2
恐怖のどん底で、
君の笑顔を思い出すなんて、
私はどれだけ未練がましいんだ。
君はもう、
私には笑いかけてくれないのに。
「みーつけた」
もう、諦めた時だった。
異形の獣を前に、死を覚悟した、その時。
澄んだテノールが、耳をうった。
声に獣が反応し、私から視線を外し、吠える。 その恐ろしい雄叫びに、身を竦ませ、顔を伏せ、耳を塞ぐ。
「………っ!?」
耳を押さえていても尚、甲高く獣の悲鳴が聞こえて反射的に顔を上げてしまった。
目の前には、足があった。
「………足?」
足だ。 混乱しきった頭で、よく解ったと思う。その足を辿り、背中を過ぎ、頭に行き着いた。
夜の闇に浮かぶ漆黒の髪。 同色なのに、同化せず、 風に揺れていた。 それは赤い月のせいだと、後になってから気が付いた。
「………助け、」
助けて。
この人、否、この状況では人間なのかも解らないが、 なんだっていい。
今私は、藁にも縋る思いで、 ただ救いを求めていた。
「そこで大人しくしていろ。じきに終わる」
「………ぁ……」
最初に聞こえたテノールとは違う、重低音の声。 助けてくれるとは言わなかったけれど、何故か大丈夫な気がした。
その広い背中に、安心した。
「えっ!?」
一瞬にして、その背中が消える。 遮られていた向こう側が見えて、私は口を開けたまま、映る景色を呆然と眺めていた。
紅い月と、黒い獣。 舞うように跳ぶ人影。
黒髪が「じきに」言ったように、 獣が倒れていく様を、 本当にただ呆然と。
これは一体なんなんだろう。
私に何が起きたのだろう。
紅い月を背負い、ゆっくりと近づく黒髪と、金髪。
空気も、感触も、リアルに感じるのに、 私は夢をみているような気になって、ぼんやりと、頭に霞がかかっていく。
人の形をした彼の顔は、仮面に覆われていた。
考える事がありすぎて、パンクした頭は役目を放棄したようだ。
「だーいじょーぶ?」
「………狐?」
最初のテノールは金髪の方だったようだ。 狐をモチーフにしたような、お面を着けている。
それと、気抜けするような話し方。
「怪我してない? あ、してるじゃん。見せて」
「!」
私の前にしゃがんで、手を伸ばした狐お面に、後退りする。 訳が分からないこの状況で、怯えるな、という方が無理だ。
「……あー、腕、へーき?」
「……………」
腕………? 狐お面から目は離さずに、両腕を意識する。 と、ツキン、と右腕に小さな痛みを感じた。
言われるまで全く気が付かなかったが、さっき転んだ時に、何かが腕を掠めたのを思い出した。
「………へ、き」
「そー? 良かったー」
警戒しつつ、小さく頷き、微かな声で答えた。 その小さな反応に、狐お面は間延びした話し方で、更にはホー、と息を吐く、というなんとも脱力するような返し方をしてくれた。
狐お面からこちらを気遣うような優しい雰囲気を感じるのは、私がそうであって欲しいと願っているからか。
「……あ、あの、狐、さん? さっきの黒い化け物は何ですか?」
「狐さん? あ、おれか。このお面ちょっといいでしょ。おれのお気に入りなんだー」
意を決して話しかけてみた。
狐お面は僅かに首を傾げて、自分の顔を指差している。 人間、ぽい。 声と見た目は、男。
「………あの、質問……」
「え? あ、黒い化け物ってアンノウンの事? あれ別に新型じゃなかったし、珍しくも無い筈だけど」
「アン、ノウン……?」
拾った単語が頭を巡る。 アンノウン、新型、珍しくない、 珍しく、ない?
私の知っている知識を漁っても、イコール化け物には繋がらなかった。
それどころか、余計にこんがらがっただけだ。
「アンノウンって何ですか?」
「「は?」」
綺麗に重なった声。 いつの間にか、しゃがんだ狐お面の後ろに立っていた黒髪の………
「………また、狐」
金髪の狐お面と、黒髪の狐お面。
対照的で、朝と夜みたいだ、と頭の片隅で思った。
「えと、アンノウンは、アンノウンだけど………」
「?」
「………まじか」
「?」
「………マジだな」
ちょっとづつ、ちょっとづつ、私は落ち着きを取り戻せてきている。 ずっと震えていた身体も、声も、大分おさまっていた。
「あ、あははー。まさか、アンノウンを、知らない、とか?」
「………知りません」
「………病気?」
「えっ? びょ、病気?」
誰が?
私が?
「ショックで記憶喪失とか?」
「………可能性はあるな」
「ちょ、ちょっと待って下さい。記憶喪失? 私が?」
「えっと……病院、」 「病気じゃないです!」
冗談じゃない。 何故に私が記憶喪失扱いされねばならんのか。
「………名前は言えるか?」
「高垣 彩です」
「あ、名前言えるんだ」
「………歳は? 学生か?」
「19です。大学生。両親は他界。一人暮らし」
尋問されているみたいだ。 だけど何がどうなって記憶喪失扱いなのかは解らないが、そんな誤解は早く解きたい。
「どういった経緯でアンノウンに遭遇した」
「経緯……普通に、帰宅途中で、コンビニに寄って……店員さんに追いかけられて、」
「店員さんに追いかけられて? え、それ普通なの?」
「い、いや、それは普通じゃなくて、というかそこから普通じゃなくなった、というか」
「飛鳥、お前ちょっと黙ってろ」
「うわ、ヒデーよ千尋」
「黙って、ろ?」
「………ちぇ」
アスカ、と、チヒロ。 互いに呼び合うそれを、名前だと認識するのは自然の成り行きだった。 チヒロと呼ばれた黒髪狐に邪険にされて、アスカと呼ばれた金髪狐は立ち上がった。 黒髪狐が私を見下ろす。
「それで?」
「あ、それで、公園の前で捕まって、そしたら、急に店員さんが、化け物に………私、怖くて、だから、っ」
「………飛鳥」
「へいへい。たく、人使いの荒いこって」
思い出して、言葉に詰まって、俯いた。 あの気味の悪い店員さんにもう少し、優しく断れば良かった。 逃げずに、話を聞いて、それから丁寧にお断りして、 そうしてたら、あの店員さんは、死なずに済んだかもしれない。 そう、きっと、彼は死んでしまった。
耳を塞ぎ、目を背けたくなる、 事実だ。
不意に、耳鳴りがした気がして罪の意識に苛まれていた私は顔を上げた。 眉間には皺が寄ってしまっていると思う。
静かに佇む、黒と金。
「………なに?」
金の方だ。 金髪の狐から、ただならぬ気迫が漂ってくる。 不思議と、その気迫のようなものが、 目に見える。
色は、青白く。 彼から立ち上るように、空気に溶けていく。
「なに、これ………?」
人のオーラでも、見えるようになったのだろうか。 一際強く、彼を纏うそれが濃くなると、彼は言葉を紡ぐ。
「………公園には誰もいないね」
「え?」
「誰もいないよ。死体もね」
それが何なのか、疑問は隅に追いやられて、 自信満々に断言してきた金を睨む。
「そんなはずっ! 見もしないでそんな事が解る筈、」 「解るんだよ。こいつなら」
私の荒げた声を遮った黒。 こちらもまた自信満々に言い切ってきて、私は間違っていない筈なのに、思わず怯む。
「な、なんで………」
「ふぅ。さて、いよいよ君って危ないね」
何処か違う方を向いていた金髪は、私の方にお面を向ける。 あの、青白い煙のようなものは、暫く微弱に漏れていたが、やがて消えた。
私が危ないとは、何を指しているのか。 私の、何が危ないと言うのか。
金からは、強い視線を感じて、
あぁ、そうか。 私が嘘を吐いていると言いたいのか。
その視線は、咎めるものか。
「行って確かめてみてもいーよ。公園には、何もない」
「そんな筈ないっ! 私嘘なんて吐いてません! 確かにあの人は! っ、あの人は、倒れて、動かなくて」
私は直ぐに気が付いた。 死体を、見た事があるから。 そこに魂があるかないか、 遠目でも、 はっきり見えなくとも。
彼は、彼から、 ただのモノになった。
「長谷川、と名乗っていました。名札にも、そうありました」
人が死ぬなんて。
「この近くのコンビニで、働いてました。私は常連で、何度か会った事があるし、顔を覚えてます」
あんな風に。
「………調べてみる?」
「お前がな」
「………泣いていい?」
「当り前なの?」
「え?」
人だったモノ。
「アンノウンは知ってて当り前の事? 人が死ぬのが、当り前の事なの?」
絶対に見たいとは思わないその瞬間。
「「そうだ」」
2度と、見たくない。
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