弐拾参


 額に汗を浮かべた恵は、ぼんやりとしながら、毛むくじゃらの手が、自身の足の上を滑るのを見ていた。
 柔らかい肉球が、するりと肌を撫でる。と、そこにあった足の傷が、跡形も残さず無くなった。
 ぼんやりしながらも、驚いた様子で足を眺め続ける恵の代わりに、敬一が礼を述べる。
「ありがとう鼬(いたち)」
「…………………あの、」
 鼬は瞳を伏せ、無言で首を横に振ると、壺をぎゅうと抱き締め、ぽそりとか細い声で言う。
「ごめん、なさい」
 はっと恵が顔を上げた。弱々しい声色と、項垂れる耳と尾。眉を下げた敬一が、ぽふぽふと鼬の頭を撫でた。
「どうせ飯綱の癇癪だろう。鼬が謝ることじゃないよ」
「でも………僕……、やっぱり、あの、ごめんなさい」
 俯いていた顔を、更に垂れて、鼬はもう一度謝罪した。それは明らかに恵に向けられたもので、まじまじと鼬を見つめていた彼女は、気抜けしたように口から呼気を吐き出した。
 間近に見る獣は、思ったよりも小さい。恐らく精々彼女の胸辺りまでしかないだろうに、更に膝を付き、身を縮こまらせているから尚更だった。
「彼は鼬。いたち三兄弟の末っ子でね。ええと、かまいたち、と言えば恵ちゃんにも判るかな」
 恵は、鼬を見つめ続けながら、かまいたち、と小さく反芻した。彼女の呟きを受け、火車がこくりと頷く。
「ああ。一匹目が転ばせ、二匹目が切り付け、三匹目がそれを治す」
 ――治す?
 恵はその行為を不可思議に思った。怪我を負わせてわざわざ治す、その矛盾とも言える行為。
 恵は自分の足を見やった。すっかり元通りになっているのを見れば、否応なしに治されたのだと判る。理屈が判らなくとも、治っている、その事実は明らかだった。
 不意に壺の中身が気になった。鼬はそこに手を突っ込んで、何かを彼女の足に塗ったのだ。

 ――かまいたちの傷薬。
 斯様な切り傷等一瞬にして塞いでしまう。

 それを知らない恵でも、壺の中身に秘密があるのだろうとは、察しがついた。それでも何故切り付けて、何故治すのか、最初に湧いた疑問は到底解消には至らない。
 恵はまるで何事も無かったかのような足を暫く見つめていたが、小さく、ぽつり、溢す。
「…………どうも」
 拙い言葉だ。
 しかし、彼女には他に言い様が無かった。ありがとうときっちり感謝するには、あまりに相手を知らな過ぎた。
 鼬が傷を治したのを、好意か善意か罪悪感から来る罪滅ぼしか、はたまた役目だからなのか、彼女には判断しかねる。しかし治して貰ったのは事実。だから曖昧な、それでいて簡素な、感謝なのか挨拶なのかよく判らない半端な言葉を――半端な気持ちであると表すように――、口にした。
 対し、鼬は丸い目を更にまん丸くした。聞こえなかった訳ではないのに、聞こえなかったかのように、ぽかんと恵を見上げる。
 今何か言った? とでも言いそうなその視線に、恵まで動揺する。否、最初から揺れに揺れているのだ。まるで現実感の欠いた出来事に、冷静に対応出来るだけの度量を、彼女は持ち合わせていない。大いに迷い、迷ったところで正解等一向に判らない。
 世にも不可解なモノを相手に、こうすれば良いという手本、対処法を、彼女は己が中に見付けだせないのである。故に大小関係無く、判らない事があれば容易く揺れる。
 戸惑って目を泳がせた彼女が、隣の敬一を見上げ――敬一は鼬を見ていた――た時、惚けたような鼬が急に頭をペコペコと上下させたのを受けて、彼女は結局直ぐに鼬へと視線を戻した。
「ご、ごめんなさい!」
「え………、」
「僕、ごめ、ごめんなさい」
 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す小さな頭を見下ろして、恵はやはり動揺する。そんなに頭を下げられても、彼女はこのへんてこな生きものに、別に腹を立てているでも、原因を擦り付けているでも無いのだ。
 そう、彼女は鼬を責める気はないし、鼬の所為で、とは微塵も思っていないのである。
 ただどうしたらよいか判らないだけなのだ。戸惑って、揺れて、それは理解が追い付かない故なのだ。
 自分は何故謝られているのか、辛うじてその疑問一つに絞ってみても、やっぱり、あれ自分なんで謝られてんだ? という疑問に戻るだけだった。出口が無い。
 それでも止めなければ、と思った。止めなければ、止まらない気がしたのである。呼気を吸う。
「――い、いや、あの、」
 声を出したはいいが、動揺が内に収まり切らず、言葉に詰まってしまった。要は何も考えずに止めようとし、どう言えば良いのかは全然考えていなかったのである。
 鼬はその隙にも謝罪を続ける。
「ごめんなさい」
「いやだから、」
「ごめんなさい」
「ねえ、」
「ごめんなさい」
「ちょ、」
「ごめんなさい」
「ちょっと落ち着けお前え!」
 あまりに忙しく頭が上下するので、恵の目線も定まらず、多分、彼女はそれをまず止めたかった。
 鼬の頭が上がったのを測り、がしりと額辺りを押さえた。
 面食らったのは、恵以外の全員である。恵は動きと言葉両方が止まった事に、功を得たと思ったようだった。はあと安堵するような呼気を吐いた。
 彼女は彼女なりに、これで話が出来ると一時的に安堵したのだ。その証拠に彼女は呼気を吐いて直ぐに呼気を吸った。
「ごめんなさいはもういいから。ええと、いたち? だっけ?」
 額を押さえられたまま、こくこくと鼬が頷く。
「おにい、さん、でいいのかな。さっきの」
 鼬は矢張り無言で何度か頷いた。
 恵が眉を寄せる。鼬はその小さな陰りを敏感に読み取り、怯えたように首を竦めたが、彼女は額から手を離すと、気にする事無く、むう、と悩むように一つ唸った。
「………歓迎、されてないみたいだね」
「ごっ、ごむっ」
 最早条件反射なのではと思わせる程早く、鼬が謝罪を口にしようとした。が、恵が彼の口を掌でピタリと塞いだ。塞いだと言っても軽く手を翳した程度で、押さえ込んだ訳ではない。
 けれど、そっと触れた彼女の掌の感触に、鼬は言葉を失った。
 見開いた瞳の先には、悩ましげに眉を寄せ、何かを考えているような恵の姿。濡れた鼻先に感じる、生温い温度。

 ――触れている。

 思った瞬間、鼬に、どっと全細胞が沸騰したような、ぶわりと全身の毛が一気に逆立つような、衝撃が走った。
 ――この、ひと、
「うーんでも、また襲われたら困るしな……」
 恵は何やら独り、ぶつぶつとごちている。鼬の心臓は、どくどくと鼓動している。
 ――このひと、ぼく、に、
「でも……いやいや、やっぱり困るわ、うん」

 ――さわっ、た。

「あのさ、いたわあっ!?」
 思考を繰り返しぼやけていた恵の焦点が、漸く鼬へと視軸を定めた。そして彼女は、ぎょっとし声を上げた。
 彼女の目の前には、全身の毛と言う毛を、これでもかと逆立て、倍にもなろうかという異様を呈した獣が居た。
 鼬は、『毛が逆立つような衝撃を受けた』のではなく、本当に『衝撃で毛を逆立てた』のだ。彼女は気が付いていなかったが、鼬が突然ぼっと膨らんだその瞬間を、敬一も火車も見ていた。火車など二度見している。
 驚く二人を余所に、それほど恵は思考に耽っていたとも言える。声を出さず口を開け閉めさせる、今は驚愕だけしかないが。
「――え……、え?」
 辛うじて出たのは、それしかないが。

 それほど集中して考えた、彼女の頭は何を、結論としたのだろう。



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