33
優しく、しないで。
私の好きな君で、いないで。
時間はちっとも優しくない。 変われたら。変わってくれたら。
いくら待てども、それは叶わなかった。
開いたドアから射す光が眩しくて、目を細めた。 タワーをぐるりと囲むのは、川のような池掘りで、橋が幾つか架かっている。面白いのは、幅5・6メートルの堀の壁に、チラチラと電気の明かりが見える事だ。底は深く、見えない。 橋を渡り切ったところで車から降りた私は、柵も手摺りもないそこを、覗き込んだ。 ゆらゆら、赤や黄色が揺れている。なんだか、水の底に別の文明があるみたいで、不思議だ。
見えない底に、目を凝らしているとふと、水面に写る私の隣に、人影が顔を出した。 顔を上げ、隣を見た瞬間、心臓が跳ねた。
「はっ、林さ…………」
一瞬にして昨夜の自分が、蘇る。 昨夜の林さんの台詞が、冷えた瞳が、背中が、蘇る。
「やあ、おはよう」
「あっ、おっ、おはようございます!」
大袈裟なくらい、ガバリと頭を下げた。 覚悟を決めた筈でも、ちょっとこれはいきなり過ぎる。心の準備もくそもない。慌てる。慌てるでしょうよ。今頭は白紙状態。
「あっ」
あ?
上がった声を疑問に思って、頭を上げようとして、そして自分が傾いて行くのが分かった。
「えっ、わ、わ、」
「おっと危ない」
水面が自棄にキラキラして見え、落ちる――思った時、前のめりになった私の目の前に、にゅう、と逞しい腕が伸びた。 肩を抱くように支えられて、ゆっくり、押し戻される自分の身体。
「あ……りがとう、ございます」
「はは、君は見た目よりも中々、抜けているんだねえ」
気を付けて、と微笑まれて、小さく、はい、と返す。 下げた視線は、私の倍はありそうな、日焼けした腕を映した。
「支部長、こんな所に居ていいんですか?」
「え? いやあ、彩ちゃんの初登校を見逃してはなるまい」
私の後ろへと声を掛ける林さんの腕が離れ、短く息を吐いた。しっかりしろ、私。
「何それ、親バカ?」
「飛鳥ー、お前、朝見回り居なかったらしいなー?」
「おれ当番なんで先行きます!」
当番て何の? さあ? と遠くでの会話と、隣からの、まったく……という溜め息混じりの呟きと。 聞こえてくるのはさして突飛なものではない事柄で。
息を吸い込んだ。
「あの、林さん」
「うん?」
微笑む彼は、昨日の事など、気にも止めてないのかもしれない。私だけが気にして、私だけが拘っているのかもしれない。 けれど。
「昨夜は、軽率でした。すみません」
「………………ふむ」
下げた頭上から、小さな唸り声が降ってくる。
「まだ………まだ、私を見捨てないでくださるなら、此処に置いてください」
まだ、呆れていないなら。
「お願いします」
どうか私に、チャンスを。
「……………見てないでさっさと行け、阿呆ども」
「っ、し、失礼します」
「ぼっ、僕見てな、いた! とっ虎がぶったあ!」
「ウッセさっさと行けバカ!」
喉は渇くし、変な汗は掻いてるし、緊張でどうにかなりそう。でも、返事がまだだ。まだだから、頭は上げない。ぎゅう、と拳を握った。
「…………なんだ千尋」
「…………別に、今日は逃避しないんだと思って」
「こ、と、ば、づ、か、い」
「たいへんしつれーしましたシブチョー」
「棒読みかよ…………まったく、可愛くねえガキ共だ」
林さんの溜め息の後、沈黙が降りる。後頭部がムズムズするのは、視線を受けていると感じるから。 黙ったままなのは、困っているからだろうか。いきなりこんな事を言って、困らせてしまった……?
林さんの黒い革靴をちらと見たその時、スッと視界に入る彼の顔。 驚いて僅かに頭を上げると、しゃがみ込んだ林さんが、私を上目に見て微笑んだ。 そしてその微笑を消し去り、真っ直ぐ、私を捕えた。
「君はあまり、積極的ではなかった」
指を組む、林さんの言葉に、ぐっと喉が締まる。
「何が、君を変えたのかな?」
鋭い黒の瞳。見つめられると、怖くなる。逸らして逃げ出してしまいたくなる。 私に自信がないから、そう思うのかもしれない。林さんは、きっと甘えを許さない。自分にも、他人にも。 だから怖い。今までの私は、軽蔑されて当然の人間だった。さっきだって、駄目とは言われないだろうと心の何処かで思っていた。そういう卑怯な自分を、彼の黒い瞳は見透かすようで。
でも。
「多分、全部、だと思います」
ここで逃げたら、前と同じだ。私だってそんな自分は嫌だ。 声は震えていたけれど、何とか言葉を返すと、ほう、と林さんは目を細め、にっこり、微笑んだ。
「真面目だねえ、彩ちゃんは。では、わたしも真面目に答えよう」
不意に顔を横に向けた林さんに釣られ、私も隣を見る。そこには白いタワー。
「人は中々変わらない。周りがどんなに豹変しようが、受け止められずに置いていかれるのは多々ある事だ。別に、それが悪いと言う訳じゃない。臭いものには蓋。それで幸せなら、構わないんだよ」
視線を戻すと、林さんは立ち上がるところだった。 結局、答えは貰えていない。私は此処にいていいのだろうか。 その欲求が、視線に表れ、林さんを追うように私の頭も上がる。
「わ、」
と、中途半端なところで、ぽんと頭に何かが乗った。 もたげた首まで伝わる、軽い重量。
「けれどそうでないなら、痛みを受ける事にもなるだろう。君がそれを甘んじて受けると言うなら、わたしも相応に協力するよ」
頭から重量が消える。顔を上げて、何かが、きっと林さんの手が、乗っていたそこにそっと触れた。
「お客さん扱いを止める事にもなるよ」
林さんの言葉は厳しい。それなのに、彼の顔は困ったような、寂しさを孕んだ苦笑。
「いや、あの、甘んじて受けるつもりはないですけど……」
痛いのは嫌です。そう呟けば、林さんは瞳を小さく見開いた。 そして素早く口元を押さえたかと思うと、ぶふ、とそこから空気を吹き出した。
「そ、れはそうだよね、もっともだ、っ、」
彼の笑いが、吐息となって指の間から零れている。 な、なんで笑われているんだ。
「ごめ、ふ、そうくるとは思ってなか、ったから」
「はあ」
いつも浮かべている微笑ではなく、明らかに本気笑いだ。戸惑いと、意外なものを見れたような驚きで、曖昧な返事しかできなかった。 何がそんなに面白いんだろう。林さんのツボって一体………。
「はあー……、いやいや、ごめんごめん。面白いね君は。潰れるのが先か、取り戻すのが先か、わたしにも見えないよ」
「はあ……?」
笑いを納めて、微笑みに変えた林さんは、首を傾げた私を気にせず、手を差し出した。 その手を見て、疑問を乗せて林さんを見上げる。
「Welcome to underground organ」
突然流れた流暢な英語に、瞬く。
「危険と隣合わせの世界だが、」
手を取られて。
「何処よりも何よりも、強い絆が、此処にはある」
ぎゅ、と握られる。
「君に立ち向かう意志があるならば、その絆を結ぶ事が出来たなら、」
私はきっと、この時から。
「君の信頼を、決して裏切らないことを、約束しよう」
彼に認めて貰うことが目標になったんだろう。 厳しく、気高い林さんに、どうしようもない引力で惹き付けられて。
「但し、私の信頼を得られたら、だがね」
悔しい、と思った。私に期待していない。見せるのは背中だけ。 悔しいじゃないか。
君の期待に応える事が出来なかったあの頃。
出来ないのではなく、しない、だけだった。
でも私は今、結果を出して応えたいと、心から思うんだ。 天井を飾る白い光が、自然ではない目映い光が、非現実を余す事なく照らし出す此処で。
この人を振り向かせたいと、そう思うんだ。
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