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🔖触れる前に拒絶。触れた後には甘受。



 ゾゾ周辺の空には切れ間なく雨雲が広がっている。
 それだけでも極力避けたい場所なうえに、街に近づいてあそこの住民に目をつけられるのも面倒だ。
 ブラックジャックはジドールの近くに降ろすことにした。

 もうじき到着だとユリを呼びに行く。どうも夕食の後からずっと部屋に引きこもって書き物をしていたらしい。
 帳簿かと思ったが、書き連ねられていたのはよく分からない呪文のような文字ばかりだ。
「何だそりゃ」
「幻獣界から連れ去られた幻獣の名前と使える魔法一覧。ラムウに教えてもらったのを忘れないうちに書き写しとこうと思って」

 幻獣。魔導の使い手、神のしもべ、千年も昔に滅んだとされる異形の獣、今となっては御伽噺の中にしかいない存在……だと思っていたもの。
 帝国はそいつらの隠れ家を暴いて魔導の力を奪い取り、セリスのような人造魔導士を作って世界征服に乗り出した。
 一方で反乱組織リターナーはガストラの暴走を止めるため、虐げられている幻獣たちを味方に引き入れようと画策している。

 とうに消え去ったと思われていた破滅の力が蘇り、再び魔大戦が巻き起こりつつある。
 突拍子もない話だが、現に魔石とやらを持って一般人が魔法を使っている以上は信じるしかない。
 まあ、魔大戦時代の魔力が籠められた遺物ってのは、あるところにはあるもんだからな。
 だったら生き残りの幻獣がいるってのも、そう不思議なことじゃねえか。

 ちなみにその幻獣ラムウってやつこそが、ブラックジャックに乗る前にユリが“世話になっていた人”らしい。
 ラムウは俺たちがマリア誘拐計画のために駆けずり回ってる間に死んで、魔石になっちまった。
 そもそもユリは誘拐の手伝いなんかしてなかったんだ。俺が替え玉であるセリスをうまく攫うようにお膳立てしているだけだった。
 ……だが、騙された苛立ちを差っ引いても、あの時こいつをゾゾに連れて行ってやればよかったという後悔は残っている。

 それにしても、ユリの書き付けを見る限り幻獣の名前ってのは覚えにくいものばかりだぜ。
 ラムウやキリンなんて簡単なのはいいが、ビスマルクだのカトブレパスだのミドガルズオルムだの、わざと間違って覚えさせようとしているのかと思う。
「ヴァリ、ガ、ル……長い名前だな」
「ヴァリガルマンダ。リとルを間違えやすいからヴリトラガルーダサラマンダーって覚えるといいよ」
「余計ややこしいだろ」
 もう忘れちまった。ヴァルガリマンダだっけか? ヴァリガリ? 絶対に覚えられない自信があるぜ。

 忘れないうちに書き留めようとするのも尤もな話だ。
 というかユリがラムウと過ごしたのは一日か二日程度だったって話なのに、まだ覚えてるのが凄いくらいだ。
 それも、そいつらの持つ魔導の種類まで。無駄に物覚えだけはいいんだよなあ、この女。

 ベクタの研究所に残っていた幻獣は六体、取り戻した時には全員が力尽きて魔石化してしまった。
 だがユリによると、ガストラのもとから逃げ出したものの幻獣界に帰れず、行方不明となった幻獣が結構な数いるそうだ。
 そいつらが今も生きてりゃ魔石の力を察知して向こうから来るかもしれない。もし死んでいたら……魔石を探してやるべきなんだろうな。

 中心に光を湛えた透明な結晶。見た目にも美しい魔石ってやつは観賞用に貴族が欲しがりそうな逸品だ。
 正直、金持ちの家を探せば一つや二つは出てくる気がする。
 と思ったらユリはすでにアウザー氏経由でその辺りも探っていた。抜け目ないヤツだぜ。


 ゾゾに隠れているというリターナーの仲間は、幻獣と同じ魔導の力を生まれながらに持つ人間の娘だ。
 一時期ベクタで噂になった例の魔導兵器の正体こそが、そのティナって名の娘だったらしい。
 北のナルシェで氷漬けの幻獣に対面した後、その娘の力が暴走した。ユリはかなり無茶をしてそいつについて行ったのだとロックが言っていた。
 俺がユリを拾ったのはその後ってことだな。

 帝国へ向かうのに飛空艇を欲し、俺に取り入ろうとマリア誘拐を手伝い、後を追って来てるはずのセリスたちを船に引き入れるべく奔走。
 すべては“ティナ”のためにやったことだった。
 ユリにとっての命を賭けてもいい相手ってやつか。

 だが俺とユリでは賭けの意味合いが違っている。
 俺は勝ちを前提にセリスに命を預けただけだが、ユリは自分の運命をまるごと相手に遣ってしまう。
 失うものが大きすぎて、だから裏切りを怖れ、相手を疑うはめになる。
 大金を貸した相手に逃げられて身を持ち崩すようなもんだ。信頼ってのは有償なんだぜ?
 信じていいのか迷うようなヤツに賭けた自分が悪いのさ。手のひら返した相手を恨むのは筋違いだろう。

 また喧嘩になっても面倒なんで蒸し返す気はないが、それだけの想いを傾けながらユリもティナとやらを疑うことがあるんだろうか?
 ……しかし考えてみると、ロックに「疑ってもいい」とは言ったがユリ自身が「セリスを疑っている」とは言わなかったな。
 いつもいつも、テメェの本音はうまいことはぐらかしやがって。

「そういえば船長って、本当にマリアに惚れてたの?」
「……あ?」
 腹ん中で毒づいていたらユリが何か言ったのを聞いてなかった。
 いつの間にか幻獣の名前を書き出す作業は終わっている。

「マリアに惚れてたのか、って。嫁にしようとしてたんでしょ?」
 それは口実にしただけだ。マリアはいい女だがブラックジャックに乗せたくはない。
 あいつと結婚したらどれだけの貴族に決闘を申し込まれるか知れたもんじゃないぜ。
 ま、軽い気持ちで口説いたらあっさりフラれたんで、腹いせに攫ってやろうと画策したのも事実だが。

「本気で口説くつもりなんかねぇよ。あいつは他に惚れたヤツがいるしな」
「ええっ、誰!? って言われても私の知らない人だろうけど」
 女ってのはこの手の話題を好みがちだが、コイツが食いついたのをなんとなく意外に思う。
「オペラ座のダンチョーだよ」
「な、なんだってー!?」
 ついでにマリアの片想いだと言ってやれば引っくり返るんじゃないかってくらいの驚きようだった。

 そもそもあの二人は昔馴染みだ。マリアはダンチョーを追っかけて女優を志した。
 なのにいつまでも気づいてくれないと愚痴ってきたからじゃあ俺が相手してやろうかと、こっちは冗談半分だったのに鼻で笑いやがって、あの女……。
 いかにも儚げな顔しといて実はかなり気の強いヤツだぜ、まったく。

「そっか。美女が冴えないおっさんに参っちゃうパターンかぁ」
「……パターン、ねえ」
 なにやら感心しきりだったユリは俺の呟きに眉をひそめた。
 いかんな、どうもコイツには突っかかってしまう。
 人のことばかり分かったような口を叩くくせに、自分の手の内は明かさないってのが気に入らねえんだよ。

 すぐそうやって“考察”するよな。
 機械みたいに型に嵌めて他人の感情を決めつけてちゃ、心の機微なんて分からないんじゃないですかね。
 言ったらコイツは泣くだろうか。俺に対して怒りを発するだろうか。想像できねえ。
 マッシュが「ユリはいい人が嫌いだ」と言っていたが、そうとは思えなかった。ティナってやつが大切だというのも信用ならん。
 ユリには、好きも嫌いもないんじゃないのか?

