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🔖てのひらの温度
何かが満たされない、何かが欠けている。……そんなことじゃなかった。
自分という存在そのものがすっぽり抜けてどこかへ落ちていったような感じだった。
名前も性別も分からない。いや、性別は……確かめたところ男みたいだ。
「あーーー」
声を発してみる。聞き覚えがあるはずなのに、自分の声だと実感できない。
自分が何者なのかも分からずに、どこだか知らない場所で目覚めてしまった。
何でもいいから手がかりはないかと辺りを見回してみる。
天井は高いけれど狭い部屋だった。
きらびやかな装飾が壁一面に施されている。でも目がチカチカするような派手さはなくて、どちらかといえば厳粛な雰囲気だ。
なんだか……すごく居心地が悪かった。ここにいてはいけない、そんな気分にさせられる。
ふと俯いた拍子に赤い布が目に入る。
周りが派手すぎて気づかなかったけれど、すぐ近くに人が倒れていた。
こんなデコボコの床で寝ているわけでもなし、見たところ死んでいる様子もない。
床に広がる深紅。まるで血のようだ。
とにかく、この人を起こそう。空っぽの頭に現在の状況なんかを吹き込んでくれるかもしれない。
そう期待して手を伸ばしかけた瞬間、ぞくりと肌が粟立った。
何かいる。背後を振り向くと、さっき部屋を見渡した時には居なかったものがそこにいた。
人間……じゃ、ない。少年の姿をとっているけれど、透き通ってるし、存在感もない。本能がそれを異形のモノだと知らせている。
それは思いの外、気安い声で話しかけてきた。
『目が覚めたんだね』
見ての通りだ。でも覚めているのは目だけで、頭は現実に追いついてない。
『君も……もう、自由だよ』
その言い方はここに捕らえられてでもいたのだろうか。
自分が罪人だったとしたら嫌だな。だって何をしたかも覚えていないのに。
『もしかして、覚えてない?』
「……」
その問いに、黙って頷く。少年は困ったような顔をして笑った。
『……それもいいかもしれないね』
そしてそのまま部屋に満ちた幻光虫の光に混じって消えてしまった。
床に倒れている人に視線を戻す。今のやり取りが気にならないわけじゃないけれど、どう考えてもこちらが優先だ。
揺さぶってはいけないかもしれないので、肩のところを軽く叩いてみる。
「……う、っ……」
幸いにも彼はすぐに目を覚ましてくれた。
あとはどうか彼が記憶喪失ではありませんようにと祈るだけだ。
ゆっくりと体を起こし、目眩がするのか眉間を押さえたあと、彼はこちらを見て呟いた。
「祈り子様……?」
「え?」
そんな、ちょっと祈ったからって祈り子だなんて安直な。
「いや、違うな」
よかった、違うらしい。祈り子……この部屋と同じ、なんとなく嫌な感じがする。
しばらく呆然としていた彼は、ハッとしたように姿勢を正した。
「私は従……いや、召喚士ブラスカ。君は誰だ?」
「僕は……」
あ、いま口が自然に「僕」って言った。ということは僕の一人称は僕なのか。
「僕は……誰?」
けれど相変わらず他のことは何も分からなかった。
召喚士ブラスカも僕が誰かを知らないようで、困った顔で首を傾げている。
「記憶がないのかい?」
「……たぶん」
「それは困ったな」
「うん。さっきから困ってる」
「どこから入ったんだろう。私が来た時に君は居なかったし、後から入ろうとしてもアーロンが止めないはずもないし」
そう言って召喚士ブラスカの視線が逸れる。
壁の装飾に紛れるように扉があった。あれがこの部屋の入り口らしい。
僕は誰なのか。答えを出せないまま、召喚士ブラスカは立ち上がる。
「とにかく外へ出ようか。二人が心配するといけない」
「……うん」
他にも人がいるらしい。でもきっと、彼に分からないならその二人にも僕の正体は分からないだろう。
召喚士ブラスカの後について部屋を出ると、男性が二人、待ちかねたように駆け寄ってきた。
「ブラスカ様! ご無事でよかった」
「こいつと二人きりで退屈だったぜ。……って、なんだそのガキは?」
どことなく召喚士ブラスカに似た格好の、赤い着物の男。もう一人はボサボサの髪で粗野な印象だ。
二人は僕をしげしげと眺めて言い立てた。
「アルベド族のような格好だな」
「ってより、ザナルカンド風じゃねえか! よう坊主、お前どっから来たんだ?」
