22
杏仁豆腐に入っている枸杞の実が苦手だと、私の皿へと移した。
栄養があるんだから食べなさいと言った私を、母親みたいだと笑った。
そういう些細な日常を、私は愛していたのに。 君はそうじゃなかった。
朗らかに笑っている。 隣の私はぶすっと眉を寄せて俯いているのに、いちごの髪ゴムで縛った前髪を揺らす、戸上さんの口は、止まる事を知らない。
「デートいつにするー?」
いやデートなんかしませんけど。
「来週だったらー、水曜なんてどう?」
ため息を吐きたい衝動をなんとか堪え、私は景色の流れる窓から視線を外した。
「水曜、」
「あ、水曜日以外は埋まってるから」
「………………デー、」
「再来週だったらまだ火曜日以外は大丈夫!」
「……………………」
にこにこと、笑っているのである。 溜め息は、結局出てしまった。
「あ、着いちゃった。この話はまた後でねー」
言いたい事だけ言い、狭い車中から、戸上さんは飛び出すように外へと出て行く。 あ、外、じゃないか。建物の中の外? いや待てよ、地下って建物って言うの? ややこしいな………。
あれから寮から車を出して貰い、夜でも煌々と輝く、中心に据えられた巨大なタワーへ向かった。 ロータリーとなっている扉前に、車は到着したのだが、ここまで連れて来てくれた運転手さんは、私の仮住い、A棟寮専属の運転手さんらしい。戸上さんが教えてくれた。
「ありがとうございました」
お礼を述べて、戸上さんが開けたドアへと身を移す。 運転手さんはミラー越しにチラリと一瞥して、軽く頭を下げた。必要最低限の会話しか、彼ら従業員はしない。そういう、決まりなのだそう。 重苦しい沈黙が流れなかったのは、戸上さんが終始お喋りをしていたからだ。 かと言って、あまり感謝する気になれないのは、彼の話の内容が私の苦手分野だった為だろう。異性と話すのは、疲れる。
車から降りると、タワーの玄関と思われる、ガラスの自動ドアが開く所だった。置いて行かれては堪らないと、慌てて戸上さんへと駆け寄る。 彼のような人でも、こんな場所に1人にされるよりはマシだった。コンビニの一連で、私は酷く弱気になっていた。 知らない世界は、今更ながら、心細いと思わせる。
「大分時間食っちゃったなー。花ちゃんに怒られるかもー」
のんびりとドアを潜りながら、言う台詞ではないだろう。思っても、口にする勇気はないが。 中は明るく、殺風景だった。無機質なコンクリートの灰色が丸く囲み、エントランスホールにあたる此処は十分広いが、観葉植物の1つくらい、あってもいいのに。
入って直ぐに、上下共黒っぽい服を纏った男の人が、2人出入口を挟んで立っていた。同じ服を着ている事から、もしかして、ガードマンか何かだろうかと思推する。 だが、じろりと視線を当てられて慌てて俯いた。こ、怖い………。
「ん?」
急いで戸上さんとの距離を詰め隣に並んだ私に、戸上さんが首を傾げる。何か用? との意味が込められていたそれに、今度は急いで頭を回転させる。 ええと何か、話題、話題。
「あ、あの、警報はアンノウンと関係あるんですか………?」
「ああ」
ぱっと思い付いたのがそれしかなかったのだが、戸上さんは今思い出したように声を上げた。
「アンノウンが発見された時に鳴るんだよ。あいつら夜中に現れる事が多いから、安眠妨害もいいとこ」
「そう、なんですか………」
前に向き直った戸上さんの背中を見つめながら、コンビニの店員が言っていた事を今一度脳内反復してみる。自棄に静かで、コツコツと足音が響く。 レベル、なんたら、とか言っていた。
「ま、今回はらくしょーっしょ。レベルEだし。彩ちゃんにも危険は少ないだろーし」
「レベルがあるんですか? アンノウンに?」
考えていた所、タイミング良く話題に上り、この際だから聞いてみる。 レベルって言うと、危険度レベルとかそんな事だろうか。
「アンノウンてゆーか、警報に種類があってね。さっきのが警戒レベルE。ちょー雑魚発見、ってとこかな」
また私に顔を向けた戸上さんが、あっけらかんと言ってみせる。 レベルは警報に掛かるのか。だがつまるところ、アンノウンのレベルに同列するわけだ。
「1番多いのがこのレベルEとD。ま、どっちでも俺にしたららくしょー!」
人好きするような笑みを浮かべているのを見れば、警戒心は解けそうなものだが、曖昧に笑って返す私は、どうも彼が苦手だ。 人が人を嫌う理由は2つ。 1つは同族嫌悪。 そしてもう1つは。
「俺らが出るのは大抵レベルCから上。Aは滅多に鳴らないけどね」
自分とあまりに違う場合だ。
「でも今回は特別。彩ちゃんが居るからね」
この場合、後者にあたるだろう。 自分の持っていないものを、彼は持っている。自分の欠点が浮き彫りになるような気がした。
「面倒くさいけどね。女の子の為なら仕方ないよね!」
彼の屈託のない笑顔は、私が卑屈だと思い知らせるから、私は瞳を伏せた。 いつも笑顔でいられたら。 そんなの、理想であって、実際には無理なのだ。いつも笑顔でなんて、いられない。いられるワケ、ないじゃない。 戸上さんがどんな人かも解らないのに、もしかしたら本当に純粋な笑顔かもしれないのに、どうしても思ってしまう。
いつも笑顔だなんて、胡散臭い
と。
「………遅い」
はっとして顔を上げる。 私に向けられたのかと思った低い声は、私の斜め前を行く戸上さんを不機嫌に睨み付けていた。 エレベーターの前で腕を組む、彼は確か――
「いっちゃん!」
弾んだ声と同じく、弾んだ足取りで、戸上さんが彼、永岡樹に駆け寄る。
「迎えに来てくれたのー?」
「来たくて来たんじゃない」
はしゃぐ戸上さんとは対照的に、腕を組んでいた永岡さんは不機嫌そうに顔を顰めている。 私も近付いて行くと、その眼鏡の奥の瞳が私へと移された、が、直ぐに反転し、彼はエレベーターのボタンを押した。 怒って、いるのだろうか。開口一番に遅いと言われたし、来たくて来たんじゃない、つまり頼まれて来たのだろう。多分博士辺りに。
「あれ、エレベーター使うの? そんなまどろっこしい事しないで、いつもみたいにパパッと行けばいーじゃん?」
遅くなった事を詫びようかとも思ったが、怒っていたらと声を掛けるのを躊躇う内に、戸上さんが引き続き何事もなかったかのように彼に話し掛ける。
「博士に使うなと言われたんだ。と言うか、もう一度言うが、遅い」
「なんでなんでー? 何で使ったらいけないのー?」
エレベーターの扉が開く。 乗り込んだ永岡さんの顔が見えた瞬間、私は短く息を吸い込んだ。 僅に刻まれていた眉間の皺は深さを増し、奥二重の涼やかな瞳は、鋭く戸上さんを睨み付けていた。 も、物凄く、怒っている………!
「飛鳥、俺は遅い、と言ったんだが」
「うんそーね」
永岡さんの後方に乗り込んだ戸上さんに続き、なるべく目を合わさないよう俯き、私は永岡さんの横を通り過ぎた。 こんなに怒りを全面に押し出してらっしゃるのに、調子を崩さない戸上さんは何なんだ。お願いだからやめてくれ私が怖い。
「だって部屋に居なかったんだもーん。ねーワープしようよワープ!」
「………………………」
勘弁して欲しい。 首だけで僅に振り向いた永岡さんの目が、私に向けられた。 もう本当に、何でコンビニなんかに行ったの私。
「すっ、すみません!」
視線に耐えられそうになかった私は、早急に頭を下げた。心臓がドクドクしている。
「…………………」
「何謝ってんの? 変な彩ちゃん」
お前が私のせいだと言わんばかりだったからじゃないか! と頭の中で非難をぶつけるも、怖くて下げた頭を上げられず、ギュッと目を瞑る。
そしてガクンと、エレベーターが移動を始めた。
「…………………」
「…………………」
「上行くのめんどくさーい」
無視、された、のよね、これは。 かあ、と頬が熱くなるのを感じた。戸上さんでさえも、頭を下げたままの私から解り易く興味が失せた態度で。
指が震える。唇を噛んだ。 頭は、上げられなかった。
「っ、」
暫しの沈黙。 だけどとても重い沈黙、の後。
「……………別に、飛鳥が行った時点で諦めていた」
「何それー! どういう意味!」
ため息と共に吐き出された言葉に、私は漸くソロリと顔を上げた。 むくれる戸上さんに、背中を向けたままの永岡さんが、お前に頼む事自体が間違っている、と単調に返しているのを見て、少しだけ、肩から力が抜けた。 声に乱れが一切ない。そう、最初からずっと、永岡さんの声の調子は一本だ。 淡白でいて、冷たい、低い声。
「あ………あの、今後は気をつけます」
「………別に、俺は困らない。俺に言うな」
「は、はい。すみません」
「いっちゃんのばかー」
口を尖らせる戸上さんを、以降永岡さんは振り返る事はなかった。 暫く文句を垂れていた戸上さんも、その内ポケットから携帯を出して弄り始めてしまった。 戸上さんが言ったワープとか、その意味は気になったけれど、今の永岡さんにこれ以上、話し掛ける勇気はない。
静かな空間に、エレベーターの僅かな稼働音と、携帯を操作するカチカチという音だけが響いていた。 長い間エレベーターという密閉空間を共にするのが、こんなに息苦しいだなんて。
扉が開いた瞬間に、ほっと息を吐いてしまった程、私は緊張していた。
だが気が緩んだところに、飛び込んできた景色は、不意打ちのように私にガンと衝撃を与えた。永岡さん、戸上さんの後に続き、エレベーターを降りた私は、暫く呆然となる。 エントランスは殺風景だったが、ガラリと変わって、此処は電気機器で溢れていた。 常に何処かで電子音が鳴り、1階に居た黒い服の人と同じ姿をした人が、何人も忙しなく行ったり来たり。 タワーの芯を通るエレベーターを背に、扇状に広がる視界の強烈さに、言葉が出ない。 宇宙ステーションか、と思ったところで妙にしっくり来ただけだった。
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