 用意周到に立ち回ってるようだが、肝心のユリ自身がどうしてここにいるのか知ってるヤツはいない。
 何がしたいのか、何を考えてるのか、誰にも知られないようにしている。
 他人を信じようって気持ちがないのはどっちだよ。お前こそ『誰かを信じて心を許したことがある』のか。

「何なの? じろじろ見て」
「……べつに何でもねえよ」
 しかしまあ、ユリが何を考え、感じていようと特に俺の方から聞こうとしなかったのも確かだ。
 詮索はしないと決めていた。興味もない。
 心を開かないのがお望みなら勝手にするがいいさ。俺の知ったことじゃねえ。


 ゾゾで一番高いビルの最上階。そこにリターナーの仲間だというドマ王国の侍と、獣のような格好をしたガキが待っていた。
 船に乗り込んできた面々だけでも相当だが、反乱軍のやつらはかなり個性派揃いらしいな。
 極め付きはベッドに踞っていたティナという娘だ。
 魔導の力を持つ娘だとは聞いていたが、その姿はどう見ても獣だった。野生児みたいなガキとは違う、正真正銘の猛獣だ。
 淡い輝きを放つ毛に全身を覆われた……これが幻獣ってやつなのか。

「ティナ……」
 その名を呼び、ユリが一歩近づくと、魔石が反応して輝き出した。獣……ティナの目が開かれる。魔性の色に一瞬、魅入ってしまった。
「な、何だ? 景色が歪んで……」
 魔石はどんどん輝きを増して、部屋中を覆い尽くした。やがてそれが収まった時、世界は一変していた。

 あちこち壁の崩れたボロ部屋は消え失せて、俺は荒野に立っている。
ーーどうなって……
 声が出ない。それに、周りにいたやつらが誰もいなくなっている。
 ユリもロックもマッシュもエドガーも、侍とガキと、そしてティナもだ。

 俺の足元には見知らぬ女が倒れていた。
「大変だ! ゲートの向こうから……」
 叫び声に振り向くと、妙な人影が近づいてくるのが見えた。
 逆光になってよく分からないが、頭の形がどうも変だ……角が生えている。人間ではなさそうだな。
「しっかり……、これは一体……?」
 そいつは倒れていた女に駆け寄って、そっと抱き起こした。
 間近で見ると分かったが亜人の男は先程のティナと同じ色の目をしている。そこでまた光が瞬き、何も見えなくなった。

 幻覚を見てるのか、異界に迷い込んだのか、二転三転する世界に抗う術もない。

 今度はどこかの部屋の中だ。ベッドに寝かされていた女が目を覚まし、亜人の男が心配そうに覗き込む。
「起こしてしまったかい?」
「あなたは……」
 言いかけたところで、胸にかけられたペンダントに気づいた女は口を噤んだ。
 どうやらこっちの姿はあの二人に見えてないらしいな。

「君にプレゼントしよう。この幻獣界のお守りさ」
「幻獣界……」
 ではこの男は幻獣ってことか。
 角と鬣が生えている以外は見たところ人間と変わりない。二足歩行だし服を着て人語を話す。
 ラムウもほとんど人間のようだったというから、そういうもんなのかもしれない。

 ……それにしても、コイツは何だ、女誑しなのか? 気絶してた異種族の女を介抱するついでにいきなり口説くかね。
 女の方はかなりの美人だ、気持ちは分からんでもないが。
「あなたが助けてくれたの?」
「ゲートで倒れていた君を見つけた。俺はマディンだ」
「私は……マドリーヌ。憎しみや欲望が渦巻く世界に嫌気がさして、嵐の中を歩いていたら……ここに」

 聞き覚えのある名だ。マディン……研究所から持ち帰った魔石の一つをそう呼んでいた気がする。
 そうだ、ユリが持っていたのがそれだ。ティナに近づいた瞬間に輝き出した石。
 ってことは、このマディンという幻獣が目の前の光景を作り出しているようだな。

「幻獣と人間とは相容れない生き物、か。人間が迷い込むことなどなかったのだが」
「私はやっぱりこの世界でも邪魔者なのかしら?」
「分からない」
「人間界へ戻るわ」
「明日、誰かに道案内させよう。今は休むといい」

 おいおい、帰していいのかよ?
 どんな目に遭ったか知らないが、マドリーヌは要するに死のうとしていたんだ。
 人間界に戻ってどうなる。せっかく拾った命をドブに捨てるだけだぜ。……なんて俺が案じても仕方ないか。
 無感情な目で虚ろを眺めるマドリーヌの細い肩をしばらく見つめたものの、マディンは無言で踵を返した。
 やっぱ幻獣と人間、生きる世界が異なっては感じ方も違うのか。


 大体の察しはついた。
 おそらく過去にあった出来事をマディンの目を通じて追体験させられてるんだ。
 周りのやつらも見えないだけで近くにいるだろう。

 マディンは急ぎ足で歩いている。見張りらしい幻獣が不思議そうに首を傾げて見送った。人間界へと通じるゲートにマドリーヌの姿が見える。
「戻りたくないならここにいても良いんだぞ」
「でも、人間と幻獣は相容れないものだと……」
「それが真のことかどうか、俺達が示してみればいいではないか?」
 人間でありながら幻獣の力を持つティナは、自分の力が制御できなくなっていると言ってたな。
 それで研究所の幻獣にティナを知ってるヤツがいないかと探しに行って……。

 また光に呑まれる。マディンの館に戻っていた。マドリーヌは帰るのを止めたようだ。そして大方の想像通り、彼女の腕には赤ん坊が抱かれていた。
「名前は決めてあるんだ」
「なに?」
 互いに満ち足りた笑顔を向ける。相容れぬものならば為し得ない表情。充分に想いの通じ合った、幸せな夫婦だ。
「ティナ。いい名だろう?」
 大団円、なかなかいい話じゃないかと、うっかりそう思ってしまった。

 俺はハッピーエンドが好きなんだ。しかし生憎と物語には続きがある。
 考えてみれば当たり前だ。この光景がどうやってか壊れてしまったからこそ、俺は今これを見せられている。
 マディンは研究所のカプセルの中で死んだ。魔石になっちまったんだ。
 そしてティナは、自分の正体も両親のことも何も知らない。


 血に濡れた幻獣たちが互いに魔法をかけあって傷を癒している。
 目の前には水面のように揺らめく透明な壁があった。
 さっきまでは幻獣界の景色が続いていたはずのゲートの先に、まるで世界が途切れて別の場所と繋がったかのようにして人間界が広がっている。
「結界がまた薄くなったんだ。二年前の嵐の日とそっくり……」
「でも今度はマドリーヌの時とは違う。我々の持つ魔導の力を狙ってきた軍隊だ」

 ガストラは千年前の書物を紐解き、魔導の秘密に迫ったのだったか。
 帝国軍が一斉に攻め寄せて来る。幻獣たちはなぜか無抵抗で連れ去られていった。
 ……魔導アーマーが何か妙な光を照射しているな。あれが幻獣たちを無力化しているのか。
「くそ、このままでは……! 長老の館まで退け!」
 巨大な翼で空を飛び、四つ足で地を駆け、幻獣たちが去った地には濁流のように軍が流れ込んで来た。
「幻獣を捕らえた者には望む褒美を与える。行け!」

 またしても世界が転換する。
 長老らしき年老いた幻獣とマディンが深刻な顔で話し合っている。
 そしてマドリーヌの腕には赤ん坊のティナが……、ん? さっきの幻獣たちは“二年前の嵐”と言ってたよな。
 だがティナは、まるで今しがた生まれたばかりにも見える。どうなってんだ。幻獣界では時間の流れが違うのか。

「全ての異物をこの世界から追い出し、ゲートに封印の壁を閉ざす。……私が死ねば二度と封魔壁を開くこともできなくなる」
「マドリーヌはそれでいいのか?」
 問われたマドリーヌは赤ん坊の頬を撫で、俯きがちに「もう向こうに未練はありません」と告げた。
 封魔壁か。だがティナとマディンは人間界にいたんだ……この後で何が起きた?

 長老がゲートに向かうと、館にいた幻獣たちは言い争いを始めた。ああ、嫌な風が吹いてきたぜ。
「こうなったのも人間の女のせいかもしれん」
「愚かなことを。無駄口を叩く暇があれば負傷者を助け出すんだ」
 苛立たしげなマディンの制止も聞かず、幻獣たちはなおも言い募った。
 扉の影にマドリーヌがいる。マディンは気づいていない。俺の言葉は届かない。……これは変えられない過去の出来事だ。

「きっとあの女がヤツらを連れて来たんだ」
「いい加減にしろ!」
「いや! あの女もヤツらと同じ人間さ。その内、俺たちの力を利用して、」
「マドリーヌ!?」
 ティナを抱いたままマドリーヌは館を飛び出し、マディンもすぐに後を追った。
 大丈夫だ。ティナは殺されもせず“此処”にいるんだ。最悪の事態にはならないさ。そう自分に言い聞かせる。だが……。

