08
幻光河の北には雷平原が広がっている。
一緒に行こうと誘ったもののリュックに悪いなと思っていたら、その手前で足止めを食らってしまった。
リュックは安堵の表情を見せていたけれど、どちらにせよ明日には行かなければならないのは分かっているのだろうか。
分かってて考えないようにしてるのかもしれない。
とにかく、雷平原に向かう前にみんなでグアドサラムに立ち寄ることになった。
キノコ岩街道でも出会ったシーモア=グアドがユウナを自分の邸に招いたのだ。
私はあの男がどうにも苦手なので遠慮させてもらった。どうせ招かれたのはユウナなのだから、ガードが一人いなくても構わないと思う。
他のみんながシーモアの邸に行っている間、グアドサラムを観光することにした。
グアド族はもっと尊大で排他的だと思っていたけれど、若い人は意外とそうでもない。
アルベドが町を彷徨いても追い出そうとする者はいなかった。
「異界には行ってみましたかな?」
「えっ!? い、いえ」
急に話しかけられて飛び上がってしまう。
振り向いたら、グアドではなくヒトの老人がニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。
何の用なのかと思う間もなく彼は語り始める。
「異界とは、異界送りで発生した幻光虫が集まり……、死者が生きていた頃の姿をとって現れる場所でしてな。なんとも不思議な現象ですが、仕組みはよく分かっておらんのですわ」
私に話しかけているのかどうか自信が持てない。しかし他に誰もいない。なら返事をするのが礼儀だろう。
「異界を訪れた生者の想いに幻光虫が反応しているだけです。スフィアと似た仕組みでしょう」
「アルベドの者たちはそのように言いますな」
「あ……」
まずいと口を噤んでみたけれど彼はまったく気に留めていなかった。
私がアルベドだと気づいたわけじゃないのか、それとも偏見がない人なのか。
「しかし異界に現れるのは死者のみ、生者の姿は出て来やせんのです。この仕組みが分かっとりませんな」
「それは……そうですね」
異界に現れるのは死者の魂ではなく、人が発する電気信号に反応して幻光虫が記憶を写し出しているだけの単なる幻だ。
教わるまでもない常識としてそう理解していたけれど、改めて言われると疑問がわいてくる。
ただ記憶を写し出すだけなら生者の姿も現れるはずじゃないか。
なんだかペースに呑まれてしまって、つい会話に応じてしまう。でも彼の話は面白い。
「生者の心には、死者の想いが住み着いとるのかもしれません。それが幻光虫の力を借りて、生者に会いに来るのではないかと……いやいや、証拠などありゃせんのですがな」
「夢のあるお話ですね」
私がそう答えると老人はとても嬉しそうな顔をした。
「夢といえば、召喚獣にも幻光虫が大きく関係しとるようです」
「祈り子も、死者といえば死者ですね」
「ふむ。召喚獣は祈り子の夢が召喚士の精神を通じて、そう、現実の世で形になったもの、そのように推理しとります。まあ、それも証拠などありゃせんのですがな」
「石像に住み着いた死者の想いが、召喚士の力を借りて……ですか」
彼の言う通り、召喚獣という例を考えれば幻光虫は確かに肉体を持たないはずの“死者”の想いにも反応を見せるのだ。
想いが生者の中に留まるならば、異界に現れるのは本当に死者の魂……その一部なのかもしれない。
老人は髭を撫でつつ穏やかに微笑んでいる。間違いなくヒトのようだけれど、何の隔たりも感じないのが不思議だった。
「若い人を長話に付き合わせてしまいまして」
「いえ、ありがとうございます。とても興味深かったです」
正しさを押しつけるでもなく静かに語る。その口調が心地好くて素直に聞けたのだろうか。
「……私も、異界に行ってみます」
「それはよいことです。真実の姿を知れば、きっと笑顔も真実になりますな」
エボンの真実は私たちの真実とは相容れないもの。欺瞞と虚飾に満ちた嘘だと思っていた。
だけどもしかしたら、形が違うだけでどちらも真実には違いないのかもしれない。
これまでなら考えもしなかったことだけれど、今は単純に興味を抱くことができた。
異界に向かう途中、シーモアの邸から出てきたユウナたちと合流する。
「話、もう終わりました?」
皆なぜだか暗い顔をしていた。リュックがぽそりと耳打ちをしてくる。
「ユウナね、シーモアに結婚申し込まれたって」
「……へ?」
呆気にとられる私にユウナが苦笑する。
「異界で父さんに会って、よく考えようと思って」
「そ、そう……ですか」
結婚。ユウナが、あのシーモアと? どうしてそんなことになったんだろう。
やっぱり私も邸に行けばよかったと思ったけれど、そうしていたら異界の話は聞けなかったんだ。
まあ、召喚士の旅についてはまだしも結婚なんて個人的な問題だ。
受けるも断るもユウナが自分で決断するだろう。
異界の入り口に来ると、アーロンとリュックは足を止めた。
そのまま進もうとする私にリュックが意外な目を向ける。
「ユクティ、入るの?」
「……うん」
アルベドとしてではなく私自身の目で、異界というものを見てみたい。
今まで教えられてきたものがすべてではないかもしれない。エボンの教えのことをもう少しちゃんと知りたい。
最近、そう考えるようになったんだ。
異界の風景それ自体は聞いていた通りの光景だった。
どこまでも広がる空と大地、美しくはあるけれど非現実的な空間。
異界送りされた死者が辿り着く場所……。
アルベドは異界送りをしない。本当に死者の魂が現れるなら、私にはここで呼び出せる相手などいないはずだった。
なのに崖に立った瞬間、目の前に幻光虫が集まり始める。
「あ……」
私の眼前にも死者の像が現れた。けれどその人は、アルベド族ではなかった。
「チャップ……?」
振り向くと、隣に立っていたワッカが目を見開いて幻影を見つめている。
「ユクティ、チャップのこと知ってたのか?」
「……彼が……チャップだったんですか……」
ワッカが呼び出したのであればどんなによかっただろう。
でも私はこの人を確かに知っている。チャップは私の記憶に反応して出てきたんだ。
「ごめん、なさい」
「べつに謝るこたねえだろ。でも、どこで知り合ったんだ?」
急に転がり込んできた真実の重さに心が潰れてしまいそうだった。
今ワッカが私に向けてくれている優しさは、私の嘘に騙されているからこその寛容だ。
真実を知れば彼は私を許さない。怒りに任せてこの崖から異界の底へと私を突き落としたいと願うはずだ。
もういっそのこと、この場ですべてが明るみにならないだろうか。
そうすれば彼は間違いなく私を憎む。本来そうなって然るべきだったんだ。
「私は、一年前のジョゼ防衛作戦に参加していました」
「ああ……、そうだったのか。じゃあお前も討伐隊でチャップと?」
「……」
違う。私は……アルベドだからそこにいたんだ。そしてチャップは……彼が死んだ時、私は……。
喉に鉛でも詰まっているみたいに言葉が出てこない。
ワッカは私の沈黙を好意的に誤解したようで、なぜか頭を下げて謝った。
「生き残って討伐隊を抜けたってことは、嫌なもん見たんだろ。……思い出したくないよな」
「いいえ……」
むしろ逆だ。ミヘン・セッションの時にチャップの名前を聞いて私は思い出すべきだった。
その名をいつどこで聞いたのか、思い出さなければいけなかったのに。
私は何も覚えていなかった。ここで彼の顔を見てワッカが呼ぶまで、彼が「チャップ」と名乗っていたこと、思い出しもしなかったんだ。
ワッカは私から目を逸らし、弟の魂と見つめ合う。
「すぐ会いに来るつもりだったけどよ。半年前は……まだ気持ちの整理がつかなくてな。すまん」
私の記憶に反応したということは、私の心の中にチャップの想いが住み着いていたのだろうか。
だとすれば、彼はワッカやルールーのもとに帰るべきだ。
私の元になど、いてはいけない。きっとチャップも望むはずがないのだから。
「お前になんとなく似てるやつが現れてな。そいつと一緒に旅してるうちに……思った。お前もどっかで生きてるんじゃないかってよ」
チャップが死んだのは私のせいだ。
「……でも、やっぱりお前は異界の住人なんだよな。はっきり分かったよ」
なのに私は彼のことを忘れていたんだ。
「そっちは、どんなところなんだろうなぁ」
ワッカから弟を奪ったのは私だった。
一体どの面さげて彼の優しさを甘受し、あまつさえ嫌われたくないなんて願うのか。
「カサキマ、イシルミハ」
「んっ? 今なんつった?」
「……」
「おい、ユクティ……? どうしたよ」
アルベド族だと知られ、エボンの民がそうするように理不尽な理由で嫌われた方が、ずっとマシだったのに。
生まれなんて関係ない。彼に憎まれる理由は私自身にあったんだ。
その真実を知ってなお、私の口は彼に本当のことを告げようとしない。
「あなたといると自分がひどく薄汚れた人間に思えます」
「……へ!? な、なんだそりゃ、どうしてまた?」
「思える、じゃないですね。実際……とても醜い」
彼にしてみれば唐突に私が深い自己嫌悪に陥ったように思えただろう。
戸惑うワッカに背を向けて、異界の出口へと駆ける。
「ユクティ!」
振り向いて呼びかけに応えても、この期に及んで私は彼に真実を話せない。
そばにいるのが耐え難い苦痛なのに離れるのが嫌だと醜い嘘をつき続けている。
異界から出るとリュックが私の顔を見て瞠目し、慌てて駆け寄ってきた。
「ユクティ、だいじょぶ? やっぱ異界なんて入らない方がよかったんじゃない?」
そんなことはない。確かに心は乱れに乱れ狂っているけれど、異界で真実を見つけたんだ。入ってよかったと思う。
『過去と向き合うのも大切なことだって思い知ったよ』
『誰か出てきたの?』
『私の罪がね』
『……ね、ねえユクティ、ほんとに大丈夫?』
唾棄すべきものと蔑んできたエボンの教えにこそ真実があったんだ。
私は死に値する罪人である、という、避け得ない真実が。
やがてユウナたちも戻ってきて、彼女はシーモアの申し入れに返事をするため邸に向かうことになった。
顔を見る限り、断るつもりでいるようだ。ユウナは旅を望んでいる。結婚なんてするはずがない。
ワッカが困ったような顔で私を見ていたけれど、話しかけられる前に騒ぎが起きた。
「ジスカル様!?」
異界の境目から死者が這い出ようとしている。それは誰かの記憶を写し出した幻ではない。明らかに、死んだ者が遺した想いだ。
人は死ねば消えてゆくだけだと、今まではそう信じてきた。
死者の想いが消えずに残るものならば、これまでに死んでいったアルベドはどうなってしまったのだろう。
異界の中でユウナはブラスカに出会った。彼の傍らには小母さまがいた。彼女は穏やかに微笑んでいた。
過去の想いを切り離し、留まらずに消えてゆく……そんな私たちの信仰が、やけに淋しく感じられる。
スピラにしがみつこうと足掻いていたジスカル=グアドの魂は、ユウナによって送り返された。
「どういうことだ? なんでジスカル様が?」
「老師様が送られずに亡くなるなんて……」
戸惑うワッカとユウナに、沈痛な面持ちでルールーが答える。
「異界送り、されたのかもしれない。それでもスピラに留まった。強い、とても強い想いに縛られていたら、そういうこともある……らしいわ」
生者の心に住み着いた想いがあまりにも離れ難くて、異界から戻ってきてしまった。
命の在り方として歪なのだろうけれど、今の私はそれを間違っているとは思えない。
チャップも戻ってきてくれればいいのに。そしてワッカの優しさを受け取るべきだ。
それは私ではなく、彼に向けられるべきものだったのだから。
← | →