弐拾壱


「…………………」
 ハンカチの下、あんぐりと口を大きく開けた恵は、一言も発せずにいる。
 彼女の前で、照れくさそうに笑った青年の黒髪が、さらりと揺れた。
「やっぱ、びびった?」
 問われたそれが、己に向けられたものだと理解していても、恵はやはり声を出す事が出来なかった。
 その代わりに、ふるふると震える指先を、目の前の青年に向ける。青年が苦笑し、ばつ悪そうに後ろ髪を掻いた。
「恵が気に食わねーって言うなら、元に戻すけど」
 彼へと伸びていた指が震えを治めると同時に、恵の口から気抜けしたような息が、短く吐き出された。それから漸く口を閉じると、一度唾を飲み込んだ。
「………や、うん、いや大丈夫。大丈夫だけど、うん……………………カシャ?」
 確認するように呼ばれ、青年はこくりと頷く。
 線の細い黒髪と、少々釣り上がり気味の金の瞳。恵より背は高い。人間とは違う形をした三角耳と、ゆらゆら揺れる黒い尾っぽがなければ、それは人であったろう。
 カシャ、呼ばれた通り、彼はあの火車であり、決して人ではない。
「地獄の業火を纏う車輪を持った魂の運び手、が、俺」
「いやそれは別に訊いてないんだけど」
「………………………」
 火車の猫耳がしゅんと伏せられたが、恵はそんな事に構っていられないとばかりに、改めて彼を呆然と見返している。
「恵は多分、俺の名前知らねーんじゃねーかと思って……」
「え? カシャでしょ?」
「いやうん、だから、怪奇の名前って意味で」
 恵の眉が寄る。
「あー……火のついた車。判り易く言えばそれかな」
「あ、漢字的な意味で」
「怪奇的な意味だっつったろ」
「………怪奇現象?」
「もういい」
 再び指差され、首を傾けた恵から、火車は視線を逸らした。はあ、息を落とした彼を見て、恵がむっとした顔をした。
「まあ、別に知らなくったっていい事だしな……」
 どーせ無知ですよ、どーせ何にも判りませんよ、等と頭の中で文句を垂れていた恵だが、ぽつりと火車が呟やいて、その顔が何処か寂しそうで、ちょっとの間それに魅入った。
 じっと見上げる恵に気が付いた火車が、にっと歯を見せて笑い、我に返るまで。
「すんだろ? そーじ」
「え? あ、うん」
 そもそも、手伝う、そう言った火車を恵が笑った事から始まったのだ。
 猫の手も借りたいって? と冗談にした恵が朗らかに笑う目の前で、いいや人の手で、と真面目に言い張った小さな黒猫は、青年の姿へと形を変えた。そして冒頭である。恵は言葉を無くした。
「てか、なんでもありな気がしてきて怖い」
「あ、怖いってあんまゆーなよ。浮き足立つから」
「うわあ……」
「俺じゃねーよ!」
 窓を開けようと手をかけた火車から、引いた恵が距離を取る。
 立て付けの悪い窓をガタガタ言わせながら、火車が口を尖らせた。
「轆轤(ろくろ)や河童はいいとして、童子とか蛛は、そういうのすっげ好きだからよ」
「ねえ今なんか増えた? 増えたよね?」
 次の窓へ移動する火車を追って、恵が声を上げる。
「叔父さんはあの通り頼りになんないし、火車ちゃんと教えてよ」
「よっと……、何を?」
「だから! 三階には、あとその、どれくらい……」
「誰が住んでるかって?」
 うんうんと真剣そのもので頷く恵を横目に、火車が僅かに首を傾け、指折り数える。
「ええと……」
 順に折られて行く指。爪が鋭く長い。
 五本全てが折られ、また開かれていく。それを暫く眺め、三本目の指が開いたところで、恵は目を逸らした。
「訊いた事を激しく後悔」
 恵は深い溜め息を吐き、もういい、と告げて踵を返した。
「取り敢えずさ、取り敢えず、掃除しようか」
 一階には、敬一の部屋や浴場もあって、部屋数は三つと少ない。二階にはもう少し部屋があるとしても、それでも二部屋増える位で、つまり三階だけに限れば、そこまで大きい数が出てくるとは思っていなかったのだ。恵は。
 しかし見たところ、かなりの数が居るらしい。侮っていた彼女は、結果惨敗。ぐったりと肩を落として、ふらふらと掃除用具の元へ歩む。
「火車は引き続き窓を開けてくれる」
「おう」
 恵がぐいと袖を捲り上げながら言うと、背後で火車が任せろとばかりに胸を張った。
 春風が窓を叩く。強い風は窓枠をガタガタと言わせるだけでなく、開いた所から侵入し、恵の髪を乱した。
 瞬間、あっ、と我に返ったように火車が叫んだ。
 反射、え、と顔を上げた恵が振り向いた。
 途端、ビュッ、と暴風が彼女に吹き付けた。
「ぶわっ」
 強風よりも強いそれは、恵をいとも簡単に傾かせ、どすん、とそれは見事な尻餅を着かせた。
「イタチやめろ!」
 焦ったような火車の声も虚しく、無防備に投げ出された彼女の生足に、ピリッと瞬くような痛みが走る。
「いつっ! つー……」
 短めのパンツの先、スニーカーへと続く途中。くっきりと綺麗に入った、赤い線。
 恵はひりひりと痛みを訴えるそこから、慌てて駆け寄って来た火車へと視線を上げる。
 険しい顔に、恵の心臓がどきりと音を立てた。
「火車、どうし」
 火車が勢い良く背後を振り返る。恵の言葉は途切れた。
 火車が鋭く睨み付ける廊下の先に、3つの人影があった。恵も戸惑いながらそっと首を伸ばし、火車の後ろからそれを確認した。
 そして、息を飲んだ。

