39

どろどろと溶けていく水溜まり。円は歪んで形を失う。甲高い悲痛な鳴き声がこだまし、混ざり合い、大音響となって耳をつんざく。

自分で思うより、私の精神は削られていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、整理がつかず、言葉にならない。
しゃがみ込み、えぐえぐと嗚咽を漏らす私の頭を、誰かが撫でていた。

――出直すか
――そうですね

そんな会話が頭上を素通りしていく。こめかみが痛い。帰りたい。

帰りたい。

「まずは一歩」

不意に響いた優しい音色。
それは自然と耳に馴染んだ。染み入るように、心に入った。
一歩。
初めの一歩。

「何事も、それからよ」

視線を上げれば、しわくちゃの笑顔があった。ずるりと鼻水を啜る。

「戻るか進むかは個人の自由じゃが、迷った時、わしはそう思うようにしとる」

頭を撫で続ける手が優しい。ああ、弱ってる時にこれは効く。抵抗無く頷いてしまう。幼子をあやすかのような眼差しと、寛大な懐を見せられて、どうして抗えよう。そこに最早私の意思は無い。簡単に言うと優しくされてコロッといっちゃった訳です。なんてチョロイ私。

「何があったか説明してくれるかのう?」

ちょっとだけ眉が寄る。それでも気付けば大分落ち着いている。風影様がくれる安心感が、相当な効き目を発揮しているんだろう。お年寄り効果すごい。
ひとつ頷いて、ごしごし目許を拭っていれば、小さく折り畳まれた布が差し出された。

「無理しなくてもいいんだぜ?」

こ、これは俗に言うハンケチーフ……!
衝撃が私を襲う。
昔の少女漫画のように、さも当然と差し出されたハンカチ。ハンカチ出した。ハンカチ持ってるこの人。ハンカチ持ってるよこの人!
愕然とする私を心配そうに見詰める大男。ハンカチがこんなに似合わない奴は初めてだ。なにこの隠れ紳士。
更に、固まってしまった手にそっと握らされて、ありがとうがつい口を突いたけれど、動揺が酷い。ありあり、ありがとう、とかになった。だってまさかのオズだ。ときめきより動揺が勝る。いや落ち着け。落ち着け私。そう、まずは鼻水を拭こうか。
遠慮した方がいいのだろうが、ちょっと遠慮できる量ではなかったので、鼻を拭わせていただく。しかしオズがハンカチを差し出す衝撃映像が、未だ頭から離れない。ついチラ見すると、心配顔の彼と目が合い、慌てて逸らした。
あれかな、割と常識だったりするのかな。男の人でもハンカチ常備は普通なのかも。うん、そうだ、此処では当り前なんだねきっと。女である筈の私は持ってなかったけどな!
自分の女子力に打ち拉がれつつ、色んな意味で落ち着きを取り戻す。注がれる視線に促されるように、口を開いた。

「その、さっきまで、なんか……変なところに居て」

「変なところ?」
「真っ白で、何も無くて」

そこまで言うと、オズとクロウさんは顔を見合わせた。その反応に不安になる。私、何か間違ったかな。
クロウさんがそんな私に気が付いて、ほんの少し躊躇う素振りを見せた後、柔らかい微笑を浮かべた。

「恵さんは、ずっと此処におりましたよ」
「え?」

そんな筈は……きょろりと辺りを見回す。白い石造りの建物。この中は何処を見ても白い。装飾品の類は無く、壁には光を放つ球体が埋め込まれるようにして、暗闇を払っている。殺風景で、でもそれが逆に厳格なイメージを与える。
白くて、何も無い。
此処、今現在居る場所にも当てはまる。だが私がさっき居たのは部屋だ。四方を角に持つ、部屋だった。
通路ではない。私は慌てて言葉を付け足す。

「部屋です。ああそうだ、台座のような物がありました。それ以外は何も無くて、灯りも……」

灯りも……?
自分の言葉に驚き、動きごと停止する。
灯りが、無かった。少なくとも通路を照らすこの半球体は無かった。なら、何故私は、そこを部屋だと思った? 何故、四隅が確認できた? 何故、台座があると判ったんだ。
ぞくりと、首筋の辺りを何かが駆け抜けた。

「台座? 祈りの間でしょうか」
「祈りの間って……」

オズとクロウさんは困惑しているようだった。私は無闇に怖くなって、手首をぎゅっと握る。

「この先に、確かに部屋はあるが、恵はずっと此処に居たんだぜ? 俺達だって、急に動かなくなるから驚いてたんだし」

じゃあ、幻? 夢でも見ていたんだろうか。うあー、そういうの見えるとか止めてくれ。ストレス? 疲れてんのか? 精神に異常をきたすなんて、うおお何それ怖い! 考えたら怖い! いや見てない。幻とか見えない。私は幻なんて見ていない!

「見えたのだな?」
「見えてません!」

咄嗟に否定して、驚いたような風影様に、はっとなる。

「あ、いや、その……み、見えた、と思ったんですけど」
「ふむ」

しどろもどろになった私を、クロウさんは目を眩せ見る。オズは理解不能な顔で見つめる。これ絶対頭がおかしいと思われてるよね。違うんだ。違うんだよ私は電波じゃない!
失態に頭を抱えると、そこにぽんと手が乗った。見れば、歳の割りにがっしりした身体つきの風影様が、にっこり笑顔をくれた。

「神の意思が働いたのやも知れぬ」
「そ、そうなんですか?」

そんなんで片付くのか。凄いなファンタジー。
拍子抜けする私を、風影様がなでなでする。なでなで。今、私とんでもない事に気が付いたんですが。これ、私ちっさい子扱いなのでは。3歳とか4歳児の扱いなのでは。

「神の意思、ですか。もしそれが本当なら」
「クロウ」
「…………失礼いたしました」

お? なんかピリッとした空気が流れた気がして、顔を上げるが、風影様のしわくちゃ笑顔に迎えられただけだった。好々爺そのものの彼は、王様という立場を忘れさせる。あの、おじいちゃん? 私これでも高校生なのよ?

「じいちゃん。祈りの間に行くのか?」
「いんや。行くのは神の寝所。当初の予定と変わらんよ」
「そっか、台座。なるほどなあそっちか」
「寝所? ですか?」

穏やかな笑みを湛えながら、風影様が頷く。

「風の神が眠る場所。社の最深部にあるそこに、お主を連れて行く」

そう言って、彼は瞳を窄めた。まばゆい物を見るように細められた瞳が、鋭く光った気がする。知らず、ごくりと咽喉が鳴った。

「進みなさるか、その一歩を」

逸らしてしまいそうになる両目を、努めて彼に縛り付ける。私は今、覚悟を問われている。
訳の判らない幻に惑わされて、歩みを止めるくらいなら、先へは進まない方がいい。きっとこの一歩は、後戻りのできない一歩なのだ。
その覚悟を。

「行きます」

じっと私を見つめる瞳。懸命に見つめ返す。
世界なんて知らない。救世主なんて嫌だ。でも、私は帰りたい。何がなんでも。その為なら、がむしゃらに進んでやる。
もう、揺らいだりしない。

「我が孫にも見習ってもらいたいもんじゃ」

何を? 予想外の言葉に瞬いた私から、あっさり視線が外される。え? 何の話ですか?
そして風影様は踵を返し、女の子はいいのうと更に意味の判らない事を呟く。だから何の話?

「馬鹿息子が。こんなむっさい男児だけ残しおって。つまらん。実につまらん」
「風影様、お控えください」
「わしは女の子の孫が欲しかった!」
「風影様、お控えください」
「いやじゃ!」
「風影様、控えろっつってんだろうでございます」
「なに語!?」

至極冷静なクロウさんの発言にびくりと震える。風影様のイメージ崩壊も凄まじいが。威厳ある王様どこいった。
色々と戦慄している私を置いて、風影様は歩き出す。中々のスルースキルをお持ちで。

「おおそうじゃ。恵、その部屋で何を見た?」
「え……と、声がして。シルフがいっぱい居る映像みたいなものが見えました」

僅かに振り向いた風影様に問われ、慌てて足を動かす。彼は進みながら話し掛けてきた。

「ふむ、シルフの映像とな」
「はい。いっぱい、さっき森に居たのよりもっと沢山居たように見受けられました」
「ほうほう。そりゃあわしも見てみたかったのう」

言われて、思わず渋面を作ってしまった。その沢山のシルフ達は、消えてしまうのだ。儚く、淡く、幻想的にさえ見える光を散らせながら、それでいて胸を抉るような悲鳴を伴って。
思い出して気分が悪くなった私は、オズに渡されたままだったハンカチを口元にあてがった。あれは、二度と見たくない。

「どうもそれだけでは無いようじゃな」

いつの間にか隣に居た風影様が、苦笑を浮かべていた。それから不意に私の後ろを振り返る。

「あまり時間も無いか」

漏らされた言葉の意味は、私には理解できないものだった。


神の社とハンカチ

(このハンカチどうしよう)

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