18


「此処をな、この岩壁を、城を、街を、風が撫でていくんじゃ。いつ以来かのう。服のはためく音を聞いたのは。髪の流るるを払うのは。かざぐるまの回るるを見るのは」


ザワザワと、騒いで。
此処の上を、人の上を、国の上を、駆けて行く。
細めた小さな瞳は、陽光注ぐ窓の外へと向けられていた。落ち着いた、静かな声が部屋に満ちる。
風影は穏やかに語りながら、その内で思い出に浸っていた。


「お主を、もう長い事待っておったんじゃろうなあ。国中にその声を伝えるように、昨日から、風が成り止まぬ。わしらよりずっと、お主を望んでおったのは、精霊達だったようじゃ」


風の声を聞く。それが出来る人間の、なんと限られた事か。
慢ってはならぬ。特別だという事は、特別を与えられたという事は、役目を担ったと心得よ。それは決して己の為にあるのではない。
いつかお前にも解るだろうよ。それがこの時の為だったと解るだろうよ。叶うなら、私もその時を共に見たい。共に迎えたい。叶うなら。

遥か昔の懐かしい瞳の、そう言ったがを思い出し、風の長は心の中で小さく呟いた。

――今がその時。貴方の言葉は誠、正しかった。

叶わなかった願いに花を手向けるように、聡明な彼の者に、それを贈った。
ゆるり、視線を部屋に戻す。小さな少女は怯えるように、此方を見ていた。

何を、怖がる。何を、恐れる。

思って彼は、やはり穏やかな声で、語り掛けた。


「嬉しいのじゃ。お主がこの地に降り立った、それが嬉しいのじゃ」


まだ穢れをしらない少女の瞳が、困惑に揺れる。


「どうか手を差し伸べてやってくれ。消えゆく精霊の声に、耳を傾けてやってくれ。……慈悲を、かけてやっておくれ」


少女の瞳は戸惑うように泳ぎ、答えを求めるように精霊を見た。暫く見つめ合って、やがて、苦し気に、伏せられた。

何を言い竦む。王の双眼はじっと彼女に定まり、その穏やかさで、彼女の喉が震えるのを待つ。
同じく彼女を見つめる一方は、心配気に。もう一方は真偽を問うように。待ち続ける。


「――……たし、解りません」


弱々しく、か細い声は、確かにそう言った。
風影の肩で、精霊が気遣わし気に鳴く。それに、びくりと、小さく肩を跳ねさせた。


「っなさ、……、ごめんなさい……!」


何故、否、誰に謝ったのか、考えて、風影は自身の肩へと顔を向けた。一片の曇りもない、円らな瞳が、彼と彼女を狼狽え見比べて、そわそわと小さな身体を揺すっている。
風影はもう一度、頭を下げた少女を見た。今の謝罪は、聞く者によって、どうとでも取れる。
風影の、王たる者の頼みを、断るが為。救世主の自覚がない故の、無力を謝罪する為。
前者で取ったであろう従者。後者を取ったであろう王の跡継ぎ。その何れも不安定さを瞳に宿していが、風影にはどちらも当てはまらなかった。
何かを言いたげな、風の精霊は、何を彼女に伝えたいのだろう。主の命も聞かずにはしゃぎ、会いたかった、会いたかった、と鳴いた彼らは、彼女の謝罪をどう思うのか。
風影は、少女の頭を見つめたまま、ゆっくり、立ち上がった。彼が階段を降りる度に囁く衣を擦る音に、少女が身を固くさせた。足音はしない。


「じい、」


前を通る時に口を開いた、彼の孫たるオズワルドを、彼は手を上げ制して、少女の前に立った。スカートを握る両手が、白く変色していた。
――何を、怖がる。
彼女を目の前に、風影は同じ事を思った。


「かのか聞くは、かの者のみなり――……、かは神、そのかは、声、又は言葉。かの者、は救世主じゃ。メグミには、神の声が、聞こえるのかの?」


ふるふると、黒髪を揺らしかぶりを振る。
チラリと、オズワルドを一瞥して、風影はふうむと1つ唸った。腿まである白髭を、緩慢に擦る。


「広く、それこそ幼子にまで、救世主は世界を救うと知れておる。しかし何をして、とはあまり知られておらんでの。わしも多くの書物を読み解いたが、具体的な例はないに等しい。じゃから、救世主が一体どのようにして救いをもたらすのか、ほとほと見当もつかん」


少女は黙ったままだったが、返事は欲っしていなかった為、風影はそのまま朗々と語り続ける。


「わしが知る具体例は、先ほど述べたように、神の声を聞く、そのくらいじゃ。神を率いる、等と書かれておっても、真偽は定かでないの。その方法、それに至るまでが書かれておらんのじゃから、寧ろわしには後付けに見えて、どうも信用ならん」

