レンガ造りのあたたかな色に包まれたお家の中。最初に目を引くのは空の絵。いっぱい、壁にも、床にも、ちゃんと掛けられたものから、無造作に床に立て掛けられたものまで。
うちのリビングより広いそこに足を踏み入れた時、アトリエみたい、そう思った。個人的に、扉を開けて真正面にあった夕焼け空の絵が、1番印象に残った。きっと、家主の髪と同じ色だったから。
その家主は、ガシガシ、夕焼け空を無造作に掻いて、私を見上げた。
「風の神はいるにはいるんだが、今は眠っている状態なんだ」
期待が大きかっただけに、オズの言いにくそうに放った言葉は、私にかなりのショックを与えた。
揺らぐ、希望の光。やっと掴んだいちる、なんだ。
お願い、消えないで、嫌だ、消えないで。どうしたらいい?
絶望は相変わらずすぐそこで。
「メグミ」
――っ、今、
「そんな顔すんな」
な、まえ、今、名前、
「わかった。連れて行く」
「あ、オ、ズ、名前……」
名前。私の。
「あ? 間違ったか?」
胡座に手を添えて、くり、と首を傾ける。何の事が解ってない。
「ううん、違わ、ない」
きょとんとしたその顔が、じわり、滲む。
「呼んで、くれた」
そうだよ。私の名前は、恵と言うの。救世主なんて名前じゃないの。
「……いやなんだろ? 救世主は」
「うん……っ。うん! ありがとう!」
眉を下げて微笑む彼に、思いきりのありがとうを伝える。名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて。私を、手に掴んだような。誰も、私を知らない場所で、まるで私が、私だけが、ぽつんと独りなような気がしてた。怖い。寂しい。心細い。
「は、相変わらず変な奴」
名前で呼ばれる。普通のこと。お礼を述べることじゃない。けど、ありがとう。そう言ったのは、きっとやっぱり、変。
「変じゃない!」
「ははっ!」
でも変じゃない。ありがとうだよ。ちゃんとありがとうな事だよ。私には。
笑われて、怒った口ぶりで、否定したけど、オズは益々可笑しいというように、大口を開けて笑った。私もつられて、笑った。
「あのう、和やかなのはいいんですが、神の社にいく前に、風影様の所に行きませんと……」
…………わ、忘れてた訳じゃないよ決して忘れてないよ! クロウさん! ごめん!
控えめに声を掛けてきたクロウさんの、申し訳なさそうな顔を見ると、こっちが申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「あ、えー、貴方様も、」
「あ! 私、恵っていいます! よろしくです。クロウさん」
えへ、と笑う。
私の名前は、恵、と言うのです。
単純明朗emotion
「「!!」」
「私も風影様の所に行っていいもいいんですか?」
我ながら、単純だなぁと思う。些細なことだけど、結構元気出ちゃったし。大体、手段があるのだ。詳細はよく解んないけど、帰れる方法が解っているのは、かなり幸運。宛もなく探すのとは、雲泥の差がある。
へらり、口角を上げて。
「っ……はい。ご一緒に、との事です」
愛想良くしたつもり、だったのだけど。
「な、何で、後ろ向いてるんですか?」
2人して背中を向けられ、若干戸惑う。私の素朴な質問に、2人は背を向けたまま、すっくと立ち上がった。
「何でもねぇ」
「何でもありません」
ハモったよ。
何なんだ一体。
「ちょ、なん、」
「よ、よし、行くか」
「そうしましょう」
「何この疎外感」
置いてかれた。置いてかれたよ私。会話にも、部屋にも。
1人取り残された私は、ええー……と呟いた後、扉の向こうで並んで歩く、可笑しな2人を追いかけた。
可笑しくて、不思議で、奇妙な世界。住人も十分、それに準ずる。
「あれは、何ていう兵器ですか」
「不意うち上等だ」
「何が!?」
追い付いた2つの背中は、やっぱり変な会話をしていた。聞こえてるんですけど。
で、変な彼らの行く先を目にした私は。
げげ。
と思わず呟いた。
オズの家は、町からちょっと離れた場所にある。賑やかな町の中心を過ぎ、階段を登ったり降りたりして、迷路のような住宅街を抜け、崖の真ん前まで来てやっと、彼の家が現れた。町までも沢山歩いた、つか略走ったし、もうかなりへとへとで、それでも、帰れるかもしれないと知った今、根を上げる訳にはいかなかった。
そして更にそれでもそれでも、呟かずにいられなかった。
オズの家から、もう1本、道は存在する。崖と半同化する大きな建物へ続くように、道、茶色の階段が、真っ直ぐ伸びていた。そこを戸惑いなく進んで行くオズ。
根を上げる訳にはいかない、と思っていた私でも、これにはげっそりした。
修行か。何を、どうして、私は足腰鍛えなきゃならん。強くなってどうする。筋肉ムキムキな自分が思い浮かんだ。助けて。そんなんやだ。普通がいい。
とは言えず。
「大丈夫ですか」
オズを先に、後ろに回ったクロウさんを背に、フラフラと階段を登る。あっちへよれ、こっちへよれする様子が、彼からは良く見えるのだろう。だが背後からの気遣いに、返事も出来ない状態の私は、ぜぇぜぇと肩で息をする以上の反応を返せなかった。
親戚の伯父さんと、山の上の神社へ、参拝に行ったのを思い出す。登っても登っても着かなくて、何故わざわざ山の上に造ったんだと、罰当たりな事を思ったりした。
「……………手伝いましょうか」
いい、の意味を込めて、ヒラリと力無く片手を振る。疲れていようが、足が痛かろうが、しかし行くしかないのだ。
ああ、お母さんのお弁当が食べたい。
「…………ちょっと、失礼しますよ」
木の杭を打って、そこにロープを繋いだだけの、手すり。杭に手を付いて、ふらり、顔を上げる。
その時、足首を何かがガシリと掴んだ。
荒い息の合間に、ふへあ、と間抜けな悲鳴が口から飛び出た。
次いで、グイッと結構な力で、足が浮いた。突如崩れたバランスに、慌ててもう片方の手でもロープを掴む。なん、え、何!? 何だ!?
「ちょ、わ、わ」
足首の感触はそのまま。こ、れは………持ち上げられ、た?
「3代目!」
「あー?」
なに、え、なに。
パチパチ、瞬きしながら、自分の足を見る。しゃがんだクロウさんが居た。彼が足首を掴んだのか。ああ、と理解すると同時に、この人何してんだろう、と思う。
「なに、どーした?」
タンタン、階段を降りる軽やかな音がして、前方を向いていたクロウさんの顔が、私の足へと落ちた。
「失礼、脱がしますよ」
「えっ」
何を。
反射的に思ったそれを口に出す前に。
スポリ、と抜けたローファー。火照って汗ばんだ足裏が、外気を受けてひやりとする。更に靴下をずり下げられて、あ、靴下ね、と何故かほっとして、から、事態がえらい事になっていると気が付いた。
「ちょっ、何してんすか!? なに、ええっ!? はな、離して下さい!」
臭いから! は流石に口に出していない。
相当汗を掻いた。絶対臭い。絶対臭いよぁあああどうしよう!
気付いたら最後、泣きそうだ。直ぐ様足を退ける事にする。が。
「ちょっ!」
浮かせた時点で再び捕獲された何この生き地獄。
「どれだけ無茶すればこうなるんですか………」
「いやっ、あのっ、離しっ!」
溜め息混じりのクロウさんの声も、今は殆ど耳に入らない。離して、離して下さい頼むから! 乙女の一大事なんですよ!
何とか足を取り戻そうと、地に付いている方で踏ん張る。
「ふんっぬ、おおお………!?」
動かねぇえええええ!
クロウさんの、立てた片膝の上に乗る私の足は、ビクともしない。これでも結構必死だ。杭とロープを掴み、片足上げて、変な体制で、ふんぬぅうう! と真っ赤な顔して、アホみたいだけどアホみたいに必死なんだよ何故1ミリも動かない…………!?
「3代目」
「………………………」
クロウさんの溜め息が落ちた。しかし尚も私は必死。オズを視界に入れる余裕さえもない。
「まったく、貴方と言う人は………一体どれだけ歩かせればこうなるんですか、え?」
「うっ………」
もうぷるっぷるしてるわ! 足のみならず色んなトコがぷるっぷるしてるわ!
でも動かねぇえええええ!
そうして、もう無我夢中になりかけてて。
「……わりぃ、メグミ」
「へっ………」
不意に降ってきた謝罪に、間抜けな反応をしてしまった。
顔を上げれば、申し訳なさそうに眉を下げたオズが居て。何が、と首を傾げた。
何が、悪い? 何か、されただろうか………と考えを巡らせてみても、謝られる理由は、ない。と思う。心当たりゼロ。
そこできょとんとした私に、クロウさんの声がかかった。
「今日は、もう歩いてはいけませんよ。この足では、いくらなんでも、歩かせられません」
この足? と自分の足を見て。
ああ、真っ赤になっちゃってる。
何処か他人事のように思い、ずくんずくんと痛む足を眺めた。親指と小指にいたっては、うっすら血が滲んでいる。歩いて来た道のりが道のりだ。道ではない場所も歩いたし、舗装されているとは言え、私の世界に比べたら、遥かに荒い歩道は、体力だけでなくこういう事態も招くだろう。
痛い痛いとは思っていたが、そうか、血が出ちゃってたか。でもなぁ、それどころじゃなかったんだよね。
それに、今も。
「大丈夫です」
へら、笑って言えば、クロウさんの端正な顔が、顰められた。
痛い。けれど。
「歩けます」
知らない景色を目の前にした、あの時の痛みに比べれば。
「まだ、歩けます」
全然、平気。
へらへら笑う私に、クロウさんはちょっとだけ目を見開いて、それから、困ったような、顔をした。
「………解りました」
頷いて、溜め息混じりに吐き出して。
「着いたら、まず手当てをさせて下さいね」
足をがっちり固定したまま、にっこり、微笑まれて、そこに有無を言わさぬ目を、見た。頷くしか、なかった。
更にクロウさんは薄く笑って、私達の正面に立つオズを、見上げる。釣られ、私も見上げる。
「で、何処から歩いて来たんです」
「いつもの……」
「まさか草原からですか!? 何を考えているんです!」
雰囲気で、オズはクロウさんより、立場が上なのかな、って事は薄々感じてた。だけど、オズは何て言うか、気さく? って言うの? こう、庶民的な感じがするから、どうにもお坊ちゃんな人には見えなくて、だから2人の関係が未だによく解らない。
クロウさんはオズより年上だろうに、敬語だし、常に敬っている感じだけれど、今、クロウさんがするこれは間違いなく説教だ。オズに説教している。益々関係不明。
「貴方様の体力と、女性の体力が同じ訳がないでしょう! ちょっと考えれば解る事じゃないですか!」
「う、だって……」
「いい歳してだってとか言わないで下さい!」
オズが可哀想なくらい縮こまっている。何故だ、心なしか小さく見えるぞ。
「ま、まぁまぁ」
仲裁をかって出る。
私はクロウさんの説教により、何故謝られたのかを理解したが、別にそんな怒る事でもない。やっぱあれは結構無茶な距離だったんだと、自分の感覚がズレていなかった事にはホッしたが、何も言わなかった自分の責任だってある。
「私、困ってたんです。どうしたらいいか解らなくて、オズが居なかったら、きっと今も草原で途方に暮れてたと思います」
落ちた事は不幸なこと。
でもそれは終わったこと。
オズに出会った事は幸運なこと。今もそれは続いている。
だから。
「だから、謝られる事なんて、全然ないんです」
その後、おんぶするとか言い出された時は、どうしようかと思ったけどね!
(拒否って拒否って)
(自分の足で辿り着いた景色)
(言葉を忘れて)
(ただ魅入っていた)