五十嵐 敬一。
 今年で34歳を迎え、その割りに見た目は若々しく、20代後半と言っても通用しそうな程である。優しげな二重の瞳、常に上がった口角、人の良い彼の性分が表情にも表れているような、柔らかい雰囲気を持った男だった。
 彼が独身である事が不思議なくらいだが、実は彼は親戚の間では変わり者として疎遠される程、昔から『奇妙な行動』が目立った。彼が朽ちかけた廃虚の管理人を勤めているのもまた、『奇妙な行動』の一端。

 その彼、敬一は自分の部屋の扉を背に、廃虚の、狭間荘の廊下に座り込み、のんびりと紫煙を燻らせていた。
 扉の向こうでは、ドタンバタンと大きな物音がし、彼の背中に振動を伝えた。時折、悲鳴も聞こえる。
 脇に置いた小さな銀の灰皿に灰を落とすと、敬一はゆっくりと煙を吐き出しながら天井を見上げ。
「………何だかなあ」
 呟いた敬一の耳に、再び悲鳴が届いた。


「ギャー! くく靴下にカビ生えてる! 何じゃこりゃあ!」

 片手にゴミ袋、片手に靴下を摘まみ上げ、恵はこれでもかと眉を顰めている。
 窓という窓を開け放ち、ゴミも生活品も判別つかないほど物で溢れ返った部屋で、口にタオルを巻いた恵は孤軍奮闘していた。
 黒ずんだ斑尾模様の靴下を、落とし入れたのを最後に、パンパンに膨れたゴミ袋の口を閉じる。
「果てしなかった………」
 疲れたため息が出るが、それも致し方ないと言うもの。もう大容量のゴミ袋は既に4つ目となって漸く、部屋は何とか片付いた。窓から射し込む光りはすっかりオレンジ色に染まっていて、此処に来て既に2時間以上が過ぎようとしていた。
 床に散らばる物がなくなっただけで、大分スッキリとなった部屋を、ぐるりと見渡して、満足気に頷いたその時。
 ぐう、と。恵のお腹が小さく鳴いた。
「………お昼抜いたからなあ」
 恵は空腹を訴えるお腹を擦りながら、部屋の出入口に目をやった。
「叔父さ、とと、んしょ。叔父さあん!」
 敬一を呼んだ彼女は、途中声を遮るタオルを外し、再度声を張り上げる。
ややもせず扉が開き、敬一が顔を覗かせた。
「はあい。何か入り用、わ、凄いね」
 自分の部屋を見た敬一は、綺麗になったそこに僅かに目を見張った。こんなに部屋広かったっけ……、っと感心しつつ呟く彼に、恵は、やれやれと眉を下げる。
「これ、捨てたいんですけど、ゴミの日はいつですか?」
 これ、と恵が指差すのは勿論、膨れたゴミ袋である。
「ああ、丁度明日が燃えるゴミの日だから、共同ゴミ置き場に置いておこう。明日、僕が捨ててくるよ」
「あ、今持って行ってもいいんですね。じゃあ取り敢えずこれだけ出して………」
 ふん、と鼻息を漏らしてゴミ袋を持ち上げた恵に、敬一が慌てて駆け寄る。
「僕が持つよ! そんな重たい物、女の子に持たせる訳にいかないからね」
 ゴミ袋を奪うように取り去られ、恵はお礼を述べたが、これは元々敬一のだらしなさの結晶である。その事に気付くや恵は「叔父さん、ゴミくらい小まめに捨てて下さい」と呆れた眼差しを送った。

「あ、そうだ叔父さん。それを始末したら、もういい時間なんで、そろそろご飯を……」
 恵が言い切らぬ内に、敬一が「ああそうか!」と大きな声を上げた。 恵が小さく肩を揺らしたのも目に入らぬように言葉を続ける。
「しまった、もうそんな時間か………あー、恵ちゃん、悪いんだけど、今から作ると遅くなりそうだし、今日は店屋物にしよう」
 恵の眉が寄る。
「まあ、あの台所はちょっと使えないですよね………」
 部屋と同じくよくもまあそこまで散らかしたな、と呆れる程の惨状。シンクは食器やら鍋やら何かの容器やらで山となり、コンロも鍋のタワーが出来ていた。
 あそこを片付けてから食事を作るとなると、かなりの時間を要するだろう。

「え……?」
「え?」
 苦々しい顔の恵が、敬一のきょとんとした顔に釣られ、同じように眉を上げた。

「あ、いや」
 聞き返され、敬一は慌てて口角を上げるが、誰が見てもそれは誤魔化した笑顔。
「うん。そうだよねえ! あれはちょっと使えないよね! 使え……え、何で使えないの?」

「……………………」

 どうしよう、この人本気だ。

 不思議そうに、くり、と首を傾けた敬一に、恵は内心で大きな不安に駈られながら、何とか笑顔を作ろうと試みる、が、頬が引き釣っただけで失敗に終わった。
「お、叔父さん、まさかご飯作る気だったんですか? あの台所で?」
「え、うん」
 一体どうやって料理をするつもりだ。あっけらかんと頷いた敬一に、恵はもう途方に暮れるしかなかった。
 しかも、敬一が店屋物にしようと言った理由をよくよく聞いてみれば、調理時間が足らないからだと言う。料理をし始め、出来上がるまでに、3時間は要するらしい。
 よっぽど手の込んだ物を作る気だったかと言えば、答えはノー。なんと彼が予定していた献立は、家庭料理の定番『オムライス』であった。

「なんでオムライスに3時間も…………」
 敬一がゴミ袋を両手に部屋を出て行ったのを見送り、恵は半眼で呟きながら台所へ向かう。
 とにかく、シンクを何とかしようと、七分袖のトレーナーを腕捲りし、よし、と気合いを入れた………が。
「あれ………洗剤何処だ」
 恵の台所掃除の第1歩目は、まず、スポンジと洗剤を探す事だった。
「まじ途方もねえ………」

 恵は、この後出前が届くまで、5の鍋と3のフライパン、10の皿と12のコップ、その他お椀やら小鉢やらを洗い上げ、また一袋分のゴミをまとめた。
 出前を手にした敬一が、恵の仕事ぶりを見て顔を輝かせ、凄いと綺麗を連呼したが、当の本人は寧ろ、こんな散らかった部屋で普通に生活してるお前のがスゲーよ、と内心で呟いていた。

「さあ、食べよう食べよう」
 #name_1#が片付け、恵が洗った皿とグラスが並ぶ、恵が拭いたテーブルへ、僅かに香ばしい匂いを漂わせる厚紙の平たい箱が置かれている。恵が席に着くと、敬一が箱の蓋を開けた。
 途端に僅かだったチーズの匂いが、テーブルの上に広がる。鼻をすんと動かした恵は、この時ばかりは顔を輝かせた。
 敬一と似たくっきり二重。恵の黒目がちな瞳は、口にせずとも美味しそうだと語っている。
「遠慮しないで、どうぞ」
「はあい! いただきます!」
 何処かあどけない、桜色の唇で三角形の角にパクリとかぶりつく。ムグムグと何度か咀嚼した後、恵の顔が分かり易く綻んだ。
 幸せそうに頬を緩ませた恵を見て、敬一もまた顔を綻ばせる。
「沢山食べてね」
 恵がコクコクと頷いて見せれば、敬一の笑顔はより一層深くなる。
 彼はこの姪っ子を、昔からとても可愛がっていた。直に会っていない間も、こっそり様子を聞いていたりして、彼女が志望した高校へ合格した時など、電話口で万歳しながら泣いたものだ。
 彼女に最後に会ったのは、彼女が中学に入ったばかりの頃。真新しい制服に身を包んだ恵を、デレデレに破顔させて写真に収めた。それからもう6年近く間が空いてしまったが、敬一が恵を見つめる眼差しは、昔と寸分違わず愛しさに溢れていた。

「食べないんですか?」
 一向に手を付けようとしない敬一に、恵は1枚目のピザを完食すると、首を傾げる。
「ん? ああ、うん、食べるよ」
 促されるように、敬一はピザを自分の皿へと移した。恵も1枚を取り、また口へ運ぶ。
 だが食を進める恵と違い、敬一の手は膝に置かれたまま、軽く握られ、皿に伸びる事はなかった。
「あのさ、あ、食べながらでいいんだけど」
「?」
 恵に対し、ずっと朗らかな笑みを浮かべ続けてきた敬一だが、この時は少々ぎこちなく、恵は口元をモゴモゴさせながら、再び何だろうと首を傾げた。

「あの、ね。僕が………僕が、君を最後に見たのは、君が中学に入ってすぐの頃」
 恵の瞳が丸くなる。彼女は驚いていた。
 敬一の言う最後の記憶と、自分の最後の記憶が、噛み合っていないからだ。
 恵は、小学校に上がる前に、叔父と疎遠になったと記憶している。だが、叔父は中学生の自分を見たと言う。
 敬一の話を聞くうち、彼女は口の動きを、いつの間にか止めていた。その彼女の反応を受け、敬一は苦笑を漏らす。
「こっそり、ね。見に行ったんだ」
 瞳を伏せて苦く笑う敬一に、恵は慌てて口の中の物を飲み込んだ。

「え、なん、何で、そんな」

 ――不審者みたいな真似を。

 俄に狼狽えた恵はそれでも、寸でのところでその台詞を飲み込んだ。代わりに、上目で敬一の顔を覗き込み、当たり障りなく選んだ言葉を紡ぐ。
「えと、声、掛けてくれたら良かったのに」
「…………うん」
 恵が内心どう思っているか知らない事もそうだが、敬一は別の大きな理由があって、彼女の言葉に、苦笑い以上の反応を返せなかった。
 彼は確かに、この姪っ子を可愛がっていた。こっそり見に行ってしまう位に。そして今も、彼女を愛しいと思っている。
 そんな彼女に、いくら彼女が成長して彼女の社会が出来たとしても、1度も顔を合わせなかったのは、やはり訳があったからだった。
「直接会うのは、止められていたから」
 え、と少々上擦った恵の声が、欠けたピザの上に落ちた。



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