 長老を中心に、ゲートの近くは嵐が吹き荒れていた。
 幻獣界に侵入した帝国軍と兵器は次々と透明な壁の向こうへ飛ばされていく。いや、壁の向こうにはもう人間界の景色が見えなくなっていた。
 そこにはいつも通り幻獣界が続いている。なのに吹っ飛んだ帝国兵どもの姿は壁を越えると消えてしまう。世界がそこで途切れているんだ。
「間に合わん! すでに封魔壁の魔法は始動した。二度と戻れなくなるぞ」
「構うものか!」
 一際強大な風が巻き起こり、世界を揺るがしながら透明だった壁が実体を持ち始めた。

 マドリーヌはゲートの境界に倒れていた。
「マディン……私はあの人たちの仲間なんかじゃ……」
「分かっているさ」
 泣きそうな顔で微笑んだ彼女をマディンが抱き起こした。早く魔法を完成させて壁を閉じてくれと柄にもなく祈る。
「戻ってくるか?」
「ええ……」
 彼女が立ち上がった拍子に風がティナを攫った。俺は無意識に手を伸ばしていた。しかし時を越えてこの手が届くことはない。

 自らの身を投げ出してティナを抱き止めたマドリーヌは、ゲートの向こうへと消えていく。
「ティナ! マドリーヌ……!」
 二人を追って飛び出したマディンの背後で、轟音を立てて扉は閉ざされた。


 嵐の去った荒野。帝国軍は弾き出されてしまった幻獣たちを無力化して捕らえている。その中にマディンの姿もあった。
 封魔壁は固く閉ざされ地下へと消えたが、ガストラの瞳には欲望の光が未だ瞬いている。
 その目が、彼女を見つけてしまう。
「人間の女か。……こ、この子供は?」
 地面に叩きつけられたのかマドリーヌは瀕死の重傷を負っていた。それでもガストラの目から隠すようにティナを抱く腕に力を籠める。
 彼女に守られていたティナは泣き叫んでいるが、傷一つ負っていなかった。

「私の……子に……構わないで……」
「お前の? ふっ……そうか! お前と幻獣の……これは面白い。フハハ! 私の夢も存外に早く実現しそうだ」
 野心に満ち満ちた男は今にも命尽きそうな細腕から容赦なく赤ん坊を奪い取った。
 力を振り絞ってその足に縋るマドリーヌを冷やかに見下ろす、欲望の他には何もない目。
「や……めて……」

 これは俺の気持ちなのか、この光景を見せているマディンの憤怒なのか、判別がつかない。
 ティナは帝国で心を破壊され、兵器として生きてきた。マディンは彼女を守る力を奪われ、実験動物扱いだ。そしてマドリーヌは……。
 そうだ。マドリーヌはどこにもいなかった。彼女はこの時、もう……。
「私が世界の支配者となるのだ!」
 赤く染まりゆく視界で嘲るような男の笑い声だけが虚しく響いていた。


 部屋を満たしていた光がマディンの魔石に収束する。気づけば他のやつらも俺も、元いた場所に立ち尽くしていた。
「お父さん……なの……? 私は……」
 魔石に触れるとティナの姿が変容し始めた。
 一度強く輝いた鬣は光とともに消え去り、牙も爪も成りを潜めて、新緑のような髪がふわりと広がる。
 彼女は人間の姿に戻っていた。……ああ、マドリーヌによく似ている。

「私は……幻獣と人間の間に生まれた。この力はお父さんにもらったもの。……もう大丈夫。少しの時間だけど、力を制御できるわ」
 魔石を捧げ持つように立っていたユリは、マディンの石をティナの手に握らせるとその場に膝をつく。
「ユリ……私、思い出した……」
 褒めてくれと言わんばかりの笑顔にユリは微かに頷いた。

 こっちに背を向けているので表情は分からない。だが、アイツが小さく何かを呟くとティナは怪訝そうに首を傾げた。
「ユリ? どうして……」
 どうして謝るの。問われた言葉に、ユリは決して答えなかった。


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