「知らない」
「あぁん?」
「覚えてない」
「なんだよ、記憶喪失かよ。怪しいやつだな」
「貴様が言うな。ブラスカ様、この子供は……?」
召喚士っていうのは名前じゃなくて、彼はブラスカっていうんだな。なんて、ちょっとずれたことを考えていた。
赤い着物の男に尋ねられてブラスカも「分からない」と首を振る。
「私が試練を終えると、祈り子の間にこの子がいたんだ」
「どこかの子供が悪戯に忍び込んだのでしょうか」
「そんなことは不可能だろう」
「……そう、ですね」
どうも僕は“不可能な状況下”に現れてしまったみたいだな。
野性的な男が「おっ」と声をあげた。
「お前、いっちょまえに指輪なんかしてんじゃねえか」
「まさかこんな子供から奪い取る気か、貴様!」
「俺を何だと思ってやがんだ。ほら、贈り物かもしれねえだろ?」
なるほど、指輪に僕の名前があるかもしれない。
意外にも鋭い指摘をする男に言われて僕は左手の人差し指に嵌まっていた指輪を外してみる。
「『愛するリツへ』……」
本当に名前が彫ってあった。僕を愛する誰かからの贈り物……。
「どうやら君はリツという名前みたいだね」
でも僕は、これの贈り主のことを忘れてしまった。
ついでだからとブラスカが二人を紹介してくれる。
「こっちは元僧兵のアーロン。そしてこっちが、ザナルカンドから来たジェクトだ。……さっきリツの服が“ザナルカンド風”だと言っていたね。もしかすると……」
「俺と同じところから来たかも、って? 俺もそう思ったけどよ、本人が覚えてねえんじゃなあ……」
ザナルカンド……。聞き覚えがあるといえばそんな気もする。
でもさっきジェクトが口にした言葉だから既視感があるだけのような気もする。
要するに、さっきからずっと同じことだ。
何も分からない。僕は空っぽだった。
やがてアーロンが焦れたように問いかける。
「ブラスカ様、この子を連れて出るのですか」
「ここに放ってはおけないよ」
「それはそうですが……衛兵に何と?」
「うーん」
「僕がいるとまずいの?」
そう聞いてみると、ブラスカは肩を竦めた。
「私は構わないがね。三人で入った部屋から四人で出るとなると、詰問されるだろう。君をどうやって守ればいいか……」
当たり前のように僕を守るというブラスカに少し驚いた。
この部屋の外には見張りがいる。そいつはブラスカたちが三人組だと知っている。
そして僕がここに現れた理由を誰も説明できない。
「……そういうことなら、なんとかなると思う」
目を閉じて集中する。体が覚えているままにそれを行う。
薄膜の向こうからくぐもったアーロンの声が聞こえる。
「なっ、き、消えた!?」
「幻光虫を僕の周りに集めたんだ。これで目眩ましにできる」
こちらの声も届きにくくなるので、心持ち大きな声で説明する。
次に聞こえたのはジェクトの声だった。なんだか嬉しそうだ。
「そりゃまた便利そうな能力だな!」
「下品なことにしか頭が働かんのか、貴様」
「おやおや、俺は一般論を言っただけだぜ? ナニを想像したのかねえ」
悪戯をして逃げる時には便利な特技だと思う。……僕にも、叱られるような相手がいたんだろうか。この指輪をくれた人だろうか。
それから、ブラスカが不安そうに呟くのが聞こえた。
「リツ……そこにいるのかい?」
「さっきから一歩も動いてない。これをやると僕もそっちが見えないんだ」
「一度、その術を解いてくれないか」
言われるままに幻光虫を解放する。三人が驚きに目を瞠った。
「衛兵の目を誤魔化せるのはいいが、君からも周りが見えなくなるのは不安だな」
そう言ってブラスカは僕の方へと手を差しのべる。思わずその手をとると、優しく握り返してくれた。
「こうしよう。手を繋いでいたら、私もリツを見失わないし、君もなんとか歩けるだろう?」
「……うん」
前にもこんなことがあった気がする。大きくて熱い手のひらに引かれてどこかに向かって歩いていた。
こうして僕はブラスカたちの旅について行くことになった。
彼は世界をほぼ踏破する使命を負っている。だからきっと、どこかで僕の記憶も見つかるだろう。
自分が何者なのか思い出せるまで、僕を満たしてくれるのはブラスカの手のひらが与えてくれるあたたかさだけだった。
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