弐
ダイヤ型にデザインされた磨りガラスにいくら目を凝らしても、中が見えないのは当然である。
それでも諦めがつかないのか、恵は木と磨りガラスで出来た扉の前で、右往左往しては半透明に曇り見えない向こう側を伺っていた。
「マジで此処………?」
更に独り言まで漏らし始める。
こう言っては難だが、見れば見る程、朽ち掛けた廃墟。恵が戸惑うのも仕方がない。
昼間だというのに何処か薄気味悪く、まるで、そう、『お化け屋敷』みたいだった。
「いやいや、無理でしょ。どう見ても人の住む場所じゃない。現に無人っぽい、じゃん?」
傍から見れば、不審者。だが本人は至って真剣だ。何故なら。
「こんな所に叔父さんが住んでる訳ないよ。うん。ないない」
彼女は自分の紛う事無き血縁を訪ねて来ていた。小さな頃に会ったきり、顔も覚えていない叔父の虚像が崩れるのを、何とか回避しようと恵は必死だった。
更に言えば、彼女は今日から叔父の住まいにお世話になる事になっていた。
「か、帰ろう」
「………ん?」
「………あ」
何かの間違いだとコンクリートの上に置いておいた鞄を持ち踵を返し、上げた視線の先に、彼女は人を確認する。
此方へ歩いて来ていた男が恵に気が付くのと、恵が男の姿に目を丸めるのはほぼ同時だった。
「珍しいなぁ。お客さんなんて」
サッパリ刈られた黒髪は、綺麗な艶を帯びている。朗らかに笑った男は年齢の割りに若々しさを保っていた。
恵の傍まで歩み寄り、穏やかな人柄が伺えるような柔らかい笑みを浮かべる。
「誰かを訪ねて来たのかな?」
恵は男の手にスーパーの袋が下がっているのを、信じられない物を見るようにまじまじと見つめていた。話し掛けられた事に気付くのが遅れたのはそういった訳だ。
「……えっ、あっ、その」
恵にとって余程衝撃だったらしい。彼女の頭の中は人が住んでいたと言う事実ではち切れんばかりだった。
漸く反応したかと思えば、しどろもどろな彼女を、男は首を傾げてじっとみていた。そして焦り出す恵の前でおもむろに「おお!」と声を上げる。
恵が大きく肩を揺らせた。
「君、恵ちゃん!?」
「は……え、なんで」
恵は自分の名を言い当てられ、僅かに身を引いた。
「やっぱり!?」
驚く恵を余所に、男は確信を抱いて顔を輝かせた。声も嬉しくて仕方ないと言うように弾んでいる。彼女が酷く困惑していても、だ。
「いやいや、大きくなったねぇ! あんまり綺麗になってたんで、気付かなかったよ! あ、でも目元は面影あるかなぁ」
1人はしゃぎ出した男に反して恵の顔がどんどん青ざめていく。
まさか、嘘でしょ、そんな訳ない、と懸命に否定の言葉を心中で繰り返す。
その彼女の努力虚しく、男はやはり嬉しそうに、彼女の否定をあっさり踏みにじった。
「そう言えば今日来るって言ってたっけ? 叔父さん忘れっぽくて。年かなぁ? 駅まで迎えに行ってあげようと思ってたのに、疲れたでしょう?」
嗚呼、決定的だ。
恵はそう思ったと同時に、未だ認めたくないと微かな希望に縋る。
恐る恐る、密かな願望を乗せて口を開いた。
「敬一、叔父さん……?」
小さい頃会ったきり、顔も覚えていない叔父。
恵が覚えていた唯一は、叔父の大きな手だけだった。
「なんだい?」
恵の家庭が引っ越してからは、そうそう会える距離ではなくなって、又、小学校に入ってからは恵も、運動に遊びに勉強と、毎日忙しくしていたから自然と会う機会が無くなった。
あんなに懐いていたのにね、と母親に言われて、そうだったかな、と思い出した記憶は朧気な物だった。 叔父が来るのが待ち遠しくて、待ち遠しくて。帰ってしまう時にはわんわん泣いて困らせた。そんな風に言われても、イマイチぴんと来ない。
敬一叔父さんが来るのを、楽しみにしていた自分が、遠い昔過ぎて、想像すら出来ずにいた。
「敬一叔父さん、なんですね?」
恵はだからこそ、久しぶりの手紙に胸を高鳴らせたのだ。
そんなに大好きで堪らなかった叔父を、今更ながら何故忘れてしまったのか。恵はどうしても、叔父に会ってみたかった。
就職の決まっていなかった恵が二つ返事で快諾したのは、そういった下心もあった為だ。
「ああそうだよ。はは、覚えてなくて当然か。恵ちゃんはまだ小さかったもんなあ」
笑みを絶やさずに、手の平を水平に下げた敬一が「このくらいだったのに」と感慨深く頷くのを横目に、恵はショックを受けていた。
どんな人かな、そう期待を寄せて、きっと素敵だと妄想を膨らませて、恵は此処、『泡沫荘』の管理人を、引き受けたのだから。
敬一は恵の期待通り、安心感を与える柔らかい笑顔を持った、素敵な人だと、彼女は思った。
少なくとも、その笑顔は大好きだった敬一叔父さんだと、恵が納得するのに十分であった。だが、彼自身には問題なさそうでも、彼はこの廃虚に住んでいる。この事実は恵には受け入れ難かった。
恵は一呼吸おいて、口を開いた。
「……お世話になりました」
ペコリと頭を下げた恵に、1人思い出に浸っていた敬一が呆気に取られ、笑顔を消した。
「………えっ?」
肩に触れるか触れないかといったぐらいの黒髪を揺らし、頭を上げた恵がニコッと笑う。実にいい笑顔だ。
「では!」
イマイチ状況を理解出来ない敬一の横を、先ほどの可愛らしい笑顔は何だったのかと言う程真顔に戻した恵が通り過ぎる。
「えっ、あっ、ちょっ」
敬一が焦った声を上げて振り返る。最初は右に、次に左に向き直した。一方恵は歩く速度を上げる。
自分の叔父だと認めよう。その叔父がこのぼろ屋敷に住んでいる事実も。この、まるで『お化け屋敷』のような屋敷に。
恵は認めた上で、叔父の事は忘れよう、そう思って早々に帰宅を決めた。
勿論、それが敬一に分かる筈無く、彼はもう門に差し掛かった恵の名前を叫ぶ。
「恵ちゃん!?」
彼女は鞄に両手を添え、身体を捻って振り返る。
「この話は無かった事に!」
やはり、笑顔だった。
「ま、待ってよ!」
視界から消え行く恵を、敬一が慌てて追い掛ける。
道路へ出ると淀みなく歩く恵の後ろ姿。敬一がもう1度名前を呼んでも、振り返るどころか立ち止まる気配も見せなかった。
敬一の焦りは増し、叫ぶように声を投げ掛ける。
「何処行くの! 帰っても誰も居ないよ!?」
この言葉に漸く、恵の足がピタリと止まる。
敬一は一気に畳み掛けんと口を動かし続けた。
「兄さんも姉さんも居ない! 兄さん達は今日からカリフォルニアだよ!」
信じられない、というような顔で恵が振り返る。
「崇だって、今日から大学寮だろう!?」
「ちょ、待って、カ、カリフォルニア!?」
目を剥く恵に、敬一が頷いて見せる。
「子どもの手が離れたら、旅行に行こう、って姉さんの夢だったんだよ」
「カリフォルニア……なんでカリフォルニア……」
「カリフォルニアは最初で、その後フロリダまでゆっくり旅して回るって言ってたから、暫く帰って来な………え、ええと、恵ちゃん大丈夫?」
話しながら近付いた敬一が、カリフォルニアを繰り返し呟く恵の隣に立った。
呆然とした様子の彼女を、身を屈めた敬一が心配そうに覗き込む。
「き、聞いてるかな?」
「何故カリフォルニア………」
「だ、だから、旅行が姉さんの」
「夢だったんでしょ!? いいんだよ! 別に両親が旅行に行こうが何だろうが、それはいいの! でも普通夢だったからって娘が出て行った途端に出発ってどういう事!?」
急に噛み付くように声を荒げた恵に圧され、敬一は1歩下がった。胸の両脇に手を上げて、その際持っていた買い物袋がドサリと落ちた。
どうどう、と馬にするような心持ちで、敬一はその手を小さく前後させる。
「………いいです。誰も居なかろうと家はあるんですから、帰ります」
効果があった、と敬一は少しだけ驚いた。まだその瞳には怒りの色を宿してはいるが、恵は目を伏せ、声を落とした。
実は恵は敬一の様子など気にも止めていなかったが、彼はこれで落ち着いてくれたと上げた手を下ろさずにおく事にする。
「で、でも、通帳とか、カードとか、貴重品は全部持って行っているらしいし、恵ちゃん生活出来ないんじゃ………」
はっとしたように恵が瞳を僅かに見開いて、顔を上げた。
小さく開いたままの桜色の唇が間抜けでいて、あどけない印象を与える。
敬一は昔の彼女と重なった気がして、少しだけ心が綻ぶのを感じた。またも呆然とした恵を気遣うように優しく声を掛ける。
「ともかく、上がりなさい。お茶を出すよ。それからゆっくり考えればいい」
「…………………」
おずおずと恵は頷いた。急に行き場のなくなった事で酷く心細く感じ、優しく笑う敬一に頑なだった意識はほだされ、彼女は少しだけ譲歩する事にした。
元々、前向きな性格だ。お茶を飲んで落ち着いて考えよう、家に帰るとしてそれからでも遅くはない。幸い、叔父は優しい人のようだし。
そんな風に叔父が自分の味方だと位置付けて、買い物袋を拾い上げ、中身を慎重に確認する敬一を、恵は上目に伺うのだった。
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