パタパタと顔を扇ぐ私の隣で、可愛らしい鳴き声が上がっている。それから、鳴き声に返事をするオズさん、じゃないオ、オズ、の声も。
はたから見て、どう考えてもイタい人なのだが、私がこうして、落ち着きを取り戻せたのは、彼のおかげだ。
いい人で良かったなと、思う。
今も、冗談じゃないよ帰しやがれ馬ヤロウ! とか思っているし、帰りたくて仕方ないけれど。
「なあんだよお前。何ビビってんだよ」
『ψψー……!』
いい人で良かった、と思う。
片腕を上げて、腰の辺りに隠れた風の精霊さんとやらに、屈託のない笑顔を向けている。優しい笑顔。がたいの良さとか、背の高さとか、心細い今の私には、怯える対象になったとしてもおかしくないのに、彼の笑顔は、それらを全部打ち消した。
私の絶望ごと、その笑顔に吸い込まれたように、感じた。何も心配する事なんてないように、不思議と、この人なら、本当に私を帰してくれるのではないかと、思えた。
だから。
帰して帰してと泣いて請うより。
どうしたらいいかなんて、おおよそ検討もつかない事を考えて途方に暮れるより。
「隠れてないで、挨拶しろよー。救世主だぞ?」
『ψψ!』
ファンタジーだろうが中2だろうが、来ちゃったもんは仕方ない。来ちゃった事実は変わらない。そう思った方が、楽だ。そう気楽に、考えられた。
知り合った初めての異世界の人。は。
「ははっ、お前も変になっちまったのか」
見ず知らずの私に、多分相当怪しかった私、に。
「しょーがねーなぁ。戻っとけ」
帰してやる、と言ってくれた。
私の心を、暗い闇に沈んだ心を、優しく撫でた。
その場しのぎでも。デマカセでも。彼がくれたものは、今の私にとって、凍えそうな冬の、片手の手袋。全てを暖めきれない、気を紛らわす程度の小さなぬくもり。
それでも、私はそれでやっと、寒空の下から動こうとする事が、出来た。
「ん………さて、」
早々、言える事じゃ、ないよなぁ………。
横目でちゃっかり素敵な横顔を盗み見ていた私へ、オズさん、オ、オズ、の視線が向いて、やべっ、と適当に目を反らし泳がせる。
初めての異世界交流相手が、イケメン………馬、そこは褒めてあげなくも、ない。
「何が、ないって?」
「えっ!? な、ない? ええと、あっ、何もないっすね此処! 草がさわさわーって、こう、さわさわーって、えー………」
何言ってんだ自分。さわさわがなんだもう黙った方がいいって自分。な、黙っとけ自分。
「………気持ち良さそう、です」
言わんこっちゃねぇえええ!
大変大ケガを招いた自分の失言に、頭を抱えたくなった。
焦り泳いでいた、もう大海に繰り出して泳ぎまくっていた視線を、チラ、と彼に向ける。と。
「ええっ! 何その顔!?」
半笑いて!
うっすら口元に笑みを浮かべるオズさ、チクショウ慣れねぇな、オズ、の何とも言えない、微妙な顔に、ビクッと肩が揺れた。
「ちょ、何そのわら、笑い? 笑ってんのそれ? てか眼差し生ぬるっ!」
「いや、よ………」
微妙な顔が、苦笑に変わる。
「今日は、いつもと、ちげーんだ」
澄んだ翡翠が、風に揺れる草原を映す。
横顔は、何だか、寂しそうで。
つい、黙って凝視してしまう。
「こんなふうに、ウィッシュの草原が揺れてんのは、滅多に見れるもんじゃねぇ」
彼の様子を気にしつつ、私もだだっ広い草原を見てみる。
青々とした緑。土の匂い。何処までも続く青空。風に音を立てる緑は、うん、やっぱり、気持ち良さそう。寝転んだら、いや最初寝てたけど、意識して寝転んだら、絶対気持ち良い。裸足で駆けたら、きっと爽快。
空の青と、緑しかない景色、なんて、初めて見たなぁ。
「たまに、気まぐれに小さく葉を揺らす事はあっても、普段は静かなもんだ」
また横顔に視線を戻しても、彼の寂しそうな理由は、解らなかった。
「んじゃ、此処でこうしてても仕方ねーし、行くか!」
再びこちらを向いた顔は、快活な笑顔。ちょっと面食らったけど、行くって、え、行くって何処に?
「ついて来い」
「えっ、え、何処に、ちょっ、待って下さいよ! ねぇ何処にー!?」
歩き出した彼を、慌てて立ち上がって追ったから、聞きそびれちゃった、んだけど。
風の精霊に、とても優しい笑顔を向けるような彼は、あの時何を考えていたのだろう。
この人が、誰より多感で、誰より他人に心を砕く事が出来る人だと、私は後から知る。
知った後でも、たまにふと思い出す。あの時の貴方が、何を考えていたのか。
あの日あの時、私と貴方が出会った日。
春のように強い風が、草原を海のように揺らしていた光景。
貴方を知った後、私はたまにふと思う。
貴方は、あの景色を、明日も明後日も、毎日続く日常に、したかったのかなぁ。
髪を攫う風の音の中、夢中で橙色を追い掛けるこの時の私には、欠片も思い付かない事だった。
独りより
草原は、最初何処まで行っても草原なのではないかと思われたくらい、広かった。
ちょっと長めの芝、程度の草原は、その内背を伸ばし始め、息を乱し走る私の腿に小さな傷を作った。
うわ、と思ったけれど、その時はまだ良かったと今なら言える。草は伸び続け、って言っても別に草がいきなり伸びたワケじゃなく私が高い方に高い方に向かっているだけで、草は変わらないんだけど、ええい何だ訳わからん! とにかく! 今!
「ちょ、とうもろこし畑か!」
細長い茎ともっさり生えた笹形の葉は、私の身長を裕に越え、左右はおろか、前方まで草しか見えない。という現状。
おま、これちょっとした迷路みたくなってんだろ! 何のゲームだよ!
勿論オズさ、くっ、オズの姿も見えず、手で茎と葉を掻き分けては、目立つ橙色を探す。草しか見えない。掻き分ける。草しか見えない。掻き分ける。草。分ける。草。分ける。
「草。ってどうなっとんじゃーい!」
ちょっと泣きそうだ。
ただでさえ不安なのに、こんな草しかない場所に、1人取り残されたような気になる。けれど泣きたくなかった私は、ワケの解らないテンションで草に突っ込みをいれて、自分を奮い立たせた。
泣くか。あんだけ号泣したんだ。もう泣くのはいい。必要ない。ふんばれ。泣くな。
「って草ぁああああ! もうっ、草だよ! どこ行っても草だよ! 草の国か!」
なんか出られる気がしなくなってきた。いかん。後ろ向きなのは良くない。そう、きっとこれはアレだ、草の中にテレビカメラがあって、泣き出したところを、ドッキリでしたーだーいせーいこー!
「わあー酷いやー、ってばか!」
草に八つ当たりする。恨めしいくらい長い茎ごとバシリと叩くと、しなって返ってきた。葉が顔面に直撃。何これ泣きそう。泣かないと決めた傍から泣きそう。
「うう、草め。私に何の恨みが………」
やんのか。草。いいだろう。そっちがその気なら、私にだって考えがある。謝るなら今の内だぞ。私のパンチまじ半端ないんだぞ。えー、えー、謝るなら今の内だぞ。だってアレだぞ。どれくらい半端ないかって言うと、その、ほら、箸で蝿を捕まえられる的な?
等と心の中で言いながら、無言で睨み付ける。草も睨み付けてくる、ように見える。
引き下がらない、ように見えたので、よおしやるなら来い、後で吠え面かくなよ、とか何処のアニメのやられ役だというような台詞を、頭の中で草にぶつけた時。
ガサガサッ
と。
草が揺れ出した。
ギクリと身体が強張る。
え、なに、もしかしてまじ? 草ってばやる気満々?
はっ! ままままさか、ここで猛獣とか登場とかしちゃうとか? え、うそでしょ?
途端に血の気が引いた私など、気にせず草は段々と大きく揺れる。何か来る。他は何にも解らないが何か来る。ってことは解るどうしようどうしたらいい。
足は固まったかのように動かない。元々乱れていた息が、更に荒く、震えた。
どうしよう。何か来る。どうしよう、どうしようどうしよう………!
っ、オズ!
一際大きく、葉が擦れる音がした。その時咄嗟に思い浮かんだのは、夕日みたいな橙色だった。しかも半笑いしてた時の微妙な顔だった。何でよりによってそれだ私、と思ったのは、目の前に葉を割って現れたであろう何かが怖くて、ギュッと目を瞑って身を固くした時だった。
誰かの気配が目の前にある。
ガサガサという音はもうしない。
代わりに、私の頭の上方で、風が背の高い草を揺らすざぁー……という音だけが響く。
何だ、何が居る。何で何にもアクションを起こさない。逆に怖い。目を開けるのが怖い。
そのままギュウとスカートを握りしめた。
「…………………どした?」
「………………へ」
あんなに開けるのが怖かった目を開けた。
きょとんとした大男が茎を両手で押さえ込んだまま、私を見ていた。
お前まじふざけんなよと思った。
(おら、こっちだぜ)
(…………………)
(ええ!? 何その薄ら笑い!)
(……………ハッ)
(鼻で笑われた!?)