15

結局誰も好きになる事が出来なくて。


















来訪を告げる音にはっとする。
そうだ、昨日言っていたじゃないか。空さんが迎えに来ると。
鼻を啜りながら立ち上がり、何故か私はそのまま右往左往。突然で何をしたらいいのか解らなくなってしまっていた。私からの返答が何も無かったからだろう。ピンポーンと再び音が鳴り響く。

「あ、え、あっ、はいっ!」

何に慌てているのか、完全にこんがらがった頭で解る筈もなく、もう半条件反射のように返事をした。鞄を抱えたまま玄関に行こうとして、途中で「あっ」とまた引き返す。
ソファーに鞄を置いてまた玄関へと駆け、そこでもう1度鳴ったインターホンにどんどん気が急いて、勢い良くドアを開けた。

「いっ!?」
「あっ」

ゴッ、と鈍い音を立て、空さんにドアがクリーンヒットした。ドアノブを掴む手に振動が伝わり、その衝撃が強い事がいやでも解る。一気に血の気が引き、慌てて空さんに駆け寄った。

「すいません!」

「っう……」

空さんは廊下に座り込み、鼻を押さえている。慌てる私にひらひらと手を振り返し、大丈夫だとジェスチャーで伝えたいのだろうが、どう考えても大丈夫じゃない。相当痛かった筈だ。声を出さないのが何よりの証拠。

「見せて下さい!」

「うー、平気平気」

「駄目ですよ! もし折れてたりしたら……」

申し訳なさ過ぎて一生頭が上がらない。

「はは、折れてないよ。本当に大丈夫だから。支部長の拳の方が痛いよ」

ちょっと涙目な空さんが、私を見上げながら瞳を細めた。「でも」と尚も食い下がる私に空さんは唸り、何かを考えるように視線を動かすと、じゃあと言葉を続ける。

「じゃあ、冷やしたいからちょっと上げてくれる?」

「あ、はい!」

立ち上がった空さんと2人、部屋へと戻ろうとし、振り返って私は固まった。

「あ」

ドアが閉まっている。
ドアが、閉まって、閉まって…………。

「?」

「すいません………」

首だけで空さんの方を向き、情けない声で謝る。空さんは不思議そうに首を傾げていたが、私の顔を見てぎょっとしたように目を見張った。
ドアが閉まっている、と言う事は。

「私、鍵を中に置いてきちゃいました……」

「あ……ああ、そ、そうか慌ててたみたいだったもんね」

「すみませっ、私の不注意で、本当にすみません!」

「ああっ、や、大丈夫大丈夫! 時間指定してなかった俺が悪いんだし! 急に来られたら慌てるよね。俺管理人に言って鍵開けて貰うよ。待ってて」

抜けた行動に、情けさと申し訳なさが募り頭を下げた。それに慌ててフォローしてくれた空さん。鍵を取りにいかせるなんて、そんな事は出来ない。

「いえっ、私行きます!」

「いいよいいよ、彩ちゃんは此処に居て」

「駄目ですそんなの! 私のせいですから私が行きます!」

「煩いぞ。近所迷惑だ」

「あ、すいません…………うわっ!?」

廊下で喚いていたから、注意されて思わず謝ってしまった。が、いきなりの第3者の登場に、右を向いて謝って空さんを見た後また勢い良く右を向く事になった。
私が2度見した相手は私の部屋の向かいのドアから顔を出し、不機嫌そうに顔を歪めている。綺麗な黒髪が一部跳ねてしまっていて、どう見ても今まで寝ていたと言わんばかり。だが顔立ちは綺麗だ。切れ長の二重が睨むようにして見ているが、それでも尚惹き付けられる。

「廊下で騒ぐな」

「す、すいません」

「ごめんね千尋」

「チヒロ!?」

「うるせ………なんだ」

愕然と『チヒロ』を見やる。
嘘でしょ、昨日に引き続きなんていう遭遇率! というか両隣に向かいなんて嫌でも遭遇率高くなるじゃないか………!

「千尋、まだ寝ぼけてる?」

「ああ?」

「ああ? じゃないでしょ。上司に向かって」

「…………空」

「呼び捨てかよ」

立ち上がった空さんは『チヒロ』と気やすく会話しているが、私は心中穏やかではない。
彼は戸上飛鳥よりも怖くはないが、私の警戒心を呼び起こすには十分あって有り余る。

「何してるんだこんな所で」

「ちょっと事故が……」

「事故?」

「いやいや何でもないんだ。彼女を迎えに来たんだよ」

「彼女? …………あれ、お前あん時の」

ギクッ、と肩が強張る。戸上飛鳥は私を覚えていなかったが、きっと彼は覚えている。
さっきは空さんが言っていた通り寝起きで頭が鈍っていたのだろう。だから私を見ても反応しなかった。でも今は――

「確か、高垣彩」

「っ、はい」


こちらを見据える漆黒の瞳は、きっちりと私を捕えていた。昨日の今日だ、忘れる方が難しい――つまり戸上飛鳥がおかしいのだ。
呼ばれてしまった己の名前に、観念したように俯いた。やっぱり、覚えているよね、と。

「何故此処に?」

「昨日から、此方にお世話になる事になったんです」

昨日、ある筈ない事が起こって混乱のまま眠って。だけど今日、私は決意した。そのせいかは解らないけれど、『チヒロ』を前にしても昨日程の恐怖は無い。私を見下ろす瞳が冷たく、無感情だとしても、だ。
全身を侵すあの感覚は無く、チリチリと胸の底で不安を訴えている。押さえ込める程度に。

「お前は戸籍が無いらしいな。なら記憶は戻っていないんだな」

「え、は、はい」

驚いた。
この人は多分とても頭が切れる。昨日の言動がよく解らない女が、翌朝部屋の前に居た。昨日の時点で能力者である可能性は極めて低く、尚此処に居るのは何故か。
記憶が無いから。
これを一瞬で、理解したんだと思う。

「しかし記憶が戻っても上に帰れなくなるぞお前」

「え、と………」

彼が言いたい事はおそらく、この場所が機密事項だから、知った私は2度と地上では暮らせない、という事だと思う。

「彼女に関しては支部長から話があると思うよ。君と飛鳥と、樹、虎は後で軍部の支部長室に呼ばれる筈だから、その時にね」

言い淀んだ私を見兼ねてか、空さんが口を挟み、私の背に手を添えた。見上げると、視線に気付いた空さんがふわりと笑う。
ドキリとして慌てて下を向いた。この人の優しい笑顔は反則だと思う。

「じゃ、今は急いでるから」

そっと背中を押される。だが、部屋へと戻り掛けてはたと気付く。だから部屋に入れないんじゃない………!

「あの、空さん、私管理人さんの所へ行って来ますね。えと、騒がしくしてすみませんでした。失礼します」

始めに空さんを見上げ、次いで『チヒロ』を見やってそれぞれに言葉を宛てると、最後に浅く頭を下げる。
空さんは「あ、俺行くのに……」と言っていたが、敢えて聞こえないふりをし、廊下を歩き出した。

「おい、高垣彩」

「っ、はい?」

と、呼び止められて半身で振り返る。
フルネームで呼ぶとか、なんだろうこの人。普通あんまり人の事フルネームで呼ばないよね。

「俺は八草 千尋(ヤツクサ チヒロ)」

「は、はぁ、どう、も」

『チヒロ』こと、八草千尋は急に名乗り、そしてそのままドアを閉めて私の視界から消えた。
え………何、今の。意図が解らない。

「………?」

私は首を捻りながらも、1階へと向かった。ハンターって変わった人が多いのかな。そう思うに足りる個性的な面々が次から次にわいて来る。
他人を近付けないオーラを放つ唯島さん。
何も考えていない軽そうな男、戸上さん。
冷たい眼差しを隠しもせず、全く何を考えているのか解らない八草さん。

