37


何故、その名を呼んだのか、私自身よく解らなかった。

姿形が取れるのは、それなりの力がある精霊なのだそうだ。年月をかけて力を貯め、ようやっと形に成る。
それ以外の弱い精霊は、輪郭の曖昧な光の塊で、昨晩見た光の群れは、私の予想通り精霊だった。シンのお友達。
シンは――シンは、私が1人になったのを見計らったように現れた彼らと同じように、光になってしまった。もう鳴き声も聞こえない。
元々そんなに強い力があった訳でもなし、蓄えた微々たるその力を、使い切ってしまったのだろうと、オズが言った。

それでも。

それでも彼は、私の傍に居た。

ポケットで小さく瞬く光を見て、星が落ちて来たみたいだ、と思った。





観点






メイさんは、水に浸したタオルを、オズの顔面に叩き付けてから、お茶淹れてくる! と言い捨て出て行ったから、私の呟きを聞いたのはオズだけだ。それも、聞こえていたらの話だ。

私は慌てて立ち上がった体勢のまま、めっちゃすっきりした顔で此方を振り向いたメイさんに、いってらっしゃいとしか言えなかった。人の顔面にタオルびたーん! した後の顔じゃないと思う。
そんなこんなで、放心状態で居たら、顔にタオルを乗せたオズがむっくりと起き上がり、その際タオルが落ち、赤い液体が鼻筋に付着した見事に残念な顔を私にお披露目くださった。その半眼で、出てますが何か、みたいな顔を見た瞬間、目を逸らした。軽く衝撃映像だった。
それからオズはのそのそとソファーに移動すると、億劫そうに仰向けに寝た後、再びタオルを顔に乗せ、沈黙した。私その動かぬ巨体をぼんやり見つめながら、かの名前を呟いたのだった。

反応しないところを聞こえなかったのかもしれない。
だから私は思考に耽った。

触れられない。鳴かない。
そうなると、途端に生き物らしさを欠く。だったら、触れられて鳴くものが、私にとっての生き物だという事になる。
シン――
私の浅慮によれば、生き物でないものは、“それ”も無い事になる。ならば今のシンにも、“それ”は無い。
有ったと思ったものが、本当は無かったのか。或いは無くなってしまったのか。

――否、そうじゃない。

私が感じた“それ”が、姿形が変わったからと言って、失せてしまったとは思えない。私にとってシンはシンであり、生きていたものではなく、今も生きているものなのだ。
しかしそれで行くと、椅子も、机も、靴も、絨毯も。生き物になってしまう。
その境界が何処なのか、私は矢張り“それ”の有る無しで測っている気がする。“それ”だって目に見える物ではないのに。どうやっても有ると証明出来ない、不確かで曖昧なものであるのに。
私は無根拠に有ると信じ、信じる事に依存して、疑わぬ愚か者である。
でも、


「なあ」


既に背景の一部となっていた巨体に突如話し掛けられて、意識が内側から抜け出す。オズは動いていない。
ダラリと垂れ下がった腕も、額に乗せられた手の甲も、クロスし肘掛に投げ出された足も、動いていない。声帯だけが震えた。


「あんたは、悪くねえよ」


一瞬ぽかんとなった。彼が謝った時と同じで、言われると思っていなかった言葉だったからだ。


「悪く、ないって事は無いと思いますが……」

「悪くねぇ」

「……………………」

「悪くねぇんだよ」


やっぱり、私が引き下がるしかないのか。小さく呼気を吐いて、背後の窓を振り返る。
麗らかな陽射しが、カーテン越しに部屋へと注いでいる。私が来てから晴れが続いているが、暑くは無い。春風が似合う、昨夜の不穏がまるで嘘のような長閑かな日和。
ただ私はもう、燦々と降り注ぐ平和そうな空気を、傍受出来なくなってしまった。ポケットの小さな光は、その証拠たらんと常に私の傍にある。
でもそれが悪い事かと言うと、実はそうでもない。私は自分の危機感の無さを痛感し、正直悔いてもいた。反省もした。そこで私の中では片付いてしまった事なのだ。
同じ過ちは繰り返さないよう、自分に言い聞かせる事が出来たのは、恐ろしい思いをしたから。情けない事ではあるが、平和な日本で鈍感になった私は、身に降り掛かって漸く気付けた。でも気付けないよりは、マシ。だから。


「やだな」


ああしまった。ただの溜め息のつもりが、するりと本音が漏れ出た。そろとオズを横目で伺う。聞こえ……てないみたいだ。良かった。


「………なにが」


聞こえてました。
視線を戻そうとした矢先に問われ、結局顔ごとオズに向けた。


「あー……、や、べつに」
「何でもねぇは無し」

「おぅ……」


先手を打たれてしまった。仕方なく拙い説明を試みる。隠し立てはしない方が良いと思う。この優しい大男は、私を心配してくれているみたいだから。


「えっと、意味が無くなっちゃう気がして……それが、嫌だなぁと」

「意味?」

「私にとっての意味なんですけど……、ううん、上手く言えません」

「構わねぇよ」


ぶっきらぼうに言って、オズは布を押さえたまま巨体を起こした。雑な言葉遣いなのに、彼が言うと優しく聞こえるから不思議だ。捲れた布から、綺麗なエメラルドグリーンが覗いている。


「意味って言うか、もっと気を付けようと思ったんです。此処にも、その、そういうのがあるって事が、解ったから」


私の舌足らずに濁した言葉も、彼には通じたようで、ひとつ頷かれる。


「失敗、とはちょっと違うのかもしれませんけど、行動を顧みて正す、のは、失敗があったからで……、」

「だから、意味があると?」

「うん、はい、そんな感じです」

「曖昧だな」

「す、すみません」


思わず俯くと、謝る事じゃねぇ、と雑で優しい言葉が降ってくる。それに促されるように、私は再び喉を震わせた。


「それに、」


言って見たのは腰のポケット。
せっかく震わせた喉が詰まる。
――シン、君がそうなった理由に、意味が無くなるのが、私は嫌だったんだ。私の所為でもあるから。私が悪くなきゃ、何故こうなったのか解らない。


「やっぱり、大人しくしておけば良かったんです」


今更だけど、こんな言葉も気持ちも嫌だけど、あの時私が大人しく縛られたままでいれば。そう考えずにいられない。
これをしたくがない為に、私は行動を起こし、今これを大いにしている。父の顔が浮かぶ。どうしたら良いのか解らないから、浮かぶんだろう。訊きたいから、浮かぶんだろう。

――後悔の無い、人生を

そう言ったのは、父だった。
ねぇお父さん、私は今、とても後悔してるよ。どうしたらいいの。
したくてしてるんじゃない、でも結果私の行動は裏目に出た。ずっと雲に覆われているみたいに、もやもやしている。


「――あんたは」


それでも無かった事には出来ない。忘れる事は出来ない。もやもや。なんかもう気持ち悪くなってきた。もやもやし過ぎて気持ち悪くなってきたよこれ。ねぇ父上、どうすんのよこれ父上。


「そういうヤツなんだな」

「えっなに私の父が?」

何の話だよ


すんません聞いて無かった!
リピートをお願いすれば、ため息を吐かれた。布がひらりと翻る。


「あんたがそこまで言うなら否定しねぇが、あんまり自分を責めるなよ。見てて痛々しい」

「お、おうふ」


それは考えて無かった。周りに暗い空気巻き散らかしてたらしい。指摘されて気が付いた。目から鱗状態。


「知らないうちにネガティブになってたみたいですね」

「ねがぁ」

「なんですかそのめっちゃ歯にくっつきそうなものは。ええと、後ろ向き、ですかね」

「ああ……え、ねがぁって歯にくっつきそう?」

「変なとこ食い付いた!」


指摘された事に感謝しながら、もう言うまいと誓った。シンに繰り返していた「ごめん」を。

















(違う事ってすごい)
(自分が気付かぬ事も)
(気が付ける)


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