12
寺院に続く道は雪が深く、足をとられてしまうから歩くのも困難だ。
まして私はスノーバイクを押して歩いているため尋常でない重労働だった。
置き捨てて行こうかとも思ったのだけれど、やはり必要だと思う。
こんなところをいくら頑張って徒歩で進んでみても無駄に体力を消耗するだけだろう。
「ワッカ、我慢してバイクに乗ってもらえませんか。みんなに追いつけないです」
先を行く彼の防寒着の袖を掴んでみたけれど、当然すげなく振り払われた。
「乗りたきゃ勝手に乗れよ。俺に遠慮しなくていいぞ? アルベドならアルベドらしく、機械を使えばいいだろ」
「……」
遠慮なんてしなくていい。奇しくも森で話した時と同じ言葉をかけられ、その温度の違いに乾いた笑みが零れた。
この先まともに話す機会があるだろうか。今から私は更に彼を怒らせるのに。
「ミヤオフヒシ、ミフキアハミア……」
うっかり声に出してしまった呟きに反応してワッカが振り返る。
「なに言ってっか、分かんねえよ」
バイクから手を離し、私も立ち止まった。先に言っておきたいことを言ってしまおう。
「あなたを愛しています。たぶん、ミヘン街道で初めて会った時から」
私が何を言っても反論するつもりでいたのだと思う。勢い余って開いた口をパクパクさせてワッカは呆然としていた。
「は……、お、お前、馬鹿か? この状況でそんなこと言われたって、俺は……」
「分かってます。ラミゾシ、伝えておきたかっただけなので」
これは本題ではないのだ。
「私はエボンの教えのことを何も知りません。でもユウナと旅をして、教えも部分的には正しいのかもしれないと思うようになりました」
一年前の作戦とミヘン・セッションの結果がまさにそれだ。シンは確かに、機械による悪意には敏感に反応を示した。
「だけどすべてが正しくはない。アルベドでも、機械を使っても必ず死ぬわけじゃないです。教えに反しながら生きている者はたくさんいます」
「だったら何だよ。そりゃラッキーだったな、とでも言えばいいのか?」
「線引きの場所が間違っているのでは、ということです。部分的に正しくても教えのすべてが絶対的なものではない」
そもそもがワッカはアルベドのことを何も知らない。私たちの身体的な特徴にさえ気づかないほどだ。
それは彼の嫌悪が私たちのどこに向けられているのかを明確に示している。
ワッカは“アルベド”を嫌っているわけではないんだ。
「禁じられた機械を使うのが罪じゃないなら、なんでチャップは死んだんだ?」
彼の弟が機械を使って死んだから、教えに対して盲目的になっているだけで。
「なあ、お前そばで見てたんだろ? あいつはなんでシンに殺されたんだよ?」
もしチャップが生きていたならルールーたちのように、戸惑いつつもリュックを受け入れてくれただろうに。
「チャップは、本当は死ぬはずじゃなかった」
雪が音を吸い込むせいだろうか。空気が重たくて息をするのも億劫に感じる。
「……一年前の作戦では、討伐隊のヒトに兵器の操作を教えるためにアルベドが指導につきました。チャップに機械の操作を教えたのは私です」
目を合わせていられずに俯いていたら、彼の指がぴくりと動くのが見えた。
「で? あいつが死んだのは、お前のせいじゃない、お前は悪くないとでも言わせたいってか? そりゃ無理な話だよなぁ?」
「いいから、聞いてください」
本当なら私の言葉など聞きたくないだろうけれど、これは……チャップの話だ。
弟が亡くなる直前の話に耳を塞ぐことができず、ワッカは立ち尽くして私を見つめていた。
「当時の私はエボンの言葉も知らず……その、あなた方を、毛嫌いしていたので、あまり熱心に教えませんでした。チャップは兵器を使いこなせなくて……前線ではなく、司令部に配属されました」
「……」
彼がどんな顔をしているのかは見ることができない。けれどきっと怪訝そうに眉をひそめているに違いなかった。
前線に出ていなかったのなら、チャップはどうして死んだのか、と。
「戦闘準備の最中、彼は片言のアルベド語で、私と持ち場を交代したいと言いました。後詰めで待機するはずが、私に代わって前線に出て……」
彼がなぜそんなことをしたのかは分からない。
前線に出たいという理由を話していたとは思うのだけれど、彼が何を言ったのか知らない。
私は彼の言葉を理解できなかったし、そもそも耳を傾けようとも思わなかった。
……すべてが終わったあと、彼が死んだことさえ意識の外にあった。
「アルベドも機械も関係ないです。チャップは、私のせいで、死んだ」
一人空しくホームに帰る時、生きていることを悔やんだのは仲間がみんな逝ってしまったからだ。
なぜ私は彼らと共にいなかったのかと後悔ばかりが胸を占めた。
でも、私の代わりにそこに立っていたエボンの民のことなんて、一度たりとも考えはしなかった。
異界で彼が現れるまで……私の脳裏にあったのは、同胞の命が喪われたということだけだったのだ。
言ってしまえば覚悟は決まった。顔を上げ、ワッカと目を合わせる。
憎悪も憤怒も見えない。まるで空っぽだ。きっと強大すぎる負の感情を持て余しているのだろう。
私だって一年前、共にサヌビアからやって来た仲間が塵と化すのを見て、ただ呆然としていた。
「……それを……俺に聞かせて、どうしてえんだよ。仇でも討たせてくれるってか?」
「はい」
迷わず頷けばワッカは愕然としていた。