飄々とした変な人、林さん。

「……林さんはハンターなのかな」

呟いたと同時にエレベーターの扉が開いた。降りてうろ覚えの道順を歩く。寮だと言うのに、此処は広い。
昨日は見る暇無く部屋へと行ったが、今朝は歩きながら驚きの連続だった。
1階には、ホテルさながらのレストランなどがいくつかあり、売店と言うか最早それはコンビニでしょうと突っ込みたくなるような店もあった。これはホテルとして捉えた方がいい。
自分で考えた結論に自分でうんうん、と頷いたところで角に差し掛かった。

「あ、多分この辺………」

曲がれば昨日見た玄関ホールが広がっており、無事に着けたとホッと息を吐いた。
フロントには誰も居らず、戸惑いながらも奥に続くドア枠だけのそこに声を掛けてみる。

「す、すいませーん。誰か居ますかー」

すると直ぐに返事があった。女性独特の華やかな声。
奥から現れたのは案の定、と言うか予想通り、昨日西山さんの隣に居た女性だった。彼女は私を見た刹那、僅かに目を見開いた後、愛想良く笑顔を浮かべる。

「はいはーい。何かご用でしょーか?」

気にならなかったと言えば嘘になる。
だがほぼ初対面の相手に今顔見て驚きましたよね? とはとてもじゃないが聞けない。だからそれは流す事とした。もしかしたら私の気のせいかもしれないし。

「あの、昨日来た高垣ですけど、部屋にキーを置きっぱなしで出て来てしまって………」

「ああ、ノーマルの、とと、失礼しました。えと、キーでしたね」

『ノーマル』それは私が能力無しだと指し示す言葉なのだろう。多分20代前半だと思われる女性はしまった、と言うように口を揃えた指で押さえ、繕うようににっこりと笑った。
もしかしたら『ノーマル』は此処では差別的な意味があるのかもしれない。

「はい、部屋に入れなくて」

「それはそうでしょうねぇ……キーは、なるべく忘れないようにして下さいね」

「す、すいません」

なんだろう、今一瞬空気が鋭さを含んだ気がする。向かい合う女性を見ても、朗らかに笑っているだけ。
女性はそのまま後ろの小さな扉が幾つも並ぶ棚へと向かい、1つの扉を開けて中からカードを取り出した。
再び私に向き直り、笑顔のままカードを差し出す。

「使用しましたら返しに来て下さいね」

「あ、すいません。有り難うございます」

「いいえ。今度から気を付けて下さればいいですから」

「はい」

受け取って頭を下げると、引き返す。気の、せい………だよね?
女性はずっと愛想笑いを浮かべたままで、特に剣呑とした空気は無かった。急いでエレベーターまで戻りながら、変な気分を追い出す。無理に気のせいだと片付けた時、7階へと着いた。

「………あれ?」

エレベーターから真っ直ぐ伸びる廊下に出て、私は首を傾げた。廊下には誰も居ない。勿論空さんも。
階を間違えたかと思ったが、エレベーター脇の階を知らせる数字は7を示している。
取り敢えず自分の部屋へと歩く途中、私の部屋の奥、つまり隣の部屋のドアが開いた。ちょっとだけ身構える。だがそこからひょっこり顔を見せたのは予想外に空さんだった。

「あっ、空さん!」

「ああ、お帰り彩ちゃん」

呼んで、そして私は自分の口元を押さえた。いきなり名前で呼んでしまったからだ。博士と区別する為に、脳内でそう呼んでいた事が仇になり、つい口を付いて出た。
空さんは全然違和感なく返事をしたが、慌てて言い直して駆け寄る。

「か、笠沖さんすいません。お待たせしました」

「あはは、彩ちゃん何慌ててんの。そんな無理しないで呼びやすいように呼んでよ」

「あ、いや、今のはその、」

「俺は下の名前の方がいいなあ」

「え…………」

ドアを開けたまま、ノブに手を掛けて空さんはにこにこと私の言葉を待っている。歳を訊いた訳ではではないが、空さんは私より年上だろう。
いいのだろうか、いやでも本人がいいって言ってるし……。何故下の名前がいいのかは解らないが。