 一つは火車を睨み返し。一つはニヤニヤと嫌な笑みを溢し。一つは二つの影で泣きそうな顔をしていた。
 だが彼女の思考を停止させたのは、そんなものではなかった。
「いきなりなにすんだ!」
 息巻く火車の声を聞きながら、恵の思考は全く働いていなかった。
 ふさりとした尾っぽ。
 ピンと立つ丸びを帯びた耳。
 尖った鼻先は黒く湿っている。
 そして身体を、顔を、全てを覆うふさふさした体毛。固そうな髭まで生えている。
 見たままで言えば獣。二本足で立つ、獣である。ご丁寧に時代錯誤な着物を来ている。恵は一瞬眩暈を覚えた。
「そんな怒んなってー。うちの長男ご立腹でさー、仕方なくってやつよー」
 火車に答えたのは、笑みを浮かべた獣だった。彼らの身体は遍く陽光に反射し輝いている。
 恵の中に喋ったという衝撃の事実だけが去来した。
「悪く思わないでねー」
 語尾を伸ばす特徴的な話し方で諫める獣だが、火車の瞳は鋭さを増した。続いていかにも不機嫌を体現した獣が、苛々したように口を開く。鼻に皺が寄っている。
「なんで人間が居るんだ!」
「って訳よー」
「んな理由で納得出来るか!」
 火車が鋭い糸切り歯を剥き出して吠えると、二匹の影にいた獣の肩が、びくりと震えた。ついでに恵の肩も震えた。
「あ、あの、僕、」
「治すんじゃねーぞ、鼬(いたち)」
 皆共に同じ姿だが、一番背の低い彼は、ご立腹らしい獣に言われ、口を閉じた。抱えた人の頭程の壺を、ぎゅっと抱き締める。火車が瞳を細めた。
「治せ」
 威嚇するように、低い声が火車の口から漏れ出る。
「やだね。そいつを追い出せ火車」
 ばちばちと、見えない火花が二人の間に散っている。
「治せ」
「いやだ」
「………………」
「………………」
 背の低い獣だけが狼狽え、もう一匹はニヤニヤと笑うだけ。恵はぽかんとそれらを眺め、何が何やら判らない。
 そして彼女は、ふと自分の足に目をやった。
 ひり、ひり、と断続的に小さな痛みはあるものの、浅いのか、血は垂れてきていない。紙で切ってしまったような、真っ直ぐな傷。
 暫くそれを見つめ、火車の後頭部を見つめ、廊下に立つ獣達を見つめる。
 恐らく彼らは三階の住人。つまり人ではない。火車の様子から、今し方出来た傷は、彼らの仕業。
 どうやったのか、それこそ判るものではないが、恵にとってそれだけ判れば十分と言えた。
 改めて火車を見る。先程の険しい表情は、怒り。自分を守るように立ちはだかる背中。逆立った尾が、ゆらりゆらりと揺れている。
「いい加減にしろよ、イタチ」
「んな怒る意味が判んねえな」
「判らなくたっていーんだよ。こいつに手を出す奴は、許さねえ」
「にーちゃーん。猫ったら本気だよー?」
「む………」
 少しの迷いが、長兄とされた獣に生じる。火車の細まった瞳孔は、緩む事無く彼を見据えていた。
 その隙に、つい、と白い手が火車の服の裾を引いた。
「火車」
「心配すんな、恵」
「い、いやそうじゃ」
「お前は俺が守る」
 振り返りもしない火車に、恵は困って眉を下げた。大分男前な台詞だが、使いどころを誤ると、こうも間抜けて聞こえるとは。彼女はそんな言葉が欲しい訳ではない。

 ――取り敢えず、誰なの。
 まずはそれを教えてくれよと、恵は溜め息を吐かずにはいられなかった。



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