赤っ恥をかいた。
私が廊下に勇んで出ると、丁度ドアをノックしようとしていたクロウさんとぶつかった。いや物理的にぶつかった訳じゃないが。
彼は突然開いたドアに、目を丸くして、それから和らげた。口元には布が巻かれており、その動きは見えないが、醸し出す雰囲気は相変わらず紳士そのものだった。
おはようの挨拶を交わし、そのまま私は、急ぐんで! と隣を擦り抜け、何故か背中越しにお姉さん方の悲鳴を聞いた。
なんだ? と足を止め、振り返ろうとし、ぐいと腕を引かれて、私の背中はぽふんとちょっと固い何かに着地。
次いで腕を掴んでいた筈の手と、もう一つが目の前で交差し、二の腕に辿り着く。そうしたらあら不思議、誰かに抱き締められてるみたいになった。
その驚きが消えないうちに、耳元で低い声がそっと告げたんだ。
――背中の留め具、開いたままですよ
と。
とんだ赤っ恥だ。
半べそを掻きながらお姉さん達に背中の留め具をはめてもらい、メイさんの爆笑を恨めしく思いながらも、廊下に待たせたままだったクロウさんが入室し、今に至る。
まともに顔を合わせられない私に、クロウさんは、今日も可愛らしいですね、等とスマートにお世辞をくださった。あ、そう? 無かった事にしてくれる感じ?
沈みきっていた気分が、ゆるゆると活気を取り戻そうとする。相変わらず私がチョロイです。
「慌てておいででしたが、何処かへ出掛けるおつもりで?」
ですよねー。そう簡単に無かった事にはならないですよねー。
さっきの痴態を思い出させる言葉に、持ち直しかけたモチベーションがへなりと萎れた。
「ええ、まあ、ちょっと……」
「おや、どちらにか、お訊きしても?」
最早私の目は死んだ魚の目ですが何か。
「オズのところへ行こうかと」
「ああ、それなら丁度良かった。実はお迎えに上がったのですよ」
「お迎え……」
「ええ、ご案内いたしますよ。3代目のところへ」
死んだ魚の目に、スッと腕が差し出される。
これは……。
見上げると、マスクの分を差し引いても魅力ある瞳が、綺麗な三日月を描き、威力を充分に発揮しながら、甘い何かを放出していた。
つまり何事かって、イケメンは顔半分隠しててもイケメンでしたという事です。
そのイケてるご尊顔と腕を交互に見比べる。これは前にもあった。ごくりと唾を飲み込んで、そっと腕に手をかける。
や、やりました。私はやりましだぞお母様!
エスコートを受ける行為を行った自分に、謎の感動が沸き上がる。成長した。私成長したよ。エスコートだって受けられるようになりましたよ!
「さ、参りましょう」
「はい」
すっかり生気を取り戻した私は、意気揚々と部屋を出る。
が、廊下に出て直ぐ、つんのめって赤っ恥が再来した。ちくしょう。
奇なもの味なもの
クロウさんは、扉を叩いてから返事を待たずに開いた。
思わず見上げるが、目元を和らげた彼は、どうぞ、と先を促した。い、いいのかな。
そろりと扉をくぐる。
中は、前に足を診てもらった部屋と同じ匂いがした。薬草の香り。いぐさに似ている。
内装は相変わらず豪奢な作りだが、私が使っている部屋よりも落ち着いた色調で、天蓋付きベッドもキンキラではなく、意匠が凝らされた鉄製。
私の居た部屋は正に女の子仕様って感じだったのに対し、此方は成人済みの男性っぽさがある。
「オズ?」
重厚な鉄製のベッドを、そっと覗き込む。あ、寝てる。
寝相良く横たわるオズの瞼は閉ざされていて、頬に貼った白いガーゼが痛々しい。
昨日の今日だ、やっぱり具合が――
「いつまで寝てるんです、かっ!」
「ごふぅ!?」
「クロウさんんんん!?」
何を考えているのか、クロウさんが突如として肘をオズに振り下ろした。あわわわ、食い込んでる、痛い痛いあれは痛い!
布団の上からだったが、オズの身体がくの字になったので、何のクッションにもならなかったのだろう。
「な、ごほっ! なん、」
「お早うございます。メグミさんがお見えですよ」
「げほっ! て、てめ、普通に起こせやあ!」
あ、なんか元気。
一瞬焦ったが、がばりと起き上がって吠えたオズは、ファイト一発な元気を披露してくれた。
「オズ、あの、具合はどうですか」
「んあ? おー、メグミ、はよ」
「あ、おはようございます」
「見舞いか?」
けろっと挨拶されて圧倒されるも、肯首すれば、オズはからかうように笑んだ。
「見ての通り。大したことねえよ」
犬歯を見せて笑う彼に、胸を撫で下ろす。
「は、よく言いますよ。昨日散々ギャーギャー喚いていたのは何処の誰ですか」
「てめ、あれはテメエがわざと一番しみる薬を!」
「子どもじゃないんですから、我慢してくださいよ」
珍しく不機嫌なクロウさんに目を丸くする。彼がオズに気安過ぎるのは今に始まった事ではないが、いつもならそれは冷やかしに乗じている。
喧嘩しているようでいて、その実、愛すべき友人をからかっているだけ。そんなふうに感じていた。
なのに今、彼は明らかに刺々しい態度を取っている。そこには楽しげな雰囲気も、年月を経て判り合っている雰囲気もない。
ただ隠しきれない苛立ちがあるだけ。
どうしたのかと考えて、包帯男と化したオズを見る。
昨日私の意見を全く聞かなかった彼。制止と反対を振り切るどころか、横暴とも言える無視っぷりで、結果こんな有様になっている。
元気な姿を見た今だからこそ、文句の一つも言いたくなる。あんたよくも私をスルーしたな。私がどんなに心配で、どんなに不安だったか。
「大体なんです。普段あれだけでかい口叩いていて、このざまは」
「うるせえな! ちゃんと契約しただろうが!」
隣のクロウさんを見上げる。眉間の谷が深い。黒い瞳に、何かが燻っている。
怒っている、のは、もしかして。
「クロウさんも、心配したんですね」
ぽつりと言えば、びっくりした顔が此方を向いた。
そうだ、言っていたではないか。心配したと、本人が言ったではないか。
気持ちはとても判ります。あんだけ心配したのに、本人はけろっとしていて、だから何だか、ついあたりたくなるって言うか。悔しくなるって言うか。
「心配、したんですよオズ。凄く、凄く心配したんです。ね、クロウさん」
「い、いや、私は別に……」
気まずそうに視線を逸らされたが、私はそれで確信した。
「心配する人が居るって、判って欲しかったんです」
無茶をしないで。君には、君を大事に思う人が居る。
「へえ」
「…………」
「ほう」
「…………」
「クロウがねえ」
「っ、」
「ふうん?」
「ちっ、違います!」
にまにまと笑うオズに、我慢ならないとばかりにクロウさんが声を上げた。
「そんなんじゃありません! 断じて違う! メグミさん!」
「ふあはい!」
ギュンと音を立てそうな勢いで振り向かれて、私の心臓がジャンプする。突然なんですかびっくりするよ!
「朝食に参りましょう!」
「は、はいっ……え? なに、ちょう、え?」
「今朝は採れたてオレーヌの果汁でございますよ」
「何だか判んないけど美味しそう! でも急! 突然!」
話の流れとか無視ですかそうですか精進します。
手を引かれるまま、オズを振り返ると、彼は苦笑しながら片手を上げた。
「俺も着替えたら行くわ」
私も苦笑を返した。
***
食堂には、既に風影様が座っていた。入室と共に慌ててお辞儀し、まさか待たせたのではと青ざめた。
別に待たせてはいなかったので取り越し苦労だったが。
私が来る少し前に席についていた風影様は、オレーヌの果汁とやらを飲んでいて、私も着席と同時に出されたそれを口に含んだ。
そして私は知った。オレーヌが葡萄である事を。美味である事を。
葡萄のジュースに舌鼓を打っていれば、オズもやってきて食事を始めた。
此処の食事は全体的に薄味だが、どれも美味しい。見た事の無い果物や野菜があったり、かと思えばオレーヌのように馴染み深い食材もある。
食事が美味しかったのは、救いの一つだと思う。
同時に、全てを世話になるしかないのが申し訳ない。
粗方平らげといて、言えた事ではないかもしれないが。
いや出された物は残すなと教えられたもんで。食材に罪は無いし。
と、自分に言い訳はここまでにしてっと。これまで機会を逃していたとは言え、この手厚い保護に、私はまだお礼も言えていない。これはいけない。人としていけない。
「あの、何から何まで本当にありがとうございます」
風影様が口元を拭ったところを見計らって、ようやっと言いたかった事を告げた。
立ち上がり頭を下げた私に、風影様は優しく笑って、布ナプキンを傍らに置いた。
「よいよい、気にするな。わしがしたくてした事じゃ」
「とても、感謝しています。何もせず受けるばかりですみません」
「そう畏まるな。それに、お主は何もしていない訳ではないじゃろう」
「え……」
私、何かしたか?
食って、寝て、たまに散歩して、シンと遊んで、部屋でぼへーとする。わあ酷い。酷いダメ人間。ダメ人間ここに極めつつあり。
「私……死んだ方がいいですよね」
「なんで!? 今の数秒間でお前になにがあったの!?」
女子高生からすっかり華麗にニートへと転身していた自分に絶望すれば、オズが慌てた。
「メグミさん、落ち着いてください。不満があるなら、3代目を殴ってからでも遅くはありません。冷静に、お話いたしましょう」
「俺を殴る意味を問いたい」
クロウさんも慌てた。
「はっはっはっ、死なれては困るのう」
風影様は通常運転だった。
「のう、メグミ。縁とはまこと、奇妙なもの。そしてまこと、趣きの深きものよ。わしは女児の孫が欲しくてのう」
うんうんと頷く風影様に、オズの白けた目が向けられる。そんな目で見ないでやって。私も何の話だと思ったけど貴方のお祖父ちゃんでしょう。お祖父ちゃんをそんな目で見ちゃいけないよ。
「まるでもう1人の孫ができたようで、わしは嬉しかったよ」
はっと息を飲み風影様を見る。
私は、異質だ。慣れはしても、馴染む事はない。
この世界に決して溶ける事がない、水に落ちた油。
「わ、私は……」
何故か声が震えている。
「帰る、為に」
何故か指が震えている。
風影様は、判っているとばかりに大きく肯首すると、穏やかな笑みを顔面に隈無く湛えた。
「なればこそ。束の間でも、此処がお主の家とならん事を、わしは願うのじゃ。此処は、お主と家とは成り得ぬか?」
「風影様……」
どうして。
「わしとの縁を、繋ぎ止めておくれ」
心が震える。
どうしてこんなに優しいの。
どうしてこんなにもあたたかい。
「っ、あ、りがと、ごさいます」
それだけ言うのがやっとだった。
「風影様、泣かせましたね」
「む、わしか?」
「なっ、泣いてなんかっ」
「クロウ撤回しろ早く」
「メグミさんは泣いてなどおられません。大変失礼しました」
元の世界を忘れる訳じゃない。
帰る事を諦めてはいない。
だけど、少しだけ。
(父上母上兄上)
(私にもう1つ)
(家ができました)