「えと、じゃ、じゃあ……」

「うん」

「その、そ、空、さん」

「はい」

白い歯を見せて嬉しそうに笑う。空さんとちょっとだけ仲良くなれたような、不思議とむず痒い気持ちになって、ほんの少しだけ口端を上げの少しだけ口端を上げた。
と、その時。
空さんが小さく声を上げたその時。

「さっきぶりー」

ピョコンと空さんの後ろから戸上さんが顔を出した。人懐っこい笑みで挨拶され、驚きながらも何とか挨拶し返す。

「あ、ど、どうも」

「やっぱ朝から女の子の顔見れるっていーねー」

「はあ」

「彩ちゃんが隣に来てくれて良かったよー。男ばっかだったからさー」

「はあ」

博士は確かに、フロアには男性しかいないと言っていた。他の階はどうなっているのか知らないが、博士のあの言い方なら少しは女性も居るはずだ。
朝から変にテンションの高い戸上さんに適当な返事をしている横で、空さんが私達を交互に見比べ、キョトンとした顔をしていた。

「しかもこんな可愛い子が来て、おれってなんてラッキー!」

「はあ」

悪く言うと彼はチャラチャラした人だ。言い慣れたように褒め言葉を口にするその軽さに、直ぐにお世辞だと解る。

「今度デートしようねー」

「はあ………えっ!?」

「飛鳥、彩ちゃんともう知り合いなの?」

言葉を流してしまっていたが為に戸上さんの思わぬ一言に吃驚して固まる。だが、不思議そうな顔の空さんが戸上さんへと質問を投げ掛け、私の戸惑いは放置された。

「さっきベランダでねー」

「飛鳥お前、またベランダを行き来したのか」

「うん。日向の部屋に行ってて」

「おま、何度も言ってるだろ。ベランダから出入りするなよ」

「えー便利なんだもーん。それに虎も一緒だよ? 昨日皆でゲームしてたらいつの間にか寝ちゃってさー」

「そんな事聞いてない。って、お前また一晩窓の鍵開けっ放しにしたのか!」

「あ、やべ」

「なんでいくら言っても解らないんだお前は! 危ないだろ! 泥棒にでも入られたらどうすんだ!」

「大丈夫だってー。A棟7(セブン)に泥棒に入るやつなんて居ないって」

「そんなの解らないだろ!?」

正に放置だ。
ガミガミと戸上さんを叱る空さんと、それをほぼ聞き流している戸上さん。いやでも顔は凄く嫌そうだ。
私はその2人をボケッと傍観しているしかなかった。
黙って眺めていて、不意に気が付いた。空さんの顔は傷1つない。昨日の怪我を差し置いても、ついさっきぶつけた筈の鼻辺りも何事も無かったように普通だ。空さんの綺麗な顔立ちには一分の隙もない。

「いくらSランクだからって油断してると………」

空さんの小言は続く。
兎に角何ともなさそうで、良かったと息を吐いた。

「ちゃんと聞け!」

「聞いてるよー」

「お前いつもそうやって適当に返事して! 何かあってからじゃ遅いんだぞ!?」

「ウルッセェ!!」


バタン! と大きな音。と、それに負けない大きな声。
大袈裟に肩が跳ね上がり、危うくカードを落としそうになった。そろ、と振り返ると開け放たれたドアの前に、唯島さんがえらく恐ろしい形相で立っていた。小さく悲鳴が漏れたのも、それは致し方ない事で。

「副長テメェ朝からウルセェんだよ!」

「あっ、虎! なんだその口のきき方は!」

「と、虎、落ち着いて」

「ギャーギャーギャーギャーなんだっつーんだ!」

唯島さんが叫ぶ度に首がすくむ。どうしよう、凄く怒っている。

「ギャーギャーじゃない! 虎お前もちょっと来い! またベランダ通っただろ!」

「ァア゙!?」

こっ、怖い!
なんで空さんは平気なんだ。戸上さんだって顔を青くしていると言うのに、空さんの態度は綽然(しゃくぜん)としたもの。1歩も怯まず、子を叱る親のように余裕を持って接している。

