28
彼女は、私を、あまり良くは思っていないだろうなと、思った。 思って、いたかった。
可愛らしい笑顔で、私に挨拶してみせる、彼女は、欠片も嫌悪感を示していなかったのに。
示していなかったから。
エレベーターに響くのは、戸上さんの陽気な声と、不機嫌そうな永岡さんの声と、眠そうな八草さんの声。 1番最後に乗り込んだ私は、背後の会話を聞き流しながら、もやもやと自分の失態を嘆いて、ずっと黙っていた。 林さんは、ううん、博士や彼らみんなは、アンノウンが現れるまで、普通に生活していたのだろうか。して、いたんだろう。 それがある日、突然崩れ去る。 今の私と同じ、或いは、周りごと日常が崩れた彼らの方が、悲惨。
眉を顰めた。
この考え方って、ちょっと、いや大分、かなり、最低な考え方だ。 人は自分より不幸な人間を見た時、安心を得る。意識してもしなくても、そこに優越を感じ、自分の幸せを確認するのだ。
今の私は、それだ。 最低だ、私。
「………………………」
「書けないもんー! お願い、いっちゃん!」
「知るか」
彼らは、私とは違う。
此処に来てから、私は、私の欠点ばかりを、見せつけられている。 自分を被害者だと思い。 かといって、同情されたらされたで腹を立てる。 誰より自分が自分を可哀想だと思っているくせに。 努力しているつもりになって。 恐怖を感じる度に、拒絶する。 私は悪くない。 なんで私がこんな目に。 関係ない林さんにそれをぶつけたりして。 子どもの癇癪とおんなじだそんなの。 挙句、自分より不幸なものを探すなんて。
「女の子紹介するからぁ!」
「いらねえよそんなもん! お前と一緒にすんな!」
彼らは、私とは違う。
私は、最低だ。 謝る事さえ、まともに出来ない。
――ごめんね、彩
「っ!」
「えー、じゃあ何したら………」
「お前の頭ん中はいつも、」
「違う謝って欲しい訳じゃない!」
「それ、か…………」
はっと、我に返った時には、もう遅かった。
「………………………」
「……………どしたの急に」
思考に嵌まり過ぎた。咄嗟に口を突いて出た言葉を、今何言った私、と繰り返して、口元を押さえたまま、視線を泳がせる。
「あ、いや、その…………つ、疲れてて」
背後の静かな空気が怖い。
「…………寝てた、の? 寝言?」
そんなワケはない。
けど、この際それでもいい。
「き、気にしないで下さい」
「…………また現実逃避か?」
ガクン、とエレベーターが止まった。
「え……………」
僅かに首だけで振り返った視界の隅で、扉が開くのが見えた。
「逃げたい時は、逃げてもいい。高垣彩」
私の横を通り過ぎる八草さんは、真っ直ぐ前を向いていた。
「千尋くんやっさしー」
続いて、へらへら笑う、戸上さん。
「………………………」
憮然とした、永岡さん。
目で追って、閉まり掛けた扉に、慌てて手を出した。 止まる気配のない3人の背中に、早足で近寄る。
逃げてもいいって、何だそれ。逃げ場なんかないじゃないか。なんでそんな事、逃げてもって、逃げても、ああ、八草さんの言いたいこと、解んない。
「あ、おれ用事あるから、此処でー」
「お前、散々人を頼っといて、反省文どうすんだよ」
自動ドアを潜った時点で、戸上さんは携帯片手に、にこやかに手を振った。 永岡さんが呆れた眼差しを送る。
「だから頼んだんじゃん。時間ないからさ、後で写させて」
「お前の用事次第。あと手伝うのはいいが写すのはアウトだ」
永岡さんて、意外と面倒見がいいのかも。 ちょっとだけ驚いて、後方から彼らを見ていたが。
「何の用事って、そんなの決まってんじゃんデー」
「死ね」
「いたぁ!? ちょ、蹴る事なくない!?」
ガス、と足に蹴りを入れられた戸上さんが、叫ぶ。 訂正、意外じゃなく、酷い。
「反省文は自分で書くんだな」
「そこを何とか! ほら、おれって、罪な男だからー」
「死ね。3回ぐらい死ね」
へこたれない戸上さんは、案の定、永岡さんに叩かれている。 いたい、いたい、と声を上げる戸上さん。ちょっとだけ。ちょっとだけ、吐息が漏れる程度のちょっとだけ、私は笑った。笑って、驚いた。今、私、笑った、と驚いた。
「3回ってなに!? おれ1回死んだら終わりだからね!?」
笑った。私。 意識してじゃなくて、緩んだ口元を、そっと撫でる。肩から、力が抜けている。そんな事に、私は今気が付いた。自分の身体なのに。 何だろう、この、不思議な感覚。緩む? 違う。快い? 否。楽、ちょっと近い。リラックスと程遠い。でも確かに、心の何処かがほっとするような。軽い? …………………軽い。それだ。
「帰る」
「あっ、待ってよいっちゃ、千尋も何か言ってや、既に居ない!」
八草さんは、止まっていた車に、とっくに乗り込んでいる。マイペースな人ばかり。 けど、私に気を使わないそれらが、普段の彼らなのかもと思うと、やっぱり、軽くなる気がする。暗く沈んだ気持ちが、軽くなった気がする。 腫れ物に触るように扱われるよりよっぽど、楽だ。
気負わなくても、いいのかな。 自分を責めなくても、いいのかな。 悲観ばかりしていて、くたびれた。 頑張ろうとしなくても、いいのかな。
「………あ」
逃げたい時は、逃げてもいい。
「明日遅れんなよ」
「ちょ、ちょっ、薄情者ー!」
うわあん! とわざとらしい戸上さんの泣き声を聞きながら、もうちょっとだけ、頑張ろうと思った。
自分は嫌い。勝手に評価されるのも嫌い。 けど、私を解って貰えないと嘆く前に、私は、解って貰える努力をしただろうか。
世界を恨む前に。
私は、世界を解ろうと、しただろうか。
全部を受け止められなくても。
「………おい、置いてくぞ」
「え、あ、」
受け止められる事から、受け止めていけばいい。
「はい!」
逃げたくなったら、逃げたって、いいんだから。
後退しても、小さく1歩、また踏み出せたら。
それは私の、前進。になるのだから。
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