恐怖のどん底で、

君の笑顔を思い出すなんて、

私はどれだけ未練がましいんだ。

君はもう、

私には笑いかけてくれないのに。









「みーつけた」


もう、諦めた時だった。

異形の獣を前に、死を覚悟した、その時。

澄んだテノールが、耳をうった。


声に獣が反応し、私から視線を外し、吠える。
その恐ろしい雄叫びに、身を竦ませ、顔を伏せ、耳を塞ぐ。


「………っ!?」


耳を押さえていても尚、甲高く獣の悲鳴が聞こえて反射的に顔を上げてしまった。

目の前には、足があった。


「………足?」


足だ。
混乱しきった頭で、よく解ったと思う。その足を辿り、背中を過ぎ、頭に行き着いた。

夜の闇に浮かぶ漆黒の髪。
同色なのに、同化せず、
風に揺れていた。
それは赤い月のせいだと、後になってから気が付いた。


「………助け、」


助けて。

この人、否、この状況では人間なのかも解らないが、
なんだっていい。

今私は、藁にも縋る思いで、
ただ救いを求めていた。


「そこで大人しくしていろ。じきに終わる」

「………ぁ……」


最初に聞こえたテノールとは違う、重低音の声。
助けてくれるとは言わなかったけれど、何故か大丈夫な気がした。

その広い背中に、安心した。


「えっ!?」


一瞬にして、その背中が消える。
遮られていた向こう側が見えて、私は口を開けたまま、映る景色を呆然と眺めていた。

紅い月と、黒い獣。
舞うように跳ぶ人影。

黒髪が「じきに」言ったように、
獣が倒れていく様を、
本当にただ呆然と。


これは一体なんなんだろう。

私に何が起きたのだろう。


紅い月を背負い、ゆっくりと近づく黒髪と、金髪。

空気も、感触も、リアルに感じるのに、
私は夢をみているような気になって、ぼんやりと、頭に霞がかかっていく。

人の形をした彼の顔は、仮面に覆われていた。

考える事がありすぎて、パンクした頭は役目を放棄したようだ。



「だーいじょーぶ?」

「………狐?」


最初のテノールは金髪の方だったようだ。
狐をモチーフにしたような、お面を着けている。

それと、気抜けするような話し方。


「怪我してない? あ、してるじゃん。見せて」

「!」


私の前にしゃがんで、手を伸ばした狐お面に、後退りする。
訳が分からないこの状況で、怯えるな、という方が無理だ。


「……あー、腕、へーき?」

「……………」


腕………?
狐お面から目は離さずに、両腕を意識する。
と、ツキン、と右腕に小さな痛みを感じた。

言われるまで全く気が付かなかったが、さっき転んだ時に、何かが腕を掠めたのを思い出した。


「………へ、き」

「そー? 良かったー」


警戒しつつ、小さく頷き、微かな声で答えた。
その小さな反応に、狐お面は間延びした話し方で、更にはホー、と息を吐く、というなんとも脱力するような返し方をしてくれた。

狐お面からこちらを気遣うような優しい雰囲気を感じるのは、私がそうであって欲しいと願っているからか。


「……あ、あの、狐、さん? さっきの黒い化け物は何ですか?」

「狐さん? あ、おれか。このお面ちょっといいでしょ。おれのお気に入りなんだー」


意を決して話しかけてみた。

狐お面は僅かに首を傾げて、自分の顔を指差している。
人間、ぽい。
声と見た目は、男。


「………あの、質問……」

「え? あ、黒い化け物ってアンノウンの事? あれ別に新型じゃなかったし、珍しくも無い筈だけど」

「アン、ノウン……?」


拾った単語が頭を巡る。
アンノウン、新型、珍しくない、
珍しく、ない?

私の知っている知識を漁っても、イコール化け物には繋がらなかった。

それどころか、余計にこんがらがっただけだ。


「アンノウンって何ですか?」

「「は?」」


綺麗に重なった声。
いつの間にか、しゃがんだ狐お面の後ろに立っていた黒髪の………


「………また、狐」


金髪の狐お面と、黒髪の狐お面。

対照的で、朝と夜みたいだ、と頭の片隅で思った。


「えと、アンノウンは、アンノウンだけど………」

「?」

「………まじか」

「?」

「………マジだな」


ちょっとづつ、ちょっとづつ、私は落ち着きを取り戻せてきている。
ずっと震えていた身体も、声も、大分おさまっていた。


「あ、あははー。まさか、アンノウンを、知らない、とか?」

「………知りません」

「………病気?」

「えっ? びょ、病気?」


誰が?

私が?


「ショックで記憶喪失とか?」

「………可能性はあるな」

「ちょ、ちょっと待って下さい。記憶喪失? 私が?」

「えっと……病院、」
「病気じゃないです!」


冗談じゃない。
何故に私が記憶喪失扱いされねばならんのか。


「………名前は言えるか?」

「高垣 彩です」

「あ、名前言えるんだ」

「………歳は? 学生か?」

「19です。大学生。両親は他界。一人暮らし」


尋問されているみたいだ。
だけど何がどうなって記憶喪失扱いなのかは解らないが、そんな誤解は早く解きたい。


「どういった経緯でアンノウンに遭遇した」

「経緯……普通に、帰宅途中で、コンビニに寄って……店員さんに追いかけられて、」

「店員さんに追いかけられて?
え、それ普通なの?」

「い、いや、それは普通じゃなくて、というかそこから普通じゃなくなった、というか」

「飛鳥、お前ちょっと黙ってろ」

「うわ、ヒデーよ千尋」

「黙って、ろ?」

「………ちぇ」


アスカ、と、チヒロ。
互いに呼び合うそれを、名前だと認識するのは自然の成り行きだった。
チヒロと呼ばれた黒髪狐に邪険にされて、アスカと呼ばれた金髪狐は立ち上がった。
黒髪狐が私を見下ろす。


「それで?」

「あ、それで、公園の前で捕まって、そしたら、急に店員さんが、化け物に………私、怖くて、だから、っ」

「………飛鳥」

「へいへい。たく、人使いの荒いこって」


思い出して、言葉に詰まって、俯いた。
あの気味の悪い店員さんにもう少し、優しく断れば良かった。
逃げずに、話を聞いて、それから丁寧にお断りして、
そうしてたら、あの店員さんは、死なずに済んだかもしれない。
そう、きっと、彼は死んでしまった。

耳を塞ぎ、目を背けたくなる、
事実だ。

不意に、耳鳴りがした気がして罪の意識に苛まれていた私は顔を上げた。
眉間には皺が寄ってしまっていると思う。

静かに佇む、黒と金。


「………なに?」


金の方だ。
金髪の狐から、ただならぬ気迫が漂ってくる。
不思議と、その気迫のようなものが、
目に見える。

色は、青白く。
彼から立ち上るように、空気に溶けていく。


「なに、これ………?」


人のオーラでも、見えるようになったのだろうか。
一際強く、彼を纏うそれが濃くなると、彼は言葉を紡ぐ。


「………公園には誰もいないね」

「え?」

「誰もいないよ。死体もね」


それが何なのか、疑問は隅に追いやられて、
自信満々に断言してきた金を睨む。


「そんなはずっ! 見もしないでそんな事が解る筈、」
「解るんだよ。こいつなら」


私の荒げた声を遮った黒。
こちらもまた自信満々に言い切ってきて、私は間違っていない筈なのに、思わず怯む。


「な、なんで………」

「ふぅ。さて、いよいよ君って危ないね」


何処か違う方を向いていた金髪は、私の方にお面を向ける。
あの、青白い煙のようなものは、暫く微弱に漏れていたが、やがて消えた。

私が危ないとは、何を指しているのか。
私の、何が危ないと言うのか。

金からは、強い視線を感じて、

あぁ、そうか。
私が嘘を吐いていると言いたいのか。

その視線は、咎めるものか。


「行って確かめてみてもいーよ。公園には、何もない」

「そんな筈ないっ! 私嘘なんて吐いてません!
確かにあの人は! っ、あの人は、倒れて、動かなくて」


私は直ぐに気が付いた。
死体を、見た事があるから。
そこに魂があるかないか、
遠目でも、
はっきり見えなくとも。

彼は、彼から、
ただのモノになった。


「長谷川、と名乗っていました。名札にも、そうありました」


人が死ぬなんて。


「この近くのコンビニで、働いてました。私は常連で、何度か会った事があるし、顔を覚えてます」


あんな風に。


「………調べてみる?」

「お前がな」

「………泣いていい?」

「当り前なの?」

「え?」


人だったモノ。


「アンノウンは知ってて当り前の事? 人が死ぬのが、当り前の事なの?」


絶対に見たいとは思わないその瞬間。


「「そうだ」」


2度と、見たくない。



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