「じいちゃん話なげーよ」


回りくどいのが苦手なオズワルドが、痺れを切らした。む、と漏らした風影が、彼を見やれば、胡坐を掻くしかめっ面が、風影を睨んでいた。


「神を率いてー、とか、天から舞い降りてー、とか、神の声を聞けるってのだって、じいちゃんのは全部紙っきれの上の話だろ。んなの、信じる方がおかしいだろ。救世主はなんかもうすっげーヤツみたいに言われてっけどよ、誰も本物に会った事がねぇ。会った事がねぇなら、知らねぇのと一緒だ」


口を尖らすオズワルドに、風影はほんの少し頬を緩ませて、王以外の顔を初めて覗かせた。成長を喜ぶ、それは祖父の顔だった。
物事を本当に知れるのは、本物に触れた時だけ。それは幼い頃から根付き、また経験も経た上で、今のオズワルドを造った、礎。実に実直で、逞しいではないかと、祖父の風影は満足気に頷いてから、また王へ、指導者の顔へと戻った。


「ではオズワルド、お主は本物を前に何を知った」


刃向かうようだったオズワルドの瞳が、ゆるりと、少女へ移される。座っている彼と、頭を下げたままの彼女の瞳が、ぱちり、と合い重なる。お互いに慌てて逸らした。
そして前に向き直ったオズワルドは焦ったのか何なのか、ぽろりと、本当にぽろりと、うっかり口を滑らせた。


「変、なやつ」


はわっと口を開けた少女が、物凄くショックを受けた顔を再びオズワルドに向けた。


「っ! ………、……っ!」


何かを言いたいらしいが、衝撃を受けすぎて言葉にならない少女は、喘ぐように口を開け閉めしている。その後ろで、黒髪の従者は、うわひっどいと、オズワルドの言葉ではなく、オズワルドの失態加減にどん引きしていた。


「どの辺が」


風影の言葉に、少女の頭が思わず上がった。従者の顔も思わず上がった。両者の瞳に写るのは、驚きと、それ引っ張んの!? という思いだった。


「どの辺、て……なんか、何も考えてねーとこ?」


少女は遂に立っている事がままならなくなった。言葉に殴られ、ふらり、よろけ、プルプル震える手を、助けを求めるように宙に伸ばした。


「なるほど、うむ。それは、無防備と言い換えても良いな」

「あ、それだ」


腑に落ちたと言わんばかりの顔で、オズワルドは指を立てた。震える少女を痛々しい顔で見ていた従者も、それには確かにと頷いた。少女は多分聞いていない。


「わしも実にそれは感じる。まるで乳飲み子の如き純粋さよ」


彼の鋭い洞察力によると、一見普通の町娘、しかし中身はとんでもない。とんでもなく、無防備。我が孫ながら容易く他人に情を傾ける、優しさとも違う。柔らかい物腰の裏で常に相手を探る、利発さとも違う。
優しいは、優しいのだが、優しいだけと違う。行動経緯を聞くに、愚鈍に思え、一体今まで何処でどうやって暮らしてきたら、こんな無防備な子になるのだろうと、不思議に思うくらいだった。十人寄れば十国の者、そうは言っても此れほど危機感を欠く等、豊かで平和な場所が、今の世の何処にあろうか。
会ってみたら少しは解るかと思ったが、驕りも過信も見られない。何にも出来ません、自ら言ってのけた。
乳飲み子と形容した自分の言葉に、正にその通りと頷いた風影は、彼女がきっと己より、ずっと知識がないのだと悟った。それはずばり的を射ていたが、何故そうなのかは、彼にも解らなかった。
一体、何処から来た。忽然と、一体何処から沸いて出たのだ、この娘は。


「のう、メグミ。わしは何をすべきなのかのう。教えておくれ」

「へ?」


間抜けにぽかんと口を開ける少女から、風影は肩の精霊へと視線を移した。その柔らかな毛並みを指先で撫で、穏やかな瞳、否、少女からは、穏やかに見える瞳で、精霊を見つめる。

己の力はきっと、この時の為に。
契約と関係なく、精霊の声を聞ける者として。
では、精霊の祝福を受ける、その者の役目は?
彼と繋がる風の精霊にだけは解った。目蓋の垂れ下がる、彼の小さな瞳。その奥に、深い罪の意識と、強い覚悟がある事を。


「メグミの、落とし子の、その慈悲を得る為に、わしは何をすればよい」


神の落とし子。望まれるべく生まれ落ちた無垢な魂。
赤子にはめる枷と知って、そうした自分の、罪の深さを感じながら、風影は緑の体毛を撫でる、自身の皺だらけの指先を、見つめていた。

















正直者は損をする


(課せられた使命)
(寄せられる期待)
(赤子には重すぎる全て)
(それでも逃がさない)
(例え枷に耐え切れず)
(手足が落ちても)
(罪深きと知っていても)
(私の手には、万の命)
(それがある限りは)



27/55
<< >>
back
しおり
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -