屋上への階段を駆け上る。日頃の運動不足がたたり、足ががくがくしていた。
荒い息のまま、屋上へ繋がるドアノブへ手を掛けて。
グッと手に力を込めた、次の瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「!?」
ガチャリ、と金属の無機質な音が鳴る。
唐突なその異変に驚き、その反動で、手に力が入り、ドアが開いてしまったのだ。
「うあっ!」
そのまま、屋上のコンクリートの床へ倒れて、膝を打った。
痛い。
だが今はそれどころではない。
さっきのはなんだったのか。
四つん這いで辺りをキョロキョロ見回す。
網目のフェンスに四方を囲まれた、コンクリートの床。所々ひび割れている。
網目の向こうには、春らしい雲の浮かぶ青い空。
何も変わらない。
ただ屋上の風景が見えるだけだ。
ほっと息を吐いて、自分の身体に可笑しな所がないのに、安心した。
『一体……何処にいるのか……』
「!?」
突然、
そう、本当に突然、
声が響いた。
覗きは犯罪です。
あまりにも不意を突かれ、私は動く事が出来ずにいた。目を見開き固まったまま、何とか動揺を静めようと、頭の中を整理する。
(待て、待て待て。ここには、今誰もいなかったはず……)
何それ凄い怖い。
ここまで考えると、背中にひやっとした物が走りそうで、ブンブンと頭を振った。落ち着け、そもそも何で私は此処にいる。
あ。
そうだ。私はここへあれを追ってきたんだ。ならこの声、は………。
私は下唇をかみ締めると、一度強く目を瞑り、再び目を開けた。息を吸い込み、勢い良く顔を上げる。
声は私の真上から聞こえたのだ。
「う、わぁ……」
思わず漏れる感嘆の声。
“それ”は私が顔を向けて声を出した途端に、ビクッと身体を揺らすと私を見つめ返してきた。
やっぱり見間違いではなかった。ちっこい馬がいる。ちっこい馬が浮いてる。
そのままの体制でじっと見詰め合う。
私が立ってもまだ見上げねばならぬだろう上空で、しかしながら教室で見た時よりも姿を捉えられる程近く。
額に小さな角が生えていて、真っ白だと思っていたが、白の中にたった一色、緑色の瞳が揺れていた。
綺麗だな、と思ったと同時、謂われのない感情が込み上げた。
エメラルドの宝石の様な瞳が、悲しみに溢れているように揺れていて。
かなしい、
悲しい、
哀しい、
まるで“それ”の感情の波が私の内に染み込むように、漠然とした悲しみに囚われた。
「あ、れ? やだ、なんで」
小さな馬の姿が滲み、私は初めて自分が涙を流している事に気が付いた。慌てて拭うが、無意識に泣くなんて初めての経験で、若干狼狽える。
どうして泣いてしまっているのだろう。
共鳴するような、不思議な感覚。一度自分の中に戻れば、私が悲しい事なんて全然ない。涙だって直ぐに止まってくれた。
一方、未確認生物は。
見た目には分からないが、“それ”は驚いていた。
何故分かったか?
簡単だ。
“それ”がそう言ったからだ。
『驚きました……。貴方には私が見えているのですね?』
「喋っ、たよ………」
“それ”も驚いているようだが、私もこれ以上ないくらいに驚いている。
が、声が聞こえたその時から、私は何処かで解っていた。
“それ”の声だと、思ってしまっていた。
「あぁ………やっぱり声は君か。いや、もう今更だよね。うん」
だからやっぱり、とストンと腑に落ちたと言うか。
それよりも、他の思いがわき起こった。自分が興奮していくのが解る。
世紀の発見、だ。
私は、世紀の発見、をした。
これは誰だって落ち着いてはいられない事態だろう。
『あの……』
「は! 未確認生物!? UMA! だっけ? 何でもいーや! 私すごいんじゃないのこれ!?」
先ほどとは一転、瞳を輝かせて、“それ”を見上げ、急いで立ち上がると話し掛けた。
凄いよねこれ私凄いよね! いや別に私は凄くないんだけどでも凄いよね!
「ね、あなた何!? どっから来たの!?」
はち切れんばかりに高揚し、それがそのまま声となり飛び出て行く。
どう考えても、私の勢いが良すぎたのだろう。
吃鷺したのか、“それ”はヒュッと高く飛んだ。
「ぁあっ! ま、持って!怖くないからぁ!」
私よりまた数メートルは離れてしまった“それ”に、慌てて両手を横に広げてみせる。
安全だと意思表示したつもりだ。
「ね、何にもしないよ。……降りておいでよ?」
更に優しく声を掛けるとふわりと降りてきた。
嬉しくなった私の顔の前まで来ると、この奇妙な生物の方から話し始める。
『すみません。少し驚いただけです………もう一度聞きますが、貴方は私が見えて、声が聞こえる。そうですね?』
「うん。すごいねーホント。で君、なーに?」
綺麗だなー。近くで見ると、毛並も恐ろしく良い事が解る。声も柔らかくて素敵。
『凄いって……え、えぇと、私は精霊です』
戸惑うような声で出された返答に、僅かに目を見張る。
精霊っていうと、絵本や小説の中に出てくるアレだろうか。
にわかには信じがたいが、では目の前の生物が何か答えは私には出せなかった。
ごくり、と唾を飲み込む。
「ほ、本物……? 精霊……さ、触ってもいい?」
自称精霊はくるりと回転すると、『どうぞ』と首を傾げた。
あっさり許可が出て人馴れしてるのか? なんて馬鹿な事を思ってしまったくらいで、思わず自分に突っ込んだ。
んなわけない。
ホント、馬鹿か私は。
「し、失礼します……」
恐る恐る指先で耳の先に触れるとピクッと反応し、指先を擽った。
実体ある物に触れたその感触にため息が漏れた。音にすると、「ほぅ」とかそんな感じ。
私は今、精霊とやらに触っていますよ! と叫び出したいくらいだ。人類初? もしかしてもしかしなくても人類初じゃね?
無性に感動している私を余所に、この自称精霊は目を細めると、小さくブルル、と鳴いた。
喋れんのに鳴いたよ………。半分は馬丸出しなの?
『貴方に確認したい事があるのです。よろしいですか?』
私が失礼な事を思っている等とは知らない精霊は、丁寧な物腰で私を伺う。礼儀正しい精霊だなぁ。うんうん、いい子っぽい。
「……いいけど。何?」
質問には答えずに、精霊は光を放った。
「な!!?」
目も開けられない程の光が射して、両腕で顔を覆う。
(なに、これ。うゎ、やだ、何なに!? や、何か……)
ひどい耳鳴りがして、頭が痛い。
何かが私の内側に入ったような違和感に吐き気がした。
だがそれは長くは続かず、違和感が消えると同時に、精霊が興奮したように鼻息荒く、巻くし立てた。
『あぁ! やっと、やっと、見つけました! 貴方をずっと探していました!』
何が何だかわからないが、今の一連はこの精霊のせいなのは間違いない。
「ちょ、何したの!?」
誰だいい子っぽいとか言ったヤツは! 私だよ!
未だ残る不快感に顔を歪めて問い質せば、精霊は嬉しそうに私の周りくるくる回って、突拍子もない事を言い出した。
『何って、貴方の中の魂を視たんです! 間違いありません! やっと見つけました! 救世主の魂を!!』
「……………………」
魂視たってナンダ。
何故だか分からないが、イラッとくる。丸裸にされた気分だ。
そんな私を置き去りにしたまま、話し続ける精霊。
ちょ、殴っていい?
『あぁっ! 私自己紹介 もまだでした! 失札しました! 私の名はセーレシウス。流星の名を頂きました』
「意味がわからない。というか、魂って見えるものなのか」
『私は精霊ですから! 人の魂を覗けます!』
あ、覗いたんだ。
「なんかわかんないけど取りあえず、 変態」
『へっ! 変態……』
落ち込んだらしい。暗い空気を背負ってうなだれる、せーれん、せーるうす?せ、せー……なんとか。
『うぅ……じ、時間がありません。私と来て下さい』
「え、何処に? あ、待って、やだ。行かない」
まさか精霊が住む世界へー、とかだったらどうしよう。あ、ダメだ。これダメなパターンだ。
さっきまで、興奮状態だった私は、その熱が急激に冷めていたのに、気が付いた。と言うか、今の不愉快な一連で、我に返ったと言うか。
そう、よくよく考えてみれば。
今、私に害をなした、ぞ、この自称精霊。あ、あ、やっぱダメなパターンだこれ。
「あの、私、授業あるんで、」
一気に、危機感が込み上げ、離れようと、した。
ようと、したんだけど。
『私を恨んでもいい、憎んでくれてもかまわない。でも、もう私には、貴方に縋るしか方法がないのです』
「へ?」
何を言い出すのか、
意味を聞こうとしたのに、
それは出来ずにくらりと眩暈がして、
私の意識は遠退いた。
最後に見たのは
哀しみのエメラルド。
最後に耳に届いたのは、
奏太が私を呼ぶ声。
(いつの間に屋上に?)
(あぁ、後で怒られる、)
(かなぁ……)