想に耽っていたら、アーロンが呆然と私を見つめていた。
「あれ、もしかして図星?」
「……」
「そっか、あなたはこの世界が滅びたあとの未来から迷い込んできたんだ?」
「……」
肯定するでもなく馬鹿にするなと怒るでもなく、ただ黙って申し訳なさそうにされると信じてしまいそうになる。
そんな馬鹿げたこと……だけど、あり得なくはないのかもしれない。
だって彼は本当に唐突に、うちの庭に落ちてきたんだもの。
「まあ、いいや」
「……いいのか」
「深く考えたって仕方ないし」
なんにせよアーロンが機械と縁のない世界からやって来たのだと言われればそれは納得できる話だ。
彼はちょっと無知とかそんなどころじゃなくて、まるっきり何も知らないように見えるもの。
少なくともこのザナルカンドで生まれ育った人間では絶対にない。
「うちの外に出たら腰抜かすんじゃないかな」
「……あり得ないとは言えんな……」
からかったつもりの言葉に深刻な顔で返されて、ジェクトさんの家に行く時は私もついて行こう、と思った。
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