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何の関連性もない、古ぼけた記憶の欠片。
貴方にはそんなものがありませんか?
小さな子供には、大きくなってからじゃ決して見えない世界が見えているのではないだろうか。 現実を知る度に、それは薄れ、あり得ない事象として忘れられていく。
もう、そんな現実と幻想の境をきちんと把握したとある女の話をしよう。
彼女の話を知って、 幻想と幻想の境が、 曖昧であると、
願わくば、 貴方が気付かなければいい。
第1章〜平行世界の空〜
友人に無理矢理引っ張って連れて行かれた合コンの帰り道。
気味が悪いくらい、紅い月が夜空に浮いていた。
確か、夕焼けとかと同じ原理で、地表近くの月は大気によって赤く染まって見えるのだと何処かで聞いた。
街中の雑踏を抜け、独り暮らしの寂しいマンションまであと少し。
足を止めて、隣を歩く男に笑いかけた。
「この近くだから、もういいよ。ありがとう」
「え、あー……そうなんだ」
「うん。電車無くなったら困るし此処まででいいよ」
「あー、うん。そー、だけど、さ」
彼が何を言いたいのか、解らない歳ではない。 だけど私は笑いながら、やんわり拒絶する。
「送ってくれてありがとう。じゃあね、メール、するよ」
「………うん、じゃあ、また」
送らせといて、そんなんありかよ、と下心満載だった男は思っている事だろう。 しかしながら断っているのにも関わらず、無理に着いて来たのは相手の方だ。 私はそんなつもりは微塵も無いのだから、此処はあっさり袖にさせて貰う。
まだ納得いかないような顔をしながら、男は来た道を引き返して行った。 ある程度まで見送ると、自宅傍のコンビニに向かう。
ピンポーン、といやに間抜けな音と共に自動ドアを潜り、明るい店内に足を踏み入れる。 立ち読みをする男性の後ろを通り過ぎ、アップルティーの紙パックを手に取った。 飲んだ後にこの紅茶を飲むのが、私のお馴染みになっていて、そのままついでに一口チョコを一緒に購入すると、店を後にした。
店を出て、2歩、後ろから声が掛かった。
自分ではなかったら恥ずかしいし、そっと首だけを後ろに向け、また1歩踏み出す。
見ればコンビニの制服を着た、ある意味見慣れた青年だった。
「あ、あのっ! こ、この近くに住んでるんですか?」
「………私? ですか?」
周りに人が居ないのだから、私に話し掛けているのだろうが如何せん、質問の意味が解らない。 身体ごと彼に向き直り、首を傾げると、青年はしどろもどろに話し出した。
「よ、よく此処に来ますよね。だから、ち、近くに住んでるのかと思って」
「はぁ、まあ、近所ですけど」
「あ、あの、僕、長谷川って言います!」
名札には確かに、長谷川とある。
だから、なんなんだ。
「………え、と、あの、」
「………?」
「見掛けて、その、いつも、可愛いな、って思って、て」
「!」
もしや、これは………
「あの、か、彼氏とか、いるんですか!?」
「え………今は、あ、いや、居ます」
「えっ! いるんですか!?」
「えっ、い、居ます、けど?」
「そ、そんな、だって、いつも1人で………」
嘘を吐いた。 彼氏は居ない。今は、独り身だ。
でも、彼の好意は口にせずとも伝わってきて、絶対に応えられない私は咄嗟に嘘を吐いたのだ。
吐いてから、疑いの眼差しを向けられて、彼が私が独り身であろうと予測していたのがひしひしと伝わってくる。
「え、遠距離で」
「遠距離………? じゃ、じゃあ寂しいでしょう? ね、離れてたら寂しいもんでしょ?」
「え、いや、そんなには」
「ぼ、僕! 僕ならそんな思いはさせないし、僕の方が!」
なんだか青年が独り、ヒートアップし始めている。 怪しくなった雲行きに、彼から少しずつ距離を取る。
「ごめんなさい、私、もう帰ります」
「まっ、待って下さい!」
「っ!?」
そろそろと離れた距離を、青年は一気につめ、私に迫った。 彼の手が、私の腕に触れる直前に踵を返し、駆けた。
怖い、と感じた。
「待って!」
「や、なん、で………!」
追い掛けてくるんだ。
彼は制服のままだし、きっと勤務中である筈なのに、躊躇いもなく走ってくる。
「なん、なの、もう!」
追い付かれたら最後な気がして、私は最早全力疾走していた。
男の脚と、女の脚。差は歴然で、結局、家とは反対方向に逃げた果てに公園の前で腕を掴まれた。
「っ、離して!」
「なん、なんで逃げるんです!」
「じゃあなんで追い掛けてくるんですか!」
「僕は! あなたをずっと見ていた! 好きなんです!」
「こ、恋人が居るって言ったでしょう!?」
嫌だ、この人、変。
「嘘吐かないで……あなたは、僕が見つけたんだ」
「離して! 叫びますよ!?」
「好きなんだ。僕のものになってよ」
こんなことなら、コンビニまであの男に付き合って貰えば良かった。 後悔先に立たず、今更悔やんでも遅い。 目の前の青年は薄く笑った。 学校に併設された公園は、誰も居ないようだった。人通りもない。 叫んで、果たして助けが来るかどうか。だが、何もしないよりはましだ。
「だ、だれうぐっ!」
「しー……いけない人だね」
「………っ、ふ、」
口を塞がれ、後ろから拘束され、あまりの恐怖に涙が滲む。
「あなたの名前は?」
「んん………!」
「喋れない? あなたがいけないんだよ? 大人しくして、ちゃんと僕の話を聞いてくれたら、僕だって優しくするのに」
怖い。怖い怖い怖い。 誰か助けて、誰か!
「やっと、やっと、手に入れた……ふふ、がはっ!?」
「っ! ハァ、ハァ、………?」
脂汗を滲ませ、涙の溜まった目を右往左往させ、恐怖に支配されていた私は、急に解かれた拘束に地面に倒れこんだ。 人生これ以上ないという程の恐怖を味わった私は、情けなくも腰を抜かし、青年の姿を探した。
これ以上ないと感じた恐怖は、
更に、上塗りされる事となる。
「っう、なんだ?…………… あ? え? ひっ! なん、ぎゃぁあああああ!!」
「ひっ!?」
人生初の、
真の恐怖を目の当たりにして。
「……………」
自分の息遣いが自棄に大きく聞こえる。 ゴク、と鳴らした喉以外、指先1つ、微動だにする事が出来なかった。
暗がりで、青年が倒れている。 といっても、聞こえた声と、僅かな黒い塊でそう判断しただけで、多分、としか言えないが。
あの、辺りを切り裂くような叫びを最後に、
動かない。
そして、彼に覆い被さる何かは、黒くて、公園の灯りでは姿が捉えられなかった。
私が動けないのは、その何かのせい。
静かな公園に、蠢く黒い塊。 耳を澄ませれば、僅かに聞こえるクチャクチャと何かを貪るような音。
知らず知らず、動かせないと思っていた身体は、震えていた。
その時、 正に最悪のタイミングで、 静寂を破る電子音が響いた。
ピリリリリ、と私から音が発っせられ、背筋が凍った。
黒い何かが、反応する。 ゆらりと、地面に置かれたままの荷物だったような塊が、縦に長くなって。 身を、起こしたのだと知れる。
何かは解らないが、私の常識は人間か、何かの獣だと、理解出来る範囲の何かだと、この時までは思っていた。
暗くて、姿も判別出来ない筈なのに、こちらを向いた赤い瞳ははっきりと闇夜に浮かんでいた。
相変わらず、携帯は鳴っていて。
「…………」
動いて、動いて、動いて、動いて
動いて!
「…………っ!」
強引に金縛りから抜け出た時のように。 自分のものではなかった身体が、指が1本動いた拍子に全身に感覚が戻り、 私は前倒しになりながら逃げようと足を動かした。
だが、足は思うように動かなかった。 ガクガクと震え、上手く走れない。それでも、逃げなければ。
転びそうになりながら、何度も手をつきながら、 夢中で駆けた。
逃げなきゃ、
死ぬ。
「ハァッ! っ、ハァッ! ハァッ!」
ひたすら灯りを求めて。 だけど、
「ぅあっ!?」
何かが腕を掠めて、私は遂に転んでしまった。アスファルトが身体に優しい筈もなく、痛みが襲う。
そんな事に、構ってはいられなかったけれど。
「うう、ハァ、ハァ、………ぁ」
急いで身体を起こして、起こしきれないうちに、先に上げた視線は、絶望の景色を映した。
愕然と、見上げるしかなかった。
凶暴なドーベルマン、とか、そんなのが可愛いもんだと思われるような、犬のような、だけど明らかに1回りも2回りも大きな身体。
開いた口から見える牙と、出した赤い舌からは、赤い液体が滴っている。
真っ赤な双眼と、同じ、赤。
私の前で、唸りを上げ、見下ろすその獣は、 決してこの世に存在しない何かだった。
「……ぁ、あ、や、」
殺される。
死に直面すると、人生が走馬灯のように駆け巡ると聞いたが、私の脳裏に浮かんだのは、
たった1人の笑顔だった。
君をまだ
私は
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