陸
だから恵ちゃん、好きな部屋を使っていいよ。
そう言われて恵は、ニコニコと笑う敬一に、お前はそれでいいのかと、問い質したくなった。実際は、はあ? と顔を顰めさせただけだが。
1人も住人が居ないなんて、それは最早ただ無駄に金の掛かる広い家だ。管理人の必要性はおろか、最早建物自体が不要と言える。
生活が懸かっている筈なのに。恵は溜め息を吐く寸前で、いやそれとも他に収入があるのかもしれない、と押し留め、いや副業はしてない、と本人に否定されて、結局肩を落とすと共に呆れた息を吐いた。
「もう部屋はそこでいいです」
敬一の部屋から1番近い階段脇の部屋を指して、投げやりに恵は言った。
生活どうすんの。と思い。私のお給料とかどうするつもりだ。と思い。よし明日出て行こう。と決める。
「あ、なら今鍵を……」
「開いてますけど」
何がそんなに楽しいのか、嬉しそうに笑った敬一が身体の向きを変え掛けたが、恵が僅かに開いていたドアを指すと、あ、と漏らし止まった。恵は目を冷ややかに細めて敬一を見ている。
「いやあ、開ける事も滅多にないから、つい忘れちゃった」
慌てて部屋の扉へ向かう敬一を見て、恵はふっと吐息を漏らし、眉を下げた。
出会ってからだらしない所ばかりを見ている筈なのに、呆れはしても、嫌悪は持てない。憎めない人柄とは、こういうものをいうのだろう。
自分より大分年上の叔父に、もう仕方ないなあと子どもを相手にするような気分で思う。恵の瞳は穏やかだった。
「鍵、中かなあ」
姪に幻滅されるのは嫌なのだろう。敬一はそそくさと自ら歩み出て、呆れたように苦く微笑む恵の前を通り過ぎ、ドアを開けた。
そして勢い良く閉めた。
恵はビクリとしたが、それはドアが閉まる大きな音にであって、すぐ後に沈黙が訪れれば、首を傾げた。
「どう、かしたんですか?」
不思議そうに、他意はなく訊いた。
それに対し、敬一はドアノブを両手で押さえたまま僅かに顔を背け、上擦った声で、何かもにょもにょと言い募る。聞き取れず恵が近付く。
「え? 何ですか?」
「いやっ、ううん、何でも、うん、何でも……」
傍目から見て、明らかに狼狽えた敬一に、恵の眉が小さく寄る。
「ちょっ、ちょっと待ってて!」
へ、と恵が間抜けな声を出すのと、敬一が素早く部屋に入ってドアを閉めたのは、ほぼ同時だった。自分を取り残し、バタンと閉まってしまったドアの前で、恵が呆然となる。
暫く口を開けたままドアを見つめて、不意に、ぶる、と身体が震えた。朝晩はまだ冷えるこの時期、廊下は肌寒い。
そして震えた事で、恵は忘れかけていた恐怖を思い出した。そろ、と視線だけを動かす。
蛍光灯に埃が被っているのも、1つの原因か、薄暗いそこは、自分と敬一の声が無くなった途端、ひっそりと静まり返る。人が居ないのだから当たり前だ。
ひんやりとした廊下。そろり、顔を横に向ければ、黒い窓ガラスにぼんやり写る、自分。
ぞわぞわと、得体の知れないモノが、足元から這い上がって来るような感覚に、恵の心臓が音を立てる。
キシリ、天井が鳴いた。
それを合図とするように、固まっていた恵が声にならない悲鳴を上げて、目の前のドアへ飛び込んだ。
「叔父さんっ!」
「わあっ!?」
恵の目は、敬一の姿だけを素早く探し捉える。他の物は目に入らない。否、入っていても、記憶に残らない。
彼の姿を捉えるや、泣きそうに顔を歪めたまま、敬一に向かい突進するように、飛び付いた。
「おうふっ!?」
振り返りかけていた敬一は、どすん、と勢い良く自分の脇腹に突っ込んできた恵に、一瞬息が止まるも、足を踏ん張りその場に留まった。
痛みに顔を顰めながら、見下ろす。
「てて………、どうしたの?」
恵はぶら下がるように抱き着いた敬一の腰に、顔を埋めたまま、ぎゅう、と回した腕に力をこめた。
敬一は最初こそ驚いて戸惑ったが、離れない#恵#の旋毛辺りを見ながら、小さく笑う。
「どうしたの、恵ちゃん」
昔、そうしたように、敬一は恵の柔らかい黒髪を撫でた。
撫でられて、恵は漸く、自分が何をしているのかに、気が付いた。だが、ゆっくり、頭を行き来する手によって、彼女は別の意味で、顔を上げる事が出来なくなっていた。
「怖かったの?」
クスクスと笑う声。
「………………………」
「昔は、そんなに怖がりじゃなかったのにねー」
ゆるゆると、敬一から離れる恵は、俯いたまま。顔は見えなくとも、その様子にまた敬一は笑った。
「ちょっと、パニクって……」
拗ねたような口ぶりで、恵が返すと、敬一は彼女に手を差し出して、立ち上がるよう促した。
素直に手を取り立ち上がる恵の顔は、ほんの少し赤い。
「大丈夫?」
「すいません」
手持ちぶさたにトレーナーワンピースの裾を正し、行き場のない視線を部屋へ向ける。
がらん、とした8畳程の和室。右手に襖。左手に小さな箪笥がぽつんと置かれ、敬一の後ろには、窓がある。
恵の後ろには、駆け抜けてきた台所が、引き戸で区切られていた。開いている引き戸から見えない台所の奥には、トイレがあるが、恵にそれは解らない。
1度観察したら止まらなかったのだろう。振り返って引き戸の向こうを覗こうとする恵に、敬一が言って教えた。
「何にもなくて、申し訳ないんだけど………」
「十分です」
殺風景な部屋を見回し答える恵は、嫌味なく、本当にそう思って口にした。
押し入れには布団もあると言う。更に台所に、後で敬一の部屋から冷蔵庫を運んでくれると言う。
一応、全部屋を掃除したんだと苦笑する敬一を前に、いよいよ恵は感激を隠せなくなった。
「ありがとうございます! 私、一人暮らし初めてだから、よく分からないですけど、でも、十分だと思います。十分、素敵だと思います」
廊下や敬一の部屋に比べて、畳の上には塵1つない。電灯の光にツヤツヤと反射して、新しい物ではないが、日焼けもない綺麗な畳。独特のイグサの匂いが、妙に気分を落ち着かせる。
最初、どうなる事かと思った。そんなに良いものを想像していた訳ではないが、予想を遥かに下回るボロ屋敷に、唖然となったのは記憶に新しい。
一人暮らしに、実はちょっと憧れていた恵は、話を決めてから幾度も、まだ見ぬ自分の城を想像した。その想像と、寸分違わぬ、否、1度激しく落胆しただけに、より良く感じる部屋は、恵に素敵と言わせるくらいに、輝いて見えた。
「わ、わ、裏にもお庭あるんですね。んーでも暗くて良く見えな、わあ、縁側! これ、出てもいいんですよね。縁側、出てもいいんですよね」
敬一の横で、窓に寄った恵が嬉しそうにはしゃぐ。
「はは、うん。明日、降りてみて」
何度も頷く恵は、敬一に笑顔で振り返り、そしてふと思った。
慌てて1人部屋に引っ込んだ時は、何か見られてまずい事があるのだろうかと思ったが、恵はそう思った自分を、今は恥じている。
では一体何故、敬一はあんなに焦っていたのだろうか。部屋はこれといって、問題ない。此処にタダで住めて、給料が貰えるなら、引き受けてもいいと考え直しているくらい。
「ん?」
自分を振り返ったまま、急に黙り込んだ恵に、敬一が、何? と言うように眉を上げた。
「………さっき、あの、さっきのは」
「さっき?」
笑顔ではあった。
だが恵は、押し黙った。
「さっきって?」
恵は、ニコニコと自分を見下ろす敬一に、違和感を覚える。何か、訊いてはいけないような。訊ねられているのに、圧迫される。訊ねているのに、圧迫してくる。
じわり。感じた違和感は、染みを広げるように、恵の中にも広がる。
「え、えーと………さっき」
「うん?」
惚けて、いる? それは、訊かれたく、ないから?
恵は迷う。訊いてもいいのか。違和感あるこの笑顔を無視していいものか。押すべきか、引くべきか。
「…………いえ、」
選んだのは、引き下がる方。
恵は1度視線を下げ、緩く頭を振ると、適当な笑顔を作り、顔を上げた。上げて、そして、紡ごうとした言葉を失った。
ぎこちない笑顔が、ぎこちないままに止まる。
「……………?」
小首を傾げた。
「?」
その恵に釣られるようにして、敬一も不思議そうに首を傾げた。
恵の目は、敬一を見ていない。彼を通り越し、彼の肩越しに、黒目を向けて。
そして。
きょとんとしたまま、小さく、頭を下げた。
その瞬間、敬一の顔は色をなくした。サッと青ざめた彼は、今の、恵の行動が会釈だと解するや否や、彼女の向こうにある窓ガラスに目を向ける。
何も、写ってはいない。
酷く狼狽えた自分の顔と、恵の後ろ姿以外は。
敬一の指先が、急激に温度をなくしていく。
――……さん。
口の中が渇く。
――……じさん!
ごくりと唾を飲み込んだ。
「叔父さん!」
ハッとする。
「あ、え? ああ、何?」
漸く、目の前に立つ恵に、気が付いた。
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