弐拾弐


 飛んで来たのは風の刃だが、それが恵に見える筈もなく、びしり、びしり、と、ナイフで切り付けたような亀裂が、床や壁に入っていくのにただ驚いた。
 それらが入った場所は、直前まで火車の居た場所で、その火車と言えば、軽やかに床を蹴り、壁を駆けて、猛烈な速さで三匹の獣めがけ近付き、亀裂と同時に恵を驚かせている。
 突然始まった戦闘に、身も心もすっかり置いてきぼりの恵の目の前で、火車は風を繰り出していた獣――長兄でも壺を抱えた獣でもない――の目前へと迫ると、その鋭い爪を振り上げた。
 が、あっと恵が漏らす間もなく、ごう、と強風が吹き付けた。それに火車は弾き飛ばされ、だが恵の前髪が浮き上がり、元に戻る間に、空中で体勢を整え着地する。
 息を吸い込んだ状態で固まった恵は、相変わらず呆然となったままである。
 こうなったら実力行使、その獣の一言から、これは始まった。恵からしたら唐突も唐突。何が起きているのかさえ把握出来なかった。
 自分の目の前にまで飛ばされた火車の背中を、瞬き一つせず見てから、ゆっくりと、その眼球を横へとずらす。彼女の心臓が、どきりと跳ねた。
 獣は、自分を見ていた。
「人間は出ていけ!」
 真っ直ぐに自分を捉えていた眼差しが、激昂のままにそう言った。恵は思わず叱られた子どものように首を竦め、目を瞑った。動物の唸る声がする。
 けれど次に火車の声が耳に届けば、彼女はそろりとその瞼を開けた。
「こいつはこれから此処に住むんだ、誰にも文句は言わせねえ」
 向けられた嫌悪と憎悪に、素直に怯えた恵には、その頼もしい背中が唯一の拠り所となった。状況は好転していないから、安心した訳ではないが、少なくとも彼は自分の味方であるらしい、そう思えばまだ自我は保っていられた。逃げ出したい気持ちを、まだ押さえ込めた。
 それは最善の判断と言えた。此処で彼女が背を向けようものなら、瞬時に風が彼女を襲っただろう。そんな事、彼女には考えつきもしないだろうが。
 もう一度、火車が走りだす。獣が構える。獣が腕を空を切るように振ると、床や壁に亀裂が生まれる。火車が華麗な動きでそれを避け、腕を振る獣に近付くと、もう一匹の獣が両腕を突き出すように出し、するとゴッと風が巻き起こり窓が豪快に割れた。
「っぶね、」
 直前まで窓の前にいた火車は、飛び上がって反対の壁側で、小さく漏らす。
 派手にガラスを飛び散らせたそれに、恵が目を剥いていれば、物音を聞き付けた敬一が、慌てた様子で漸く部屋から出て来た。
「な、何してるんだ!」
 敬一に獣が気を取られた一瞬。差した影にはっとしてももう遅い。
「いったあ!!」
 がりり! と見事な三本線を顔面に付けられて、獣が鳴いた。
「オコジョ!」
「わあん痛いー! 火車のばかあ!」
 悪態吐きながら、引っ掛かれた顔面を、毛むくじゃらの両手で覆う。一番上の獣が、キッと強く火車を睨んだ。
「なんだってそんな人間なんかを庇うんだ!」
「お前に関係ない」
 火車に怯む様子はない。同族を傷付けてでも人間を庇うその彼が、獣には理解出来なかった。
 敬一が割って入り、一体何事なのか訊ねたが、双方は睨み合いを止めない。しかし敬一の手前、下手に手を出せず、状況は膠着したようだ。
 未だ頭を整理出来ない恵はぼんやりとそれを眺め見ていた。
 と、つん、と服の袖を引っ張られる感覚。
 ほけらとした顔を、ゆっくり其方に向ける。
「……………………」
 腕の袖を摘み、しゃがみ込んだ少年が居た。簡素な帯を巻いた、着物姿で、あどけない大きな瞳で彼女を見上げていた。恵は暫くその子どもと見つめ合い、彼が首を傾けた瞬間、わあっと声を上げた。
 全員が彼女を振り返る。
「えっ、なに、えっ!?」
「あはは変な顔ー!」
 驚き後退る恵を、少年は指差し笑う。斜めに括られた前髪を仰け反らせ、大層愉快そうである。
 恵は愕然に愕然を重ね、口を開け閉めさせた。
「童子、いつの間に」
「ねえ見て見てこの顔! おっかしー!」
 慌てて駆け寄る火車に、童子と呼ばれた少年は尚も笑い続け、ねえと同意を求める。
 けれど火車は不快そうに顔を顰め、恵を庇うように少年の前に立った。
 敵意剥き出しで睨まれて、少年は漸く笑いを収めると、肩を軽く竦める。
「なあに殺気立ってんだか」
「わ、童子、その子は、」
「知ってるよ、恵ちゃんでしょう?」
 敬一の声を遮って、少年はにこりと微笑んだ。
 丈の短い着物から出る足を、ゆっくり動かすと、下駄が廊下を叩いた。ギシギシと煩い筈の床は、どういう訳か鳴らない。
 コトン、コトリ。
「敬一の姉の娘」
 コトリ、コトン。
「猫の恩人」
 トン、と止まったのは敬一達と恵達の間。
「泡沫荘の、管理人」
 不思議と惹き付けられるその少年を目で追っていた恵に、彼はにい、と笑い掛ける。瞬間、ぞわ、と産毛が逆立つのを、恵は自覚した。

「君には『不幸』は要らないね? だってもう不幸だもの」

 ――ね、臆病な娘さん。

 それは彼女の耳元で、囁かれた。

「きっ、きゃああああ!」
「ってめ、童子!」
 頭を抱え悲鳴を上げた恵を、けたけたと笑う声がする。声だけだ。姿がない。手を伸ばした筈が捕まえられず、火車が舌打ちした。
「ああ、もう………あの悪戯者め」
 敬一の脱力した呟きが落ちる。舞台に上がっていた筈が、途端に裾に追いやられて、獣達もやる気が削がれたとばかりに口を苦々しく曲げていた。彼らにとって一連は然程珍しい光景ではないのだ。
 堪らないのは専ら恵である。いきなり現れていきなり消えた少年。笑い声はするのに姿が無いのを、そろりと顔を上げて確認してしまったからには、もう平常では居られない。
 遠退いていく笑い声を聞きながら、ひいひいと息を弾ませ、泣きそうな表情でまた頭を伏せた。
「やだ、やだ、なに、なにあれ、やだ、やだあ……!」
「っ、あ、恵、あの、」
「ああ恵ちゃん、落ち着いて」
 錯乱した彼女に、敬一が駆け寄る。隣で狼狽してしまった火車を手で制し、彼女の前に膝を付いた。
「ゆっくり息をして、大丈夫、大丈夫だから」
 過呼吸に陥りかけていると気付いた敬一が、優しく背を撫で諭す。苦し気な呼吸を繰り返す彼女をみて、火車が益々狼狽えた。
「吸うんじゃない、吐くんだ。長く、息を吐いて。ゆっくりー……そう、ゆっくりー、ゆっくりー」
「っふ、ふううう、はっ、ふううう………」
「恵……」
 すっかり耳を伏せた火車に、敬一が目配せする。
「?」
 火車は眉を潜めたが、ガタガタと震える恵の手を、更に敬一が目で示すと、合点がいったとばかりに直ぐ様彼女の手を握った。固く握られた、震える拳。それを包み込み、励ましを込め強く握る。まるで己が付いているからと言わんが如く。

「…………どーすんのにーちゃん」
「ど、どうするったっておめぇ……」

 一方、完全に蚊帳の外に追いやられた獣達は、廊下で立ち尽くしている。これでは間抜けな三下だ。しかしだからといって何が出来る状況でもない。
 このタイミングで彼女を襲ったりしたら、敬一に叱られるのは目に見えている。それにそれは彼らの意にそぐわない。
 彼らは、彼女、恵が自ら出て行ってくれるのを望んでいるのである。
 最初から、脅すつもりであって、命を脅かすつもりではないのだ。
 長兄の獣は、がりがりと無造作に首筋の辺りを掻くと、溜め息を吐いた。遣る瀬なく舌打ちし、くるりと踵を返す。他の二匹が目を丸くした。
「え、いいのお? 兄ちゃん」
「うるせえ、出直しだ出直し。他の奴にビビってる奴に、やる気なんか出るか」
「…………………」
「行くぞ」
「うん……」
 歩き始めてしまった兄に、もう一匹が続く。しかし壺を抱えた獣だけが、じっとそこから動かない。兄の後ろの獣が、不思議そうに振り返った。
「鼬、行くよー」
「…………………」
 呼び掛けに反応せず、鼬と呼ばれる小さな獣は、丸い瞳に彼女を写し続けた。聞き付けた長男も、足を止めた。僅かに首だけで振り返る。
「…………………」
「鼬ー?」
 やがて彼女の息が落ち着いてきたのを切っ掛けに、鼬は意を決したように、駆け出した。彼女へ向かって。
「あっ、おい鼬い!」
「………………ほっとけオコジョ」
「え?」
「行くぞ」
「え……え、ちょ、待ってよ兄ちゃあん」
 鼬を気にしながら、オコジョと呼ばれる獣は、去ろうとする兄を慌て追い掛けた。



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