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「ようこそー」
笑い掛けたのはおれだけ。 あの子は浅く頭を下げてそれに応えると、視線を見渡すようにうろつかせ、やがておれの前、いっちゃんで止まった。いっちゃんは僅かに首を傾けて、くいと顎をしゃくる。あの子がおずおずと教室に入って来た。 なんで話し掛けたおれじゃなく、いっちゃん? まあ、一番しっかりしてるふうに見えるかもしんないけどさー。でも、いっちゃんがすんごいドライなのはあの子だって分かってるはずなのに。むー、面白くなーい。
「彩ちゃん彩ちゃん、此処空いてるよー」
「え………」
隣の机を椅子ごと引き寄せ、卓上をべしべし叩いて示す。あの子は何故か困った顔をした。
「あの、私、大丈夫です」
え、断られた? 断られた。え、え、なんで? あの子は一番手前の、つまり前列廊下側の一番端っこに、静かに座った。予想だにしてなくて、ぽかんとしたおれを笑う声が聞こえる。後ろ姿ではっきりしないけど、いっちゃんの空気が柔らかくなった気がするし、隣の千尋がくすりと笑ったのが横目で見れた。明け透けなのはひなと虎。ひななんて、だっさ、とまで言った。振り返って睨む。 ちょっとだけ頭を起こしていたひなは、上目遣いにおれを見返したけど、特に何にも言わず、にやにや笑い顔のまま、頬杖をついた。
「お高くとまってまーす」
そのひなが、毒を吐いた。 おれ達には、聞き慣れた彼の毒舌。くすくすと笑う、可愛い顔の友人は、実は腹ん中真っ黒だ。だがおれ達には当然分かり切ったことでも、他はそうじゃない。 外見に騙されているやつらは五万と居る。それはそうだろう。ひなが遠慮なく毒を吐くのは、おれ達の前でだけなんだから。 ガタン、机が鳴く音がした。 前に向き直れば、あの子が立ち上がっていた。くるり、振り向く。綺麗な二重の瞳が、怒りに燃えていた。
「…………………………」
ずかずかと、教室の後ろへと向かうのを、目で追っていく。あの子はひなの隣で止まった。ひなは相変わらずにやにやしている。
「なあにー? なんか文句でも?」
ひなが、絡む。今日会ったばかりの、他人に、絡んでいる。 あの子は無言でひなを睨み付けながら、隣の机の椅子を引く。そしてするりと、滑るような動作で、そこに座った。 意外だったのは、おれだけじゃなくて、ひなは挑発していた笑顔を忘れて、珍しい物でも見るように、あの子を見ていた。樹の言う通りだな、隣で小さな声が言った。
「っちょっと、なに座ってんの、誰がいいって言ったよ」
一泊どころか三泊くらい遅れて、ひなが顔を顰めた。あの子は涼しい顔でそれを見返すと、決まりでもあるんですかとしれっと言い返した。おれの目は、見開きっぱなしだ。ちょっとこの子、凄くないか?
「そういう事じゃ、他にも席、こんないっぱい席空いてるでしょ! ほら、好きなとこ座んなよ!」
「だから、好きな所に座ってます」
手で教室を示したひなに見向きもしない。見た目より、度胸あんのかもしんない。或いは怒ると据わるのか。そう言えば、昨日も確か、怒ってた気がする。呼びに行ったら、部屋に居なくて。仕方なく近隣を視たら、コンビニで小銭投げつけられてて。命令だし取り敢えず迎えに行ったら、なんか凄く怒ってた。なんで怒ってたのかなんて、興味がないから気にもしてなかったけど。 今はちょっと、興味があるかもしんない。 支部長を前に、頭を下げたあの子の横顔は、長い髪に邪魔されて、見えなかった。見てみたかったなと、今はちょっとだけ、思える。
「っばっかじゃないの、勝手にすれば!」
ひなは、自分が動くのは癪なんだろーな、相手が動かないと悟ったらぷくと頬を膨らませ、外方を向いた。あの子は何を言うでもなく、姿勢良く、背筋をピンと伸ばして前を見据えたまま。 ――綺麗な顔だな。 思って、顔だけはクラスに見合っていると感じた自分は、普通の人とちょっとずれているのかもしれない。何がどう違うのかは、判らないけれど。普通が何か、判らないけれど。
「よく、わかんないなあ」
身体を開いて後ろを振り返っていたから、丁度正面に千尋が居る。おれと違って、頬杖をついて首だけで振り返っていた千尋は、眠そうな眼でおれを見上げた。なにが、訊かれた気がして口を開く。
「お互い嫌ってるふうなのに。なんでわざわざ隣に座るの?」
おれなら、余計な波風は立てない。嫌われてる相手なら近づかなきゃいいじゃん。ほっときゃいいじゃん。なんで? わかんない。
「だから、止めたんだろ」
後に続く言葉を期待して見返すおれから、千尋はふいと視線を前に戻す。 え? それだけ?
「何をよ」
「……………………」
え、まじでそれだけなの? 止めたって何をよ。全然意味わかんない。いやいやおれなんでひなの隣なのか訊いたんだけど。はあ? 止めたってなに。
「ねー何をー? てかなんの話なのー?」
覗き込み、しつこく訊くと千尋は眉を寄せた。面倒そうにチラリとおれを見る。
「………逃げるのをだ」
「……………………」
顔を顰め、数度瞬く。千尋は口数が多くないし、更にその少ない言葉達がわかりにくいときてる。賢いいっちゃんなんかは割とすぐ理解出来るみたいだけど、おれには難しい。おれあんま頭良くないし。それでも一応暫く考えてみたけど、やっぱり、よくわからなかった。
「逃げるのを止めたの? 何から? ひなから?」
だからまた訊いてみたんだけど、千尋はもうおれを見ることはなかった。出た超勝手。ひとのこと言えないけどさー、そういうの、嫌われるよー。 好きに言いたいことを言って、言いたくないことは言わない。千尋は、まったくシンプルな男だ。それは理想的とも言えるかもしれない。けど、理想かもしれないが、生きにくい。 そうしたくとも出来ないのが、現実だから。
「……逃げられたら、逃げたいけどなー」
千尋に答える気がないから、おれも考えるのを止めて、何となく呟いた。
何から?
此処(現実)から。
時計の針はもうすぐ、9時40分を指そうとしている。チャイムが鳴る。もうすぐ。あと30秒。ひなのヘッドホンから、音が漏れている。ふあ、と欠伸が漏れた。 その時、秒針に10秒ほど遅れて、校舎にチャイムが響いた。と同時に、教室の扉が開く。格闘技家みたいな体格の教官が、のっそのっそと巨体を揺らし、教壇に上がる。 さあ楽しいお勉強の時間だ。
「おはよう」
いつものように、無愛想に教官が口だけを動かす。
「今日はこのクラスにだけ、上から特別に指導があった。通常の予定を変更して、能力測定をする」
「えー、じゃあ移動すんのー?」
「私語は慎め飛鳥。殺すぞ」
いやーん怖ーい。もう、すぐ凄むんだからー。 鋭い目にぎろりと睨まれて、へえい、と緩い返事を返す。
「それが終われば通常訓練に戻っていい。午後の禁足エリア巡回に遅れるなよ」
捨て台詞にそれだけ言って、教官は教室を出て行った。
「めんどくさー」
「測定はまだ先の筈だが……なんだろうな」
最初に立ち上がったいっちゃんは、なんだか難しい顔をしていた。仕方なくおれも立ち上がる。
「なんだろーって、だから測定でしょ」
「いやそれは恐らく便宜上の……」
いっちゃんは言い掛けて、ちらりと教室の後ろを見ると、中途半端なまま黙って歩き始めてしまった。それを追うように椅子を引く音が響く。 便宜上? ってじゃあほんとは測定じゃないってこと? 首を捻るおれを余所に、虎が窓際を歩いて、おれの横を過ぎて行く。ガラリ、音に反応して振り返れば、後ろのドアからひなが出て行くところだった。あ、そうだ。ついでのようにあの子を見る。凄く困った顔をして、キョロキョロと忙しなく皆を目で追っていた。ぱちり、目が合う。にっこり、笑って返す。相手は瞬きながら考えるようにして、一旦視線をうろつかせ、やがてそろりとおれを見上げた。
「あ、あの、何処に、何処か行くんですか?」
ああそっか、そういうのもわかんないのか。
「そーだよー。研究部。あそこにはなんだかんだで、結構出入りするんだー」
「そう、なんですか」
躊躇うような素振りを見せてから、あの子がゆっくり、立ち上がる。そして不意に首を傾げた。不思議に思って視線を追う。おれの隣。机に伏した千尋が居た。いつの間に寝たこの子は。もー……、ため息を吐いて、肩を揺する。
「千尋、起きて、移動だってー。おーい、千尋ー、ちーいー、ちいちゃーんいって!」
足踏まれた! なんで!?
「気色悪い」
「何が!」
むすぅ、と顔を顰めた千尋が顔を上げる。ついでに今朝せっかく直してあげた寝癖がひとつ、ぴよん、と跳ねた。
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