6
私はまだ
君を忘れていないから。
「何処に行ってたんです!」
荒げた声に再びビクリと肩を揺らす。
「解った、解ったから。しー!」
「勝手に居なくなって! 電話はひっきりなしに掛かってくるし、今日中にまとめる筈の」 「しー! しー! 静かにしろ馬鹿。起きちまうだろ」
「はぁ? 何を誤魔化してんですか。いいから早く仕事して下さいよ!」
「怒鳴るなって言ってんだろー……まったく」
「怒鳴りたくて怒鳴ってるんじゃありません!」
「うるさいなぁ。お前は俺のなんなんだ? 母親みたいだぞ」
「何って部下ですよ! 支部長の尻拭いをさせられる可哀想な部下ですよ!」
「でかい声出すなっつってんだろーが」
……………林さん、その態度は相手を煽るだけと知っての行動ですか。
ぽけら、と怒鳴り合う首から下のスーツの2人を呆気に取られ見つめていた。 林さんは黒に良く見ると細いストライプが入っているスーツ。その向かいに薄紫のワイシャツだけに黒スーツのズボンを履いた人物が立っている。 腕まくりした手を忙しなく動かして、なにやら必死な様子。
会話から、 私に付き合ったが為に林さんが部下に責められていると察する。
だから、ちょっと躊躇はしたものの、助手席から出た。 私が出て来た後も、2人は言い合っていて私に気付かない。 林さんの影で彼の部下らしき人は見えない。 でも、私のせいで林さんは責められているのだから、と意を決して話に割り込んだ。
「あの! 林さんは悪くないんです!」
「ほら見ろ。お前がうるせぇから起きちまっ、………あ」
「………え、誰ですか?」
林さんが私を見て指差し、部下らしき人を咎め、途中でまた私を見る。 2度見だ。 吃驚したのか固まっている。 そこでやっと部下らしき人の顔が見えた。
綺麗な人だな、と思った。 なんとなく、何処かで見たような気もする。
男の人だろうけど、女の人みたいに中性的な顔立ちをしていて、声がこんなに低くなければ間違えたかもしれない。
「あの、私が無理を言って、林さんを付き合わせたんです。だから、林さんはわるく」
「支部長あんたって人はぁああああああ!!」
「おぐっ!? ちょ、首っ、首締まってっ………!」
ない。 そう言おうとして、烈火の如く怒り出した部下さんに圧倒されて口をつぐんでしまった。 彼は林さんの襟首を締め上げ、ガクガクと揺さ振っている。
「仕事中に若い女とっ! 林さぁん、あれ買ってぇ。ああ、いいよ。その代わり、今日は君からしてくれるかい? きゃ、やだ林さんたらぁ。 とかやってたのか貴様ぁあああ!人が必死こいて電話に向かって頭下げてる時に貴様という奴はぁあああ!」
「うっ、ちがっ、がふっ!」
「羨ましいぞこの野郎ぉおおお!」
「やややや、やめっ、止めて下さいっ! はっ、林さんがっ! 林さんが死んじゃうっ!」
暫く放心。だけど林さんが真っ青で白目を剥き始めたのに気が付いて、慌てて部下さんにしがみ付く。 半ベソをかいてしまいながら、必死で彼に訴えた。
「え、あっ! やべっ!」
「ゴホッ! うぐ、ゲホッ!」
「はっ、林さんっ!」
部下さんが手を離し、倒れて咳き込む林さんに駆け寄る。
「ゴホッ! っ、大丈夫、だよ。ああ、よしよし、泣かないで」
咳が収まりかけると、心配する涙目の私の頭を林さんは優しく笑って撫でる。 そして肩をぽん、と1つ叩くとゆらりと立ち上がった。
「かーさーおーきー……」
「っ、ししし支部長がいけないんじゃないですかっ! 仕事ほったらかして女とデートしてるのが悪いんですよ!」
「ほぅ、お前はあくまで俺が悪いと言うんだな?」
「そそそそうじゃないっすか!」
「いい度胸だ笠沖」
「ひっ!?」
「一辺死んでこい」
「ギャァアアアアアアア!!」
林さんが、 怖いと感じた瞬間でした。
しゃがんだままだった私はペタリと駐車場の床にお尻を着けて、視界にフィルターを無理矢理掛けた。 だって、人を殴る上であり得ない音がするし、確実にこれはモザイク無しでは世間に流せない映像だ。
スッキリした顔で振り返った林さんの頬に、赤い斑点が着いていたのを見た時には、 正直悲鳴を上げそうになった。
実際はヒグッ!と息を飲んで固まっていただけだが。
「ごめんね。吃驚させちゃったよね? いやぁ、無能な部下が多くて参るよ、まったく」
まったく、は彼の口癖なのだろうか。
取り出したハンカチで頬に着いた赤を拭う林さんを見ながら、縮み上がった私はそんな全然関係無い事を思ったりした。 拭いているその手自体、赤く染まっているのが怖くて仕方なかったから、きっと私の脳は現実を拒絶したんだ。
「じゃあ、そうだな……わたしの部屋に来るかい?」
「え………」
「ああ、わたしとした事が、君をすっかり怖がらせてしまったようだ………わたしの部屋が嫌なら君が最初に目を覚ました、あそこしかないが……」
「あ、私、林さんの部屋で、いいです。ごめんなさい。ちょっと吃驚、しちゃって」
「………君は優しい子だね。行こうか。着いておいで」
彼の本当は、どれだろう。 私に対する時と明らかに違った部下への態度。
でも今は目をつぶろう。
少なくとも彼は私を敵視していない事だけは伺える。 今はそれだけで十分。
「……………林さんは、私に色々聞かないんですね」
「ん? はは、いやぁ、本当は聞きたいんだよ?」
「え………?」
「だってさ、君みたいに可愛い子の事知りたいと思っちゃうのは仕方ないだろう? おじさん嫌われたくないから怖くて聞けないけどさ、本当は好きな食べ物何かなー、とか、趣味何かなー、わたしと同じだったらいいなー、とか思う訳よ」
「好きな、食べ物、ですか?」
私の考えた事とは、全く違う考え方で返されて、 困惑気味に聞き返すと、林さんはにっこり笑う。 やっぱり、何を考えているのかは解らなかった。
「いやぁ、若い女の子と何話したらいいのか、おじさんには難しくてねぇ」
「林さんは、十分、若いです。おじさんじゃ、ありません………」
「………本当、君はいい子だね。さ、着いたよ。此処だ」
エレベーターに乗って暫く。――感覚的には降りた感じがしたが、ボタンはアルファベットで何階へ行ったのかは解らなかった――降りた先には長い廊下が左右に伸びていた。 左へ折れて歩く林さんに着いて歩く。
「此処の悪ガキ共ときたら、影では散々クソジジィだの、狸親父だの言ってる癖に、俺の前でだけいい子ぶりやがってまったく………」
本当に長い廊下だ。 窓1つない廊下は圧迫感がある。
斜め前を行く林さんのあてどもない愚痴のような物を、ぼんやりと聞いていた。 いや、ほぼ聞き流していた。
「部下にも恵まれないしねぇ………」
「……………」
だから林さんが話しながら私をどんな目で見ていたとしても、 私はそれに気付かなかった。
程なくして重厚な扉の前で、林さんは止まった。 扉の横の電子機器に、ピピ、と何かカードを通し、ついでキーボードを叩く。 最後に画面に顔を近付けて、ピー、と電子音が鳴ると、扉からカチャンカチャンカチャン、と沢山の金属音が聞こえた。
……………凄く、厳戒体制なのは私にも伝わった。
「大袈裟でしょう? 心配性な上からの命令でねぇ。鬱陶しいよまったく………はい、どうぞ?」
「お邪魔します………」
浅く頭を下げて、扉を開けてくれた林さんの前を通り過ぎ、 そして私は手に汗を掻いてしまった。口元がひくついている。
感想としては、
広い。
だ。
だだっ広い部屋。 メゾネットタイプなのか、右側に螺旋階段があって、正面には壁一杯の液晶。 左側にはカウンター式キッチンがある。 キョロキョロと挙動不審に眺めている私の肩をポン、と叩く林さんを見上げると、 彼は眉を下げ、苦笑していた。
「お茶を煎れよう。座って」
「あっ、はい。すみません。見た事も無い広さだったのでつい………」
「はは、私がこの部屋を初めて見た時も驚いたよ。なんだこの無駄に広い部屋は! ってね。適当に座っててよ」
「は、はい! 失礼、します」
これは緊張しない方が無理だ。 ガチガチになってソファーに座ると、これまた見事なまでの柔らかさ。 私の腰が丸々ソファーに埋まってしまい、危うく後ろに倒れるかと思った。
私がソファーに悪戦苦闘している間に、林さんはお茶を手に戻って来て、 クスクスと笑みを漏らした。
恥ずかしくて、益々小さくなる私を見た後、 林さんは湯呑みをテーブルに置いて、起毛の絨毯の上に胡坐を掻いて、ドカリと座った。
それに目を丸くした私に、彼は緩やかに口角を上げて。
「私は実は、この方が落ち着くんだ。悪いが君も付き合ってくれないか? 緑茶も私の好きで煎れさせてもらったんだが、良かったかな?」
「は、はい。全然、全然構いません! お茶まで出して頂いて、ありがとうございます」
緊張する私を和らげようと気を使ってくれている。
飄々としていると思ったけど、優しい人、なのかな。
お茶をすすりながら、覗き見た林さんの顔は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
相変わらず、 瞳の奥には、 何も見えない。
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