5
ガラス越しに、目が合って、俺は敬礼でそれに応えた。 僅かに微笑んだ相手が頷き、パネルへと手を翳す。扉が開けば、相手は立ち上がった。きっちり背筋を伸ばす。
「LユースAクラスセブン、永岡樹、指令に従い召喚されました」
「んー、入ってー」
「失礼します」
博士はゆったりとした動作で部屋の隅に向かうと、コーヒーメーカーからサーバーを取り出す。俺はソファーの手前で止まった。
「ひとり?」
「はい」
博士が二人分のカップを手に、振り返る。片方の紙コップは、俺の分だろう。彼女は少し口端を持ち上げた。
「珍しい。使ったんだ?」
「少しお話をと思いまして」
博士の皮肉は、流すという対応を取らせて貰った。表情ひとつ変えないのが気に食わないのか、彼女はつまらなそうな顔をした。
「相変わらずねえ」
「私が狼狽えたり、ムキになって反論する方がおかしいでしょう」
「ま、それもそっか……で、話って?」
さばさばした性格通り、直ぐに何時も通りの表情に戻った彼女から、コーヒーを受け取った。カップに口をつけながら、上目に問われ、苦笑した。判っている癖に、この人もひとが悪い。
「彼女の事、ですよ」
「彼女、ねえ……」
「支部長は、どういうつもりなんでしょうか。あれでは彼女も可哀想ですよ」
思ってもない事を口にする。だが博士に疑う素振りはない。彼女はコーヒーを一口飲み込んでから、まあねえ、と同意した。
「あの子は、どっちかつーと大人しい子みたいだし、今のままじゃ、鮫の水槽に落とされた金魚みたいなもんよね」
「普通に猛獣の群れに兎、とかでいいじゃないですか」
「煩いわね、意味は一緒でしょ」
博士は頭は良いのに、妙なところで抜けている。指摘すると嫌そうに睨まれた為、肩を竦めて口を閉じた。
「林が何考えてんかなんて、あたしには判らないけど、そうね……荒治療、ってとこかしらね」
「荒治療も何も、これでは逆効果でしょう」
無能な一般人の為に、俺達が使われるとは。そんな事の為に、俺達は居るのではない。そういう不満が、無い訳ではない。いや俺なんかはまだマシだ。指令に背く気もないし、割り切る事も出来る。だが目に見えて不満を持っている奴だっているんだ。それはトラブルの元になるし、何より、対立でもした場合、彼女の味方など絶対にひとりも出やしない。 日向はただ、能力無しというだけで嫌っているだけだが、飛鳥まで彼女を嫌がったなら、俺は容赦なく彼女を切り捨てるだろう。表立っていなくとも、四面楚歌の状態だ。逃げ場さえない。
「そうかしら? あたしは、蛙だって、追い詰められたら蛇に頭突きくらいはかませると思うわ」
だから窮鼠猫を噛むでいいだろそこは。俺は飛鳥と違って、同じ過ちは繰り返さないから言わないが。
「頭突きしようが、結局は食われますよ」
「……怖いわねえ樹くんは」
「現実主義なんです」
蛙の運命は変わらない。
だからきっと彼女も最後は、食われてしまうんだろう。俺か、日向か、飛鳥か、虎か。或いは誰でもない誰かに。
「………安心なさい、その命令を下すのも、林よ」
俺は黙って、コーヒーを傾けた。下されたそれを実行するのは、俺達だろうが。それを、苦い液体と共に飲み込んで。
「いっちゃあああん!」
「うるさっ! こら飛鳥! 此処は貴重な実験とかする所なんだから、走るなって言ってんでしょうが!」
「だっていっちゃんがあ……」
ゆっくり、首だけで、振り返る。 俺が、なんだって? 飛鳥?
