恵の頭に沸いたのは、当然の如く、誰に、という疑問だった。
 だが恵は、その答えを得られない。敬一は、彼女に答えなかった。
 彼女の「え?」に対し、敬一は、ふっ、と表情を和らげた。それは酷く、酷く優しい笑顔だった。

「あの頃はまだ、未熟だったから」

 恵は、この瞬間、言葉を失くした。
 敬一の言葉の意味も。今、このタイミングで、こんなに綺麗に笑う意味も。
 分からない。
 けれど。

「本当に、大きくなったね」
 にっこりと、音が零れ落ちそうな程の、敬一の笑顔。それに、恵の中の様々な疑問達は、彼女の中から、消えてしまった。
 代わりに――

 ――嗚呼、笑い皺が、綺麗なひと、だな。

 恵はふと、そんな事を思った。
 皺とは、あまり良いイメージではない。けれど恵は、持ち上げられた口角によって生まれた皺の、その細部までが、美しく見えた。
 ぼんやりとそう思いながらも、敬一の笑顔につられるように、恵はくすぐったそうに笑みを溢す。
「何年も経ってますからね」
 えへへと眉を下げた恵に、敬一の優しい瞳が、益々柔らかさを帯びる。
「うん、久しぶりだ」
「私には、久しぶりと言うより、初めましてに近いですけど」
 自分が覚えていない昔を、知っている。それは恥ずかしいような、照れくさいような。何だか、腰の辺りがムズムズして、落ち着かない。
 そういう感覚に襲われて、恵は、ソワソワと視線を泳がせている。
「そうか、恵ちゃんにしたら、そうだよね。でも、気を使う事はないからね」
 照れながらも、恵は笑顔でいる。部屋に広がる空気は、和やかだった。敬一が、次の言葉を紡ぐまでは。
「自分の家と思って」
 恵の笑顔が、固まった。
「くつろいでくれたらいいから」
「…………………」
 恵は心の内で、はっとした。
 あれ、なんか、違くないか。この方向は、なんか、違くないか?
「すっかり遅くなっちゃったけど、食べたら、部屋に案内するね」
「おっ…………」
 慌てて声を出した、はいいが、何と言うべきか計りかねて、恵は声を詰まらせてしまった。
 敬一が首を傾ける。
「お?」
「お、お、お腹、いっぱい…………です」
 言えなかった。
「もう? 育ち盛りなんだから、もっと食べなきゃ駄目だよ」
 父親みたいな台詞を吐く敬一に、恵は小さく「はい」と返すしかなかった。
 彼と面と向かって話していると、どうにもハッキリ言う事が出来なくて、恵は言わんとした言葉を飲み込んだ。

 管理人は、やはり断らせて下さい。

 その言葉を、飲み込んだ。




 ぎしり、と鳴った廊下に、恵は眉を潜めた。

 食事が済めば、敬一は恵を連れ立って、すっかり暗くなった泡沫荘の廊下へと出た。
 敬一の部屋を出た直ぐはす向かい、階段の下に、物置のような部屋がある。扉を開ければ、狭い室内の真正面に、制御板があった。
 彼の目的はそれであり、迷う事なく歩を進める。
「こっちだよ」
が、迷うと言うか最早進むのを拒否したい者があった。
「ひぃっ、ちょぉおお!」 恵だった。
「ん?」
 暗い廊下に、敬一の部屋から漏れた光が、歪んだ四角形を作り出している。その光にかろうじて右足を残す敬一が、振り返って首を傾げた。
 恵は、進もうとした敬一の服の裾を、掴んでいた。彼は恵の変な声に止まったのではなく、強制的に、止まらされたのだ。
「むむ無理、無理です!」
 恵は切羽詰まったような、焦ったような顔で、首をフルフルと振った。
「むり?」
 何が? とでも言いたげな敬一は、恵の顔色が若干悪いのも、何が理由か分かっていないようだった。
「無理ですよ! なんだこれ! どんな肝試し!?」 最早泣きそうにまで顔を歪ませた恵を見て、敬一は漸く合点がいったようだ。小さく頷くと。

「ああ……恵ちゃんて、暗いの苦手?」
「既に暗い暗くないの問題じゃないんですけど!?」
 女の子だねぇ、とのんびり笑う敬一は、おおらかなのだ。そう、全てはおおらか故。
「はは、そんなに怖い?」
 真っ暗な廊下は、想像以上に怖かった。敬一の部屋を1歩出たその瞬間、恵は泣きたくなった。
 しん、とした廊下は、敬一の部屋から漏れ出る光では、照らし切れず、その先を真っ暗闇に染めていた。
 ひっそりと佇む黒は、嫌な想像を掻き立て、今にも何かが――恵の想像するような何かが――そこから這い出て来るような、気がした。

敬一が口にした疑問に、恵は。

「怖いです! 物凄く! 今すぐ帰りたい程に!」

 と、力を込めて返した。


「これで共同部の電気は付くから」
 白い番板に、幾つも並ぶ黒いスイッチを、パチリパチリと上に切り替えながら、敬一は穏やかな声で説明してみせる。
 だが、恵は敬一の説明など、耳に入ってはいなかった。身を縮こまらせ、ビクビクと辺りを伺っている。
「これが2階部分、上半分で2階の廊下の電気が点くんだよ」
 平然とした様子の敬一とは逆に、恵の視線は忙しなく動く。

 何なのこの尋常じゃないオドロオドロしさ!? 新手の客引きなの!? 売りにしてんの!? 無理むり無理! 無理だから!
 パニック寸前である。

「これで、今2階が全部点いた」

 最早恵は、説明などどうでもいい。身震い1つでは足りない程の、全身を縛り付けるような恐怖に、恵は何故あの時、言葉を飲み込んでしまったのか、悔やまずにいられなかった。
「おじ、おお叔父さんっ、早くっ、早く点けて!」
「はいはい」
「ハイは1回でいいのです!」
 一方、敬一の顔は、緩みっぱなしだった。可愛いのだ。女の子が怖がる様を見て、可愛い等と思うのは間違っているかもしれないが、久しく見る機会もなかった、うら若き乙女の反応は、何だかとても微笑ましい。
 そして怯えながらもきちんと付いて来た。ちゃんと聞いているかは別として、怖いだろうに此処で説明を受けている。そういう彼女が、堪らなく愛しい。
 しかしいつまでも怖がらせているのも忍びない。敬一は1階部分のスイッチを、一気に入れた。
「んんっ」
 途端、黒しか無かった廊下に、白い蛍光灯の明かりが射す。眩いそれに、恵は顔を背け目を閉じた。
「これで、表の玄関前も、全部点いた」
 改めて開いた恵の目に、明るい板張りの廊下が映る。

「こ………れはこれで」

 明るくなった筈なのに、恵の表情は晴れない。原因は、照明の度合いにあった。

 暗いのだ、まだ。真っ暗ではないが、薄暗い。
「何で、蛍光灯1つなんですか………?」
 本来2本ある筈の蛍光灯は、最初から1本しか取り付けられていない。玄関上の、剥き出しの照明を見上げ、恵は不安気に声を漏らした。
「ああ、電気代節約」
 事も無げにそう言った敬一が、部屋から出て来る。恵は1歩引いて道を開けると、首を傾げた。
「暗いとか、言われないんですか?」
「ううん、全然」
 首を振った敬一に、恵は首を傾げたまま、思考を働かせた。
 電気代。
 狭間荘が賃貸住宅である以上、共同部の電気代は、管理費として家賃に含まれる筈である。
 家賃が幾らかは聞いていないが、見た感じ安そうだ。もしかすると、賄えないのかもしれない。否、住民から文句が出ないところを見ると、安い家賃の条件なのかもしれない。それなら納得がいく。
 しかし、薄暗い古びた家屋は、不気味に感じる。よく平気だな……――
「………ん?」
 そこまで考えて、恵は首を戻すと、パチパチと数度瞬いた。
 ――そう言えば。
「叔父さん、住民の人って、今何人いるんですか?」
 まだ住民の1人も見ていない。
 と言う事に、恵は気が付いた。彼女は新しく沸いた疑問を、素直にぶつける。そしてぶつけた疑問は。

「ん? 居ないけど」

 笑顔で返された。

「……………うん?」
 笑顔でもう1度聞いた。
「居ないよ」
 笑顔で返される。
「………………………はい?」
 聞く。
「だから居ない。ゼロ人」
 返される。

「…………………………」
 恵の右頬が、ヒクリ、と引き釣った。

――何ですかそれええええ!

 恵の叫びに、庭のカラスがギャアと鳴き、飛び去った。




[ 5/24 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -