弐拾


 首を傾げたまま固まってしまった恵に、そっと近づいたのは火車だ。
 見上げる金の瞳は、不安そうに揺れている。
「………恵、悪かった」
 何度か瞬いた恵は、ゆっくりと彼を見下ろす。その目は、説明を求めていた。
「あー……えっと、俺達みたいなのはさ、普通にその辺に住んでると、色々と厄介なんだよな。その、俺達にとっても、人間にとっても。だからさ、そういうのを引き受ける場所ってのが必要になる。それが偶々、ここ、『泡沫荘』ってわけ」
 恵の目に、此処は何より説明が必要だと判断した火車は、出来るだけ判り易く、尚且つ丁寧に言葉を紡いだ。呆然としていた恵が、内容を咀嚼するようにひとつ、ゆっくりと瞬きする。続いて彼女の口から出たのは、幼子のように拙い、つぶやき。
「さん、かい……?」
「ああ、外からじゃ見えないんだっけ。泡沫荘は、本当は『三階建て』なんだ。そこは俺らのすみ家だから、」
「『三階建て』!?」
 カッと目を見開いた恵に、火車がびくりと小さな身体を揺らした。次に彼女の瞳は、大きさそのままに敬一へと移る。しかし視線が合わさる事はない。
「あ、いや……う、うん」
「だっ、だって、電気のスイッチとか!」
 無かったのに! そう玄関を指差し恵は意気巻いたが、敬一の返事は曖昧で、言葉を濁すだけの彼に、彼女は大いに眉を寄せた。
「上は、ほら、あいつらは、うん、電気とか、ね」
 電気とかなんだ。彼女の頭に浮かんだそれは、口から出る事はない。電気は必要ないってか、灯りがない方が色々都合がいいってか。そんな事を聞かさるなんて、まっぴらごめんだった。
 恵は青ざめながら、天井を見上げた。薄汚れた板張り。過ぎた年月で黒ずんだそれは、古びた天井である以外、特に変わったところはない。
 しかしその先には、この世のものではない何かが、存在しているのである。疑う余地はない。それはもう、恨めしいくらいに。
「あ、あのな恵、此処には、んな危ねえ奴は居ねえから。そういうのは入って来れねえし……なあ?」
 火車からの絶妙な援護を受けて、敬一が大きく頷く。
「約束する、恵ちゃんを危険な目には合わせない。そんなの、僕が許すわけない。火車も居るし」
 漸く恵を見た敬一の足元で、火車がうんうんと同意を示す。恵はそんな彼らにゆっくりと視線を戻すと、返事ともつかない声で、はあ、とだけ言った。
 これを良しと取るか否と取るかで、意味は大きく違ってくる。悪い方に取るような真似を、敬一がわざわざする筈もなかった。
 彼はにこりと笑みを浮かべ。
「いつでも紹介するよ!」
 そう颯爽に言い放った。


――……




 現在時刻は昼過ぎ。敬一の買ってきたファーストフードで朝食、カップラーメンで昼食を済ませた恵は、自室の縁側に居た。
 投げ出した足をぷらぷらと揺らし、麗らかな陽射しの中、虚ろに鮮やかな緑を発する裏庭を眺めている。
 春風は時折、強く彼女に吹き付けて、黒髪を乱す。何度目かのそれに、いい加減乱れ切った髪を、耳に掛けた。それくらいでは到底、間に合わないくらい乱れているが。
「……………汚ない」
 ぽつり呟いた声は、溜め息混じり。最初に見た時と全く同じ感想を脱力したように漏らし、恵は眉頭を押さえた。
 彼女はこの眠たくなるような気候の下、暫く眺めていれば、ちょっとは良い方に変わるかと思ったのだが、何度見ても、何時間見ていようと、それはとても難しいのだと思い知った。
 裏庭を埋め尽くす、青々とした緑は、平たく言うところの、雑草。余す事なく敷かれた、雑草である。又逆に言えば雑草しかない。
 一体どれくらい放置すればこうなるのか、とにかくただの荒れ地だった。敬一が言うには、何処かに池があるらしい。恵から見ても、荒れているとはいえそこそこに広い事は感じられた。ただ葦か何か、背の高い草はその下に何があるかを、見事に隠してしまっている。
 踏み固められた部分は茶色い土が見えているが、景観は最悪に変わりない。荒れた庭の向こうには、雑木林が広がっていた。
「ねえカシャ」
 手から顔を上げた彼女が振り向くと、呼ばれた黒猫は、ぱちりと目を開けた。
 畳の上で気持ち良さそうに寝そべっていた彼は、頭を持ち上げ、尾を一振り。
「なんだ?」
 火車が訊けば、恵はまた庭に目を向けた。
「………いや、何でもない」
 小さな頭が、僅かに傾く。
「なんだよ?」
「んーん……」
 背後で訝しむ火車を余所に、恵は両手を上げ、うーんと身体を伸ばすと、よし、と一言漏らす。
「やりますか!」
「あ?」
 午前中は敬一の部屋の掃除。それだけで半日費やしてしまった。
 恵はすっくと立ち上がり、きょとんと彼女を見上げる火車を跨ぎ越える。玄関で靴を履く彼女を、火車は慌てて追い掛けた。
「何処行くんだ?」
「そーこー」
 恵がドアを開けながら答える。
「倉庫? 何しに?」
 後に続く火車を、呆れた目で見下ろして、恵は階段下の倉庫――電気の制御板がある部屋――へと向かった。
「あったあった」
 あまり出番の無い掃除用具は、此処にしまわれている。バケツとモップ、それから箒を手に、恵が倉庫から出ると、火車が不思議そうにそれらを見つめた。
「そんなん、此処にあったんだな」
 感心したように言われて、恵は苦笑しか出ない。長い間使われていない箒とモップは、それ自体はあまり汚れていないものの、放置されていた為蛛の巣が張っている。恵が初めて見るようなアルミのバケツは、錆びついていて、しかし此方は縁に掛かる雑巾同様、最近使われた形跡があった。湿ってくたりとした雑巾と、バケツの底に僅かに残る水。
 敬一が彼女の為、部屋を掃除した際に使ったらしい。それ以前はいつ使われたのか、定かではない。
 それらを抱え、恵は廊下を進むと、浴場の前、廊下の端に据えられた水場に立った。
 洗面台とも言えぬ、小さな水道と陶器の受け台。錆付いた蛇口を捻れば、見事に茶色い液体が吹き出した。
「うえー……」
 恵は嫌そうに口を曲げながらも、壁に続く水道管へと身を屈める。水漏れはないようだ。
 暫く捻りっぱなしにしていれば、水も元の透明へと戻った。恵は一旦水を止め、蛇口を横向きにし、バケツをあてがい、再度蛇口を捻る。こうしないと水が汲めないのである。
 そうしてある程度水の溜まったバケツを、どんと廊下に下ろす。跳ねた水に、火車が慌てて距離を取った。
 恵は腕まくりをしつつ、今度は睨むように天井を見上げる。生憎と、マスクなんて便利な物はなく、彼女はポケットからハンカチ――昨日敬一の部屋に忘れていった物だ――を取り出すと、おもむろに口元へと巻いた。
「…………やってやろうじゃないの」
 ――戦闘開始、である。


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