弐拾肆


 水拭きされたばかりの廊下は、黒々として、古くあってもそれなりに艶を取り戻している。
 二階に続く階段もまた、磨耗した手すりまで綺麗に磨かれていた。
 踊り場の窓は橙色に染まり、ぼんやりとした影を作る。薄暗く、それでも建物内は紅く染まり、幽邃として人の気配は無く、現の境を影と同じくぼやかしまうような、儚さがあった。
 しんみりとして、それでいて不安を逆撫でするようなこの空間が破られたのは、玄関に影が差した時だった。
 扉に遮られてはいるが、話し声は静寂を破り、軋む高い音を立て扉が開けば、幽寂は散った。

「足元気を付けてね」
「はーい」
「心配性だな、けいちは。あ、恵俺がドア持ってるから先入れ」
「うんありがとー」
 最初に足を踏み入れたのは、両手にビニール袋を下げた恵だった。甲斐甲斐しく世話を焼く敬一と火車が後に続く。此方の二人も又、荷物で手が塞がっていた。
「ああ、改めて見ると本当に変わったねえ。何だか空気まで違う気がするよ」
「違うんですよ」
 掃除された屋内を呑気に見回す敬一を、恵が呆れた眼で振り返った。空気中の埃の数は、朝と夕では断然違っている。何を今更とでも言いたげな恵に、敬一は矢張りのんびりと、そうなんだあ、と何も考えていないような返事を返した。
 何処か嬉しそうな緩んだ敬一の顔に、いよいよ呆れを通り越した恵は、諦めて自室の鍵を取り出した。
「叔父さんのそれはそっちに、あとこれも。あ、火車は先部屋行ってていいよ、重いでしょ」
 段ボールを抱えた火車に、鍵を差し出す。三人の中で一際重労働をこなす彼は、差し出された鍵を見て、恵を見て、再び鍵を見て、何故かごくんと唾を飲んだ。
「――お、俺待ってる」
「え? でも、テレビ重い……ああ、開けられないか。じゃあ今一緒に、叔父さん荷物そこ置いといて下さいー」
 忙しなく動く恵は、敬一の返事を待たずに踵を返す。片手だけになったビニールを揺らし、パタパタと自室の前に駆け寄ると、鍵を開けドアを開けた。
 開けて――、閉めた。

「……………………」
「………ど、どうした?」
 ドアノブを握ったまま硬直する恵に、火車が不安そうに訊ねる。恵は首だけを動かし、無表情で火車を見返すと、今度は口元だけを動かした。

「なんか居る」

 何か、と彼女が言い表わすに、それは彼女が初めて眼にするものだと、火車にも察しがついた。ちろりとドアを見て、進み出る。背後で敬一が首を伸ばし様子を見ていた。
 恵が下がり、場所を譲ると、火車は唐突にドアノブを引いた。少しの躊躇も無いそれに、恵は小さく肩を跳ねさせる。
 恵の眼が確かなら、ドアを開けた先には、変な生き物が居た筈である。けれど火車は平然としており、と言うより、寧ろ不思議そうに彼女を振り返った。
「何処に?」
「えっ?」
 恵は慌てて部屋を覗き込んだ。火車の鼻に、ふわりと甘い香が届く。何かの花のような香だったが、生憎火車はその花の名を知らぬ。ただ心臓をどきりとさせただけである。
「あ、あれ? 今確かに……」
 そうとは梅雨知らず恵は不満気だった。玄関に足を踏み入れると、部屋を隈無く見回す。だがそこに、彼女が思うようなものは無かった。
 無いものは無い。居ないものは居ない。確かに居た筈なのに、の言葉を飲み込んで、恵は肩の力を抜いた。
「全く主らは騒々しいな」
「あ、天狐」
 廊下からの声に、恵は火車と揃って視線を移す。
「ただいま。変わりない?」
「変化等とうにあっただろう。こんなに喧しくては昼寝も出来ぬ。まったく、小娘め。さっさと去ねば良いものを」
 火車には、肩をわなわなと震わせる恵の後ろ姿が良く見える。肩を叩いて諫めようか否か迷っているうち、彼女は口を開いてしまった。
「あんたねえ、掃除の時もさっさと消えちゃって、寝てたわけ!? ちょっとは手伝いなさいよ!」
「だからこんなに騒々しくては眠れぬと言うておろう阿呆娘」
「あほ、あんったね! もう怒った!」
「はっ、阿呆の小娘が怒ったところで、たかが知れるな」
「ご飯抜き!」
「なにっ」
 泡沫荘の食事管理は、管理人の仕事である。え、ご飯食べるの? という恵の疑問には、敬一が答えてくれた。
 食わなくとも生きてはゆける。しかし食わぬば、力は蓄まらぬ。捧げられる供物は、『格』に関わる。『格』の低きものほど、知能も力も低い。例外を除いてだが。
 此処では、管理人は供物を捧げる側である。捧げる捧げぬは、言ってしまえばその人の自由。
 だが彼らは、選べぬ。供え物を貰えぬ者は、堕ちてゆくのみ。堕ち続ければその先は――
「き、汚いぞ小娘!」
「何とでも言いなさい。私達はね、対価で糧を得るのよ。何の労働もしない奴は飯を食う資格もない!」
 びしっときめた恵に、天狐は言葉を失くした。そして愕然としたのは、何も彼だけでは無かったようだ。
 なにいっ! と声が上がったのは、階段から。団子のように顔を出したイタチ三兄弟。
 うそっ、と悲鳴が上がったのは、敬一の部屋から。開いたままの扉から、泣きそうな顔の童子が転がり出た。
 そして――
「そんな! 困ります!」
 恵の部屋から聞こえた声。
 同時に聞こえたその声に、彼女は大いに肩を跳ね上げぎょっとした。
「え、え、」
「何その規則! そんなの聞いてないよ敬一!」
「わ、童子、」
「横暴だあー!」
「だから俺は反対だったんだ! 人間なんて!」
「兄ちゃん……」
 恵は騒ぐ彼らに視線走らせ、そして、手を添えていた玄関扉をぎゅうと握った。
 さっきから視線を感じるその先へ。己が部屋へと続くその先へ。
 ゆっくりと、時間を掛けて振り返る。そしてその顔が、驚愕に染まる。
 質素な畳の八畳間。硝子の向こうの荒れた庭。
 何の事ない風景に、明らかに異質なものが立っていた。
 一度見たら忘れないだろう、強烈なインパクト。

 海パン一丁の、男だった。

「変態!」
 叫んで恵は扉を閉めた。他に選択の余地は無かった。

「変態、変態が……」
 青ざめた顔を火車に向ける。
「え、あ、ああ、うん」
 火車は気まずそうにドアをチラリと見やってから、上目で彼女を伺った。
「あの」
「うん、どうする。警察呼ぶ?」
「いや、ええと……」
「うん」
「お……、俺はご飯貰える?」
「は――……………」
 恐る恐る訊ねられたその問いに、たっぷり数秒絶句した後彼女は。
「………お前らの頭ん中はそれだけかああああ!!」
 本日一番の怒号を響かせた。


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