――ぼんやりしている。
報告内容と同じ感想を抱いて、オズワルドは目を細めた。
一通り昨夜の事を話した後、彼女、恵はテーブルの一点を見つめた。伏せた目は胡乱げで、昨日と何処が違うと言われたら、明確には解らないのだが――
やっぱり、堪えたか。
と、そう思わせるには充分な話の内容だった。
オズワルドの胸に苦いものが広がった。渋顔を浮かべて首筋を擦る。
「その、悪かったな。怖い思いさせて」
恵の視線が上がる。やはり何処かぼんやりしていて、それ故にあどけなさが滲んでいる。
「………え?」
「えって……だから、怖い目に合わせて悪かったって、そう」
恐縮気味にオズワルドが言い重ねると、恵は不思議そうに首を傾げた。そのおかしな反応に、彼女の隣に座っていたメイが、戸惑うような視線をオズワルドに投げた。
目と目が合ってもお互い解決せず、結局揃って恵を見やる。
恵は唇に指を押し当て、何かを考えているようだったが、2人の視線を受けて、すみません、と口にした。
すみませんって……、何がすみません?
思ったのはオズワルド。
ちょっとこの子大丈夫かい。
思ったのはメイ。
そして――
謝らなきゃいけないのは、私だ。
彼女は、そう思っていた。
「今後は勝手に部屋を出たりしません。ご迷惑おかけしました」
ぺこり、と彼女が頭を下げた。
それに、オズワルドとメイの双方が、絶句した。
「………………………」
「………………………」
「………………………」
頭を上げた恵は、少し待っても静かなそこに、あれと漸く違和感を抱いた。口を僅かに開けたまま黙した2人を交互に、恵は眼球だけをキョロキョロと移動させた。
その沈黙が重くなるのに、そう時間は掛からなかった。
――自分は何か間違ったらしい。そう思い至った恵が口を開くのと、メイの片足がテーブルを踏んだのは、同時だった。
視界の端を過ぎ去った何かに、恵がえっと顔を向けた時にはもう、メイはテーブルに乗り上げていた。メイが勢いそのままに真っ直ぐ向かうのはオズワルド。彼女の拳が振り上げられる。オズワルドはげっと口を歪めた。刹那、拳は長椅子にめり込んだ。
目と口を大きく開いた恵は、息をするのも忘れ、固まっている。
長椅子に風穴を開けたメイが、ギッとオズワルドを睨むと、憎々し気に叫んだ。
「んなにしてんだいっ!」
「俺の台詞ぅううう!」
恵がびくりと震えた。身体を捻り衝突を免れたオズワルドは、避けてんじゃないよこの馬鹿! と謗られている。
「いや普通避けるだろ! 何すんだ!」
「いいから一発殴らせなっ」
「言われて殴らせる奴がいるかぁああ!」
「いやあの、え? え?」
我に返った恵の前で、ぎゃあぎゃあと押し問答が繰り広げられる。彼女は取り敢えず狼狽える事しか出来なかった。長椅子の穴と興奮したメイと興奮したオズワルドの、どれにも視点を定められずに、忙しなく3つを見比べる。
「なんで俺が殴られんだよ!」
「むしゃくしゃするからだよ」
「何その理不尽!」
その内殴らせろと迫るメイと、訳無く殴られたくないオズワルドの、長椅子を挟んだ睨み合いに発展し、その頃になれば恵の狼狽は減少し、漸く機能した頭でぽつりと思う。
――この人達、何してんだろう。
至極まともな感想である。
何か口を出そうにも、至った経緯が全くの不明ではそれも躊躇われた。無意味な気はするが、と言うより無意味にしか見えないが、彼女は彼女が止めろと言ったところで、とんだ見当違いかもしれないのだ。
サッ、サッ、と反復横跳びさながらの、無駄に機敏な動きを繰り返す2人を眺め、あれこれ考えて、取り敢えず彼女は無難な言葉を選んだ。
あのう、と遠慮がちに声を投げる。左右対称に動く2人にこれと言った変化はない。聞いていないのか。彼女は早くも折れそうになった。
しかし一応言うだけ言ってみよう、と呼気を吸う。
「お、落ち着いてください」
「一発殴れば落ち着くよっ」
「俺が落ち着かねぇええ!」
「あ、聞いてはいるんだ」
相変わらず無駄な左右運動が繰り返されているが、会話は成った。ならば、と恵は、フェイントを入れているメイの背中へ声を掛ける。
「ええと、何をそんなに怒って……」
「何にも何も、情けないんだよあたしゃあ! 自分が不甲斐ないのさ!」
「それ俺全く関係ねえええ!」
至極真っ当な意見である。
お互い目を逸らさぬまま、だがメイはオズワルドを完全に無視して続ける。
「あんたが酷い目に合ってたっていうのに、あたしときたら、何にも出来ちゃいない! 不甲斐ないよ! 頼りなくて当り前さね! あんたに、あんたに、あ、頭ぁ下げさせて、あたしは、あたしは、何してんだよ一体さぁ……!」
「メイ…………」
表情を歪ませたメイを見て、オズワルドが悲しそうな顔をした。概ねにして普段気丈なメイなら、二度とあんな目には合わせぬと、力強く恵を励ましたに違いない。
けれど事が起こってしまったのなら、いくら安全だ安心だと言っても、まるで信頼性を欠く。口先だけになる。
それは歯痒くもなるだろう。恵を守るつもりが誠心誠意、嘘偽り無く、大いにあっても、言葉にする資格を欠いたのだから。
オズワルドは、頼って貰えぬ寂しさというものを、今深く感じている。同時に己が酷く情けない。矢張り口先だけになるだろう言葉が、喉に張り付いたまま、出す事も飲み込む事も出来ずに留まっている。
メイは再び情けないよ、と絞るように言って、鼻をすんとすすった。消沈した彼女と同調したオズワルドは、ばかやろう、思って瞳を伏せた。
――ばかやろう。それをぶつけるのも、筋違いってもんだろうがよ。
矢張り、それも口には出せない。
オズワルドは恵を見る事も出来ず、忸怩たる思いに浸る。浸ってしまった。だから。
あ。
と、恵が漏らした声に、一歩、反応が遅れた。
顔を上げる前に、オズワルドの目に、星が飛んだ。
わああと恵の慌てた声を聞きながら、ゆっくり後ろへと傾く己の身体に、殴られたと漸く気付く。視界の隅に、勝ち誇ったメイの顔が見えた。
――てめ、さっきのは“ふり”か……!
――ふふん、油断大敵だよ青二才。
斯くして、オズワルドはメイに殴られ、床に沈んだ。
かたち
理由を聞いた後でも、彼が殴られる必要があったのか、今以て謎だ。
私は責任は自分にあると思っていたけれど、メイさんやオズは城側にこそ不手際があったと思っているようだった。いやいや、どう考えても軽はずみな行動を取った私が悪いだろ。
だから私は詫びたのだが、計らずもメイさんのプライドを傷付けてしまったようで、そして被害はオズが被った。意味が解りません。
意味が解らないがともかく、私が悪いから気にするなと、それで済む話でないのは解った。
私はそれで済むと思っていた。とてもシンプルな事だと思っていた。
私は、私の軽薄な行為によって、変事に巻き込まれた。口にすればたったそれだけの事だ。
それなのに、メイさんにすれば、私を危険な目に合わせた、と変換される。
つまりお互いに自分の所為だと思っていた訳だ。彼女にそんな劣情を抱かせる自分が、とても嫌だった。
反省は自分の中に留め、大丈夫だと、それだけを伝えた。気にするなと言っても気にするのだろうし、それなら私は大人しくしていればいい。何も起きなければ、メイさんも楽になると思ったからだ。自分の所為で、なんていつまでも思っていて欲しくない。
悲しくなった。
メイさんが私を慮っている事がではない。
いたく簡単な意思ひとつままならない、事がである。
此処は私の社会ではなく、世間でもなく、此処の社会と世間で成っている。
通用しない。自由にならない。
“外側”だ。
私は外側なのだ。それが、悲しい。
「シン」
思わず呟いたそれは、形を失っていた。
(綺麗な瞳も)
(愛らしい声も)
(失せてしまった)
(それでも)