「いいからちょっと来なさい!」

「ウルセェ!」

「煩い煩いってお前、」

「副長煩い。あと虎も煩い」

ついにカードがポロリと落ちた。再び跳ねた肩と共に、すぐ近くで開いたドアから現れた八草さんのせいだ。

「あ、千尋おはよー」

「黙れ馬鹿。おい副長、急いでたんじゃなかったのか」

「さらっと酷い!?」

「あ、そうだった! 御免ね彩ちゃん!」

「っへぇ!?」

全くの放置状態から、いきなり振られて驚きと呼ばれた反応がごっちゃになる。おかげで素っ頓狂な声が出た。

「あ…………」

「あっはは、彩ちゃん面白い顔ー」

「こら飛鳥! 失礼な事言うんじゃない!」

お、面白い顔って………。
驚いたんだもの、と言うかずっと驚きっぱなしだったんだもの。仕方ないじゃないか。
ちょっとムッとしたが、背後でパタン、と静かに鳴ったドアに振り返った。

「…………唯島さん」

彼はもう、そこに居なかった。

「あ、カード借りて来たんだね」

心悲しいような気持ちで呟いてしまったが、空さんの声に意識を引き戻された。
前に向き直ると、床に落ちたカードを空さんが拾い上げているところで、そこで八草さんも「静かにしろよ」と言い残して部屋へと戻った。

「え、あ、すいません」

「はい」

「あ、すいません」

カードを手渡した後、空さんはクス、と小さく笑った。何だろう、と見上げて首を傾げると、空さんは柔らかい微笑みで言う。

「すいませんしか言ってないね」

「え? あ、そうです、ね……」

「そんじゃ、おれも戻るねー。シャワー浴びたいしー」

「ああ、飛鳥、ありがとな」

「いーえー」

「あとベランダ行き来すんなよ」

「はいはーい」

ひらひらと手を振って、戸上さんも部屋へと消えた。空さんは戸上さんの軽い返事に疲れたようなため息を吐いたが、気を取り直したのかにこっ、と笑って私を見下ろす。

「待っているから支度が終わったら下に降りて来てね。カードも返しておくよ。今度は忘れないようにね?」

「あ、はい、すいません」

「ふふ、また謝ってる」

「え、あ、すいま……えと、ありがとう、ございます」

「いいえ」

確かに謝ってばかりだ。
慌てて言い直すと、空さんを待たせてはいけないと急いで鍵を開けた。カードを空さんに渡し、ペコリと頭を下げる。
「慌てなくていいからね」と言った空さんに頷くと、彼が歩き出した背中を確認して部屋へと戻った。
靴を放り出すように脱ぐと急いで鞄へと向かう。テーブルの上のレーポート用紙とカードキーを一瞥して確認した後、鞄を開けた。

「財布、携帯、ハンドタオルとテッシュと………」

化粧ポーチ。今更かもしれないが、私の肌状態は悪い。元々そんなに化粧はしないのだが、昨日は合コンだった事もあって、きちんとファンデーションを塗ったし、ラインはひいていないがマスカラはした。
落ちにくいマスカラを使っていたからか、お風呂で見た時は目の下が黒くなっている、という事は無かったが、カールは落ちていた。
顔を洗うにも洗顔料も石鹸も無いのだし、へたにすすいで悲惨な状態になったらどうしようと、顔は手をつけていない。でもかさつく気がするし、携帯用の化粧水塗ったり、ちょっと手直ししようとポーチを掴んで洗面台へと向かった。
時間は無いので適当に済ませ、急いで財布の中を確認する。
飲む時は余裕額になるよう用意している私は、昨夜思ったより費用が掛からなかった事もあり、1万円札が1枚丸々残っていた。
次いで、私の中の大本命、携帯へと手を伸ばす。
両手で握り、ゴクッと唾を飲み込んだ。

「……………よし」

緊張して冷たくなった指先で、二つ折りの携帯を開いた。


期待と不安。

一縷の望み。

どこかで感じる諦め。


それらが混ざり合った全てを込めて。

[ 15/33 ]

[*prev] [next#]

[しおりを挟む]
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -