×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



🔖01



 六歳の時、私は死にかけたらしい。まるで他人事のようなのは、当時のことを自分ではよく覚えていないからだ。ただ両親から耳にタコができるほど何度も聞かされたので、そうだったんだと納得している。
 兄と一緒に郊外へ遊びに行って、一人はぐれた私はモンスターに襲われたのだった。そこまではなんとなく覚えている。
 恐怖の実感がわかなくて、迫りくるモンスターを前に私は何が起きているのか理解できていなかった。
 気づいた時には包帯でぐるぐる巻きになって家のベッドに寝かされており、母は泣きじゃくっているし、父には兄から離れたことをしこたま叱られた。
 モンスターを倒して私を救ってくれたという兄も、押し黙って私を睨んでいた。正直なところモンスターよりも兄が無言で怒っていることの方が怖かった。

 堰を切ったように涙が溢れてきた。父が母を連れて部屋を出ていくと、わけも分からず泣きじゃくる私の腕を掴んで兄は言った。
「お前が助かったのは宿命だ」
「……しゅくめいって、なに?」
「もし俺がついていなければ、死んでたんだ」
「わたし、しゅくめいのおかげで助かったの?」
 物心つく前から父と一緒に山籠りをして鍛えていた兄は、その時点で私のひとまわり以上も大柄だった。逞しい腕が私を引き寄せ、私は兄の胸に頭を預けた。
「ユリ、強くなれ。宿命を変えることはできない。強くなって、自分の力で生きてゆけ」
 単なる修行マニアだと思っていた兄が私の中で頼もしい存在になったのは、たぶん、その頃からだったと思う。

 十歳の時に私は兄にプロポーズをした。今にして思い返すとバカすぎるのだけれど、兄妹が結婚できないことを知らなかったのだ。
 大きくなったらお嫁さんにしてね、なんて、拙い言葉でも当時の私は真剣だった。
 兄は始め、いつもの無愛想も崩れてすごく驚いていた。ぽかんと口を開けた表情がおかしくて私はくすくす笑った。
「俺は妻も子もいらん」
「そんなことないよ。きっといつか、欲しいと思う日がくるよ。宿命だよ」
「……武道家の妻なんかになるもんじゃない」
「でも私は、強い人のお嫁さんになりたい!」
 そしてその条件に当てはまるのは父と兄だけなのだ。父はすでに母と結婚している。だから当然、私は兄と結婚するつもりだった。

 あの時、兄が「兄妹は結婚できない」とは言わなかった理由が今は分かる気がした。
 兄はあれで私に甘いところがあった。だから私自身の力でどうしようもないことを理由に断りはしなかったのだ。
 私が妹だから駄目なのではなく、あくまでも自分が妻子を求めていないから、と言った。
 間の抜けた実妹の戯言を一応真剣に受け止め、考えてくれたのだ。私は兄のそういうぶっきらぼうな優しさが大好きだった。

 十三歳になる頃、私は兄の「強くなれ」という言葉を胸に生きていた。
 最初は私も兄に倣って父に師事し、格闘技を身につけようとしていた。しかしとうの兄に止められた。私がやろうとしたことに兄が反対したのはその時だけだった。だから私も兄の意思を尊重した。
 ではどうやって強くなるべきか。私はサウスフィガロの剣術学校に通うことに決めた。これは兄も止めなかった。むしろ私がよい成績をおさめるたびに褒めてくれたので、すぐに同期生たちでは追いつけないほどに強くなった。
 もう兄妹が結婚できないことは知っていたけれど、まだ私は「兄さんのお嫁さんになる」を口癖にしていた。
 半ば本気で「本当の兄妹じゃなければよかったのに」と胸のうちでは思っていた。

 私が剣を学ぶのに並行して、兄は本格的に奥義を継ぐための修行を始め、それまで以上に長くコルツ山に籠るようになっていた。
 滅多に家に帰ってこないので私の方から修練小屋を訪ねるようになった。
 食事の仕度をして、洗濯をこなし、修行に明け暮れて家事には無頓着な父と兄の世話をする。
 たまに二人がサウスフィガロに帰ってきた時には、母は父を、私は兄を、彼らが嫌と言っても聞かず徹底的に面倒を見た。
 団欒の時間が今までよりずっと大切になっていた。

 十四歳の時、もう一人家族が増えた。父がサウスフィガロの郊外で拾ってきた大人しそうな少年だった。
 身寄りがないという少年、マッシュは父のもとで修行をすることになった。
 兄はライバルの出現に不機嫌そうだった。しかしすぐに態度を改め、自分より下の存在ができたことで修行にも張り合いが生まれたようだった。
 大人しく頼りない少年に追いつかれてたまるかとばかり修行に打ち込むようになった。

 マッシュは人懐こい性格で、私たち家族にすぐ馴染んだ。
 共に食事をすること、同じ部屋で眠ること、何気ないことを彼は大袈裟に喜んだ。
 父の厳しい稽古にも決して弱音を吐かなかった。マッシュの存在が刺激となって兄もますます腕をあげた。
 ……とても平和だった。何の問題もないように見えた。いつから歪み始めていたのか、今になっても私には分からなかった。



 真夜中、扉を叩く音がして、飛びつくように玄関へ向かった。コルツ山の様子を見に出かけていたマッシュが帰ってきたんだ。
 母さんが震える声で尋ねる。
「主人とバルガスは?」
 マッシュは目を伏せ、俯いたまま答えた。
「先生は、バルガスに……」
 途切れた言葉の続きは聞かなくても分かってしまった。

 マッシュへの対抗心はいつしか兄の心を深く蝕んでいった。
 父は体力において劣っていたマッシュに目をかけ、息子に対する以上に厳しい稽古を施した。それが兄には気に入らなかったのだ。
 父と子の間にいつしか芽生えていた蟠りが、ついに先日、破局を迎えた。
 バルガスは父に果たし状を出した。そして父はそれを受け取った。二人はコルツ山に籠り、さすがに勝負は決したはずの時間になっても帰らなかった。
 三日前、マッシュは二人を探しにコルツへ赴いた。そして持ち帰った結果が……これだ。

 バルガスが父さんと反目しているのは分かっていた。もしかしたら奥義を継ぐことなく独立するかもしれないと思っていた。
 でもまさか、父さんを殺すほど憎んでいたとは、気づかなかった。……気づくことができなかった。
 これは私たちにも責任のあることだった。母さんは表情を引き締めてマッシュに告げた。
「武の道を志した以上、あの人もこうなる可能性は覚悟していたでしょう」
 結局のところ二人は父子である以上に武道家だったのだ。決闘の勝敗が生死を左右するほどに。

 私は俯いたままのマッシュの肩を揺すった。
「ねえ、それでバルガスは?」
 父さんが負けた。そして命を落とした。では、なぜ兄が帰ってこないのか。
 マッシュが一人で帰ったのだから聞くまでもないことじゃないかと、心のどこかで自分を嘲笑いながら。
「兄さんはどこに行ったの?」
 私の問いかけに、マッシュはようやく顔を上げた。
「俺が殺した」

 部屋に乾いた音が響いた。手のひらがジンと痺れるのに痛みは感じなかった。
 片頬をじわりと赤くしてマッシュは母さんに向き直る。
「兄弟子は小屋の脇にある庭に埋葬しました。お師匠様の遺体は……見つけられなかった」
「……そう」
 目の前で起きていることが信じられなかった。兄の死を「そう」で済ませる母さんのことが。バルガスを殺しておきながらここに立っているマッシュのことが。
 父も兄も、すでにこの世の人ではないということが。何もかも信じられなかった。

 幼い私が死にかけた時には枯れるほど泣いたくせに、母さんはあろうことかマッシュに微笑みかけた。
「主人もあなたに技を残せて思い残すことはないでしょう……」
 武道家の妻なんかになるもんじゃない。やはり兄は正しかったんだ。愛する人の死を粛々と受け入れなければいけないなんて。

 母さんは表情を崩すことなく、マッシュに問いかけた。
「これからのことは考えているの?」
 この家に住み続けるなんて認めないと私が口を挟む前に彼は言った。
「リターナーに加わり、お師匠様に頂いた技で帝国と戦うつもりです」
「あなたの勇気を讃えます。夫の遺志、どうか継いでいってくださいね」
「……この十年間、家族のようで楽しかった。お世話になりました……!」
 悲鳴のようにそう告げて、マッシュは我が家を去っていった。

 リターナー……帝国……? 現実味がない。そんなものは私たち一家と関係のない事柄だった。私が知りたいのはそんなことじゃない。
 兄さんはどうして帰ってこないの。……マッシュが殺したから。あの男が。バルガスを兄のように慕っていたくせに。
 あの男が兄さんを殺した。
 これが兄さんの宿命だというの? 己の武を頼みに父を殺し、そして弟弟子に殺されることが?

「おかあさん」
 マッシュが去り、開けっぱなしの扉に向かって呟いた。
「涙が出ないの。私、おかしくなったのかな」
「私も泣いていませんよ、ユリ」
「何も感じられない。兄さんがいなくなるなんて、考えたこともなかった。私これから……どうしたら?」
「あなたも考えるのです。自分が何を為すべきなのか」
 いつまでも続くと思っていた幸せな日々が脳裏を過る。鍛練に励む彼の傍らで、ずっとずっとそれを見守って暮らす、訪れるはずだった明日がもう来ない。

 何もしたくない、何も感じたくない、喜びも幸せもいらない。
 幸せになったから何だっていうの。幸せを失ったからどうだというの。
「人間ってなんで脳があるんだろう。私、草にでも生まれればよかったのに」
 それなら兄の死に涙さえ流さない自分をもどかしく思うこともなかったのに。
 悲しみが見つからない。だったら、兄の死を悲しむことができないのなら、もう他のどんな感情もいらない……。

 家の外には夜の闇が広がっている。
「マッシュについて行く」
「ユリ、復讐など考えてはなりませんよ」
「それはマッシュの行い次第だよ」
 まだあいつは街を出ていないだろう。今から追えば間に合うはずだ。


🔖


× 1/13 

back|menu|index