「私が生きているのは彼のお陰です。あの時、本当は死ぬはずだったのに、チャップの犠牲によって助かり、彼の代わりに生きているだけなんです」
考え方を変えるのは容易いことではない。これまでずっとエボンの教えは間違っていると信じてきた。
私たちが正しいのだと、盲信していた。
一年前のことがあってから無意識に疑いを抱いてはいたのだろう。でも考えようとはしなかった。
ユウナに出会い、旅を共にして、ワッカと……エボンの民と触れ合って、目を逸らすことができなくなった。
シンが蘇るのは機械のせいだ。私たちのせいだと言われ、心のどこかが納得してしまったのだ。
ずっと、意味のあることをしなければいけないと思っていた。それが生きている者の義務だと。
でも本当にしなければならないのは、過ちを正すことだったんじゃないのか。
「エボンの教えの通りに私が死んでいたら、あなたの弟は死ななかった」
召喚士が死なない方法を探していたくせに……教えが正しいかもしれないなんて、考えようとはしなかった。
もしかしたらエボンの教えが正しいのかもしれない。間違ってるかもしれない。
分からないなら、知らなければいけない。知ろうとしなければいけなかった。
彼らの言うように……機械を使うものがいなければシンは復活しないのかもしれない。私のようなものがいなくなれば……。
私が後退ると同時に必死の形相でワッカが手を伸ばしてくる。
殺されるならそれもいいと思った。でも、できれば彼の手を汚したくない、とも。
「ユクティ……ッ!」
景色が傾いだ瞬間、彼は私の腕を引き寄せて、抱き締めるように雪道に倒れ込んだ。
背後で雪庇が崩れてクレバスの底へと舞い落ちていく。
……あのまま私も一緒に落ちていくはずだったのに。
「どうして……」
「知るかよ!」
助けるつもりなどなかったと言いたげに彼は私を突き飛ばした。
根が優しい人だから、目の前で死のうとしている者がいれば体が勝手に動いてしまうのか。
たとえそれが弟を死に追いやった相手でも。
「私は合流しないかもしれないと伝えてあります。ここで死んでも誰にもバレませんよ」
あなたはただ目を閉じて振り向かずに歩き出すだけでいい。
そう言ったら彼は怒りの形相で私の胸ぐらを掴み、なぜかそのまま骨が折れそうなほど強く抱き締められた。
「お前が死んで今さら何になるんだ。チャップは帰ってこねえんだよ。どうしたって、あいつはもう生き返らねえんだよ!!」
でも……このまま抱き殺されるなら、たぶん私には不相応なほどに幸福だ。
どれくらいそうしていただろうか。やがてワッカの腕から力が抜ける。
彼の手が震えていた。そこにあるのは怒りか、殺意か、悲しみなのか、分からない。
「……私、ついて行かない方がいいですか?」
「知らねえよ。ユウナに聞け」
俺には関係ない、今までそうしてきたように勝手にすりゃいいと、譫言のように呟く。
互いに座り込んだまま、私はどうしていいか分からなかった。
赦されたなんて思うわけがない。ならば、断罪する価値もないと切り捨てられた。そういうことなのかもしれない。
「ワッカ。すみません」
「謝って済むと……どわっ!?」
彼の腕を掴んで、さすがに投げるのは無理だったけれど強引にスノーバイクに乗せる。
「もう寺院に向かわないと。ユウナのために我慢してください。……彼女はリュックのことを知っていました。アルベドを憎むことは、ユウナをも傷つけます」
ユウナの母がアルベドだと知った時、ワッカもまた傷つくだろう。
「憎むのは私だけにしてください。私は何をされても抵抗しませんから、首を絞めたくなったらいつでもどうぞ」
彼が降りてしまう前にエンジンをかけて走り出した。風の音に紛れて背中で小さな声が聞こえた。
「……自棄になりてえのは俺の方だってんだよ……」
崖際に注意を払いつつ最大速度でマカラーニャ寺院を目指す。リュックたちはどこまで行っただろうか。
ワッカはひたすら黙って後部席に座っている。だから注意を払っていなかったのだけれど。
「俺を避けてたのはアルベドだってバレないようにか」
「え!?」
話しかけられると思っていなくて、しかも内容が内容だったので思いきり動揺してしまう。
ハンドル操作を誤りそうになって焦った。クレバス側に突っ込んだらワッカを道連れにして死んでしまう……。冷静でいなければ。
彼を避けていたのはただひたすら身勝手な理由だからあまり言いたくはないのだけれど。
「……打ち明けて、嫌われたくなかったからです」
いずれこの時が来るのは分かっていた。だから憎まれる前に、嘘でもいいから優しくされたかった。
背後で自棄のようなため息。向けられていた好意が消え失せてなお、まだ彼と一緒にいられることが嬉しかった。
「報われるわけねえのに、まだ俺が好きだってのかよ」
「私がワッカを嫌う理由はありません」
「お前、馬鹿だろ。あんだけのこと言われりゃ普通……、嫌になるだろーが」
「私を傷つけたのは、自分がしたこととしなかったことの結果だけです」
振り返ってみてもワッカに傷つけられたという記憶はない。
彼の瞳が、一歩を踏み出せずに踞るばかりだった私の世界を変えたんだ。他のことなど何一つ重要ではなかった。
憎まれようと嫌われようと、どんなに罵倒されたとしても、私は彼に焦がれ続けるだろう。
誤解ゆえの優しさだと知った今でも、差し伸べられた腕が私の心を掬い上げたのは確かなのだ。
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