「ひっ………!」
「飛鳥、入室の手順は、どうしたんですか?」
「あ、う、いっちゃ、」 「忘れてしまったんですか?」
身体も向けて、少しばかり口角を上げる。
「仕方がない人ですねえ。私が教えて差し上げましょうか、じっくりと」
瞬間、びしっと背筋を伸ばし踵を揃えた飛鳥が、敬礼しながら口を開いた。
「LユースAクラスセブン戸上飛鳥指令により参上しましたああああ!」
声は裏返っているし涙目だしで全くなっていないが、取り敢えず良としよう。
「うん、飛鳥、それと走ったら駄目だろう? ほら、博士に謝って」
「ごごごごめんなさい」
「ん?」
「もっ、申し訳ありませんしたっ!」
「うん」
「樹、これあたし今空気よね。絶対あたしに謝ってないわよね飛鳥は」
「そんな意地悪な事言わないで、許してやって下さいよ博士」
「あんたくらいよね、あたしの眼力効かないの」
これだらセブンは、と半眼で漏らしながら博士は、ソファーにどかりと座り、ついでのように飛鳥へと声を掛けた。
「まじで走んなよ、飛鳥」
「はあーい」
お許しが出たら早速、飛鳥は浮き足立ってコーヒーメーカーへと向かう。堅苦しいのを嫌う博士は何も言わないが、上官の部屋なら罰則ものだ。まあ、勧められるままにお茶している俺もだが。
「飛鳥、他の皆はどうした?」
「ん、判んない」
判んないじゃないだろ判んないじゃ。
「おれ、全速力で此処まで来たから。皆もうちっとしたら来るんじゃない?」
「別に慌てる必要はなかっただろう。飛鳥も皆と来れば良かったじゃないか」
「んー、えへへー」
鼻から呼気が抜ける。緩んだ笑いを此方に向ける飛鳥は、大量の砂糖を手に、博士の隣へ腰掛けた。 俺を気にする必要なんてないのに、こいつはまったく……。
「飛鳥はどう? 彩ちゃんと上手くやれそう?」
博士にとっては話の流れ上だったのだろう。だが一瞬飛鳥の肩が強張ったのを、俺は見逃さなかった。 へらり、と愛想良く博士を見返す彼は、何時も通り。
「可愛い子だよねー。でもなんかねー、怒るとこあいー」
「もう手ぇ出したの?」
呆れる博士に、飛鳥は否定とも肯定とも取れる笑顔を返す。
「えっへへー」
「えへへじゃないわよ。異次元から来たって言ったって、あの子は普通の一般人なのよ? 深く関わってただじゃ済まない事くらい、飛鳥だって判ってるでしょう」
スティック状の砂糖を手に、封を切ろうとした飛鳥の手が止まった。珍しく難しい顔をして、むー、と呻く。
「花ちゃんの深くって言うのはさー、一体どんくらいのことを差すわけー?」
意地悪で訊いているのではないのだろう。恋情云々の縺れは確かに厄介だが、本気でなければ然程問題にならない筈だ。本気にならなければ、それは只の通過点。けれど一般人とのそれは、禁忌だ。知り合う事でさえ、我々には許されていないのだ。交わる事で生まれる様々な問題は、もう個人を越えてしまう。 その辺、彼女は立ち位置からして、判ずるのが難しい。いやしかし、所謂これは任務だろう。そつなくこなせば、何事もなく過ごせる。飛鳥はその辺りは器用だから、まだ安心だろうと思っていたのに、これは……。
「それは……」
「花ちゃんさー、あの子と仲良くして欲しがる癖に、近付き過ぎは駄目、ってそれどーゆーことー? おればかだから、よく判んないよー。だったらいっそずっと研究部に押し込めときゃいいじゃん。なんでおれ達?」
「飛鳥………」
「おれ、難しいのやだよ。あの子と仲良くすりゃいいのか、監視だけしてあとはほっとけばいいのか、どっちかにして欲しいよ」
ああ、駄目だ飛鳥、それ以上言うな。考えるな。これは任務だ。命令なんだ。
「じゃないと、おれはあの子を、」
飛鳥の口が、ぴたりと閉じる。俺は僅かに安堵して、ゆっくり振り返った。 ガラス越しに見える、虎の姿。後ろには、彼女と千尋。此方に向かって歩く彼らの中に、日向の姿は無かった。
「ういーっす」
かったるそうに挨拶して、虎が部屋に入って来る。続いて千尋が無言で、彼女が会釈して入室。俺が何も言わずにいると、飛鳥が虎と千尋を指差し口をパクパクさせた。なんだ、餌を強請る鯉みたいだぞお前。
「おはよ、彩ちゃん」
「おはようございます」
博士が彼女ににこやかに話し掛ける間に、コーヒーを入れる虎の隣へ立った。
「日向は」
「便所」
「ふうん?」
「……という言い訳の、エスケープ。心配しなくても後から来る」
注がれる黒い液体を見ながら、苦笑した。これ以上一緒に居られるかと、吐いて捨てる日向の姿が目に浮かぶ。
「あの、何をするんでしょうか」
「あー、それなんだけど、皆も聞いて。あ、日向ー……は、まあいっか」
博士の呼び掛けに、虎と共に振り返る。千尋が立ったまま、うつらうつらとし始めたのを見て、虎だけが彼の元に移動した。手には紙コップ2つ。どうなっているのか、千尋にはカフェインもあまり効果を示さないが、気休めにはなる。 博士はデスクに移動すると、そのまま腰掛け、足を組んだ。すらりとした美脚に、飛鳥がいい眺めー、と等と呑気に漏らすと、彼女が何故か何度も頷いて同意を示した。
「結論から言うと、測定はしない」
「えっ」
「あー、やっぱりー?」
「え?」
疑問の声を上げたのは、彼女だけだった。飛鳥の判ったような返答に、更に驚いて、俺達を見回す。
「え、え? あ、あれ?」
自分だけが判っていなかったと、軽く混乱したような彼女に博士は構わず、呼気を吸い込む。
「正しくは、彩ちゃん以外ね」
「へ、わ、私ですか?」
「今回は、彩ちゃんの脳波とか、そういうの取りたいの。前回のは眠ってたから、起きてる状態のね」
彼女の顔が、実に判り易く曇った。何をされるのだろうと、不安なのだろう。 それを受けて博士は、深い笑みを湛えた。
「大丈夫。彩ちゃんはただ横になってればいいから。直ぐ終わるわよ」
博士の大丈夫は、当てにならない。それを、彼女は知らないだろうが。
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