拾玖


 不毛な言い合いを暫く眺めていた恵だが、段々それも飽きてきて、天狐の隣へ立った。
 見下ろす白い狐は、彼女をチラとも見ない。立派な尾は、丸々と毛で肥えている。
 恵はふいと天狐からテレビへと視線を移す。
 天狐が割と熱心に見ているのは、朝のニュース番組。桜の花見の特集。
「………しんじゅーって何」
「……………………」
 楽しそうに笑う、赤い顔の酔っ払いが、缶ビールを掲げていた。その映像から、返事のない隣を再び見下ろす。
「………神格化した獣」
「しんかく……神格……、なに、あんた神様なの」
「正しくは神使だ」
「どーりで……」
 ふうん、と恵が鼻を鳴らすと、今まで一切の動きを見せなかった天狐の尾が、揺らめいた。僅かに首を動かし、恵を横目に鋭く見上げる。
「どうりで、なんだ」
「どうりで、偉そうだと」
 ふん、今度は天狐が鼻を鳴らす。小馬鹿にしたようなそれを、恵は此処に来てからの僅かな間に、もう何度も耳にした。
「判ったらもっと敬わぬか、愚か者」
 天狐はテレビに視線を戻した。それを見ていた恵もまた、画面へと顔を向けた。
「神使ってようは天使でしょ? 天使は人間食べないっしょ」
「我は神の眷属であるが、……八百万の神を知らんのか」
「あー………、知らない」
「主は本に無知な愚か者よな」
「いやなんか聞いた事があるような気がしないでもないんだけど」
「正しき言の葉も知らぬとみえる」
「んー……、何か、神様が沢山居るとか、そんなんじゃなかったっけ、それ」
「及第点とはいかぬが、主にしては良い方か」
「偉そうに」
「偉いのだと言っておろう」
 彼女達の後ろでは、最早取っ組み合いとなった一人と一匹の、くだらない争いが尚も繰り広げられている。
 天狐は足元のリモコンを前足で押し、テレビのボリュームを上げた。花見の話題から移って変わり、行列の出来るラーメン屋特集の見出しが、画面に映し出された。
 恵は一軒目のラーメンがリポートされるのを見届けてから、再び息を吸い込む。
「………で、神のお使いさんは、此処で何してるわけ」
 どすんばたんと騒がしい物音と、テレビからの音とで、恵の声も自然と大きくなる。
「主に合わせて述べれば修行中というところか」
「狐が何の修行よ」
「自らが神となる修行だ小娘」
「いった! っもう許さないからな火車!」
「うわあんたが神様とか勘弁だわ」
「はん! ケイチなんかに俺がやられるかよ!」
「その暁は、主には見られぬがな。とうに死んでおる」
「え、何それあと何ね」
「あっつ!? てめっ、あちーだろ何すんだ!」
「……何年かかるの」
「そうさな、あとに」
「火車がちょこまか逃げるからでしょ!」
「……二千年程だ」
「えっ、まじ」
「ケイチがどんくせーんだよ!」
「なにおう!?」
「で……、」
 ――どんがらがっしゃん。
 実際にはそんな音ではないが、何かが割れる音や何か倒れる音など、この喧しさを表現しうるには、至って最適な言葉と言えた。
 恵と天狐は揃って眉根を寄せ。
「「煩い!」」
 見事なハーモニーを奏で、振り返った。
 ケトルを手に、テーブルに片足を乗り上げた敬一と、カーテンにぶら下がる火車が、そのままの体勢でぴたりと口を閉じる。
 部屋には、急に静かになった今では少々耳につく、テレビからの間抜けな音楽だけが響く。否に陽気なその歌は、コマーシャル中が故だった。
 ――あなたの笑顔がみたいからっ、リフォームなーら――
「………………………」
 明るいリズムを刻む歌を背に、しかし恵と天狐の形相は険しいままだった。
 その厳しい視線から目を逸らせぬまま、圧されるように、敬一がそろりと足を下ろす。続いてそっと、ケトルをテーブルに戻し置いた。
 同時に、此方も彼女達を見たまま、全開だった爪を緩やかに引っ込めた火車が、ずるりずるりと滑るようにカーテンから落ちる。足が着けば、ちょこんとそこに座した。
 両者を冷たい目で追っていた恵が、改めて身体ごと彼らに向ける。その様子を見上げた天狐は、うんざりとした顔で、テレビのスイッチを消した。
 恵はまず、敬一を見た。
「…………叔父さん」
 びくり、縮こまらせていた肩を、敬一は揺らす。
 続いて、火車へと顔を巡らせる。火車は彼女の視線だけで、小さく身体を跳ねさせた。寝てしまった三角耳。
 ――これではまるで、自分が虐めているみたいではないか。
 あまりにびくつくそれらに、恵はつい、呼気を漏らす。
「甘やかすなよ。為にならん」
 天狐の目は、相変わらず冷ややかだ。その目で催促するように、二人へと一度視線を投げる。
 足元のそれを眺めてから、恵は再び怯えた顔のふたりを見やった。眉を下げ、苦虫を噛んだような表情を浮かべると、小さく呟く。
「そう、だね……」
 とは言ったものの。
 本当のところ彼女は、もう怒る気が失せてしまっていた。しかしここは心を鬼にして、言ってやらねばならないのかもしれない。
 部屋は酷い惨状で、倒れたティーカップから流れる紅茶は、テーブルから滴り落ち、幾つかある観葉植物は、一番大きな物も含め全て倒れ、チェストの上にあった本やらアルバムやら、あらゆる冊子が床に散乱し、外れた電話機の受話器はぶら下がりゆらゆら揺れていて、電話台にあったメモ用紙とぺん達が、ぶちまけられていた。他にもゴミ箱はひっくり返っているし、壁掛け時計は落ちてガラスを飛び散らせているしで、上げればキリがない。
 見れば恵は大きな脱力感に襲われた。怒る怒らない以前に、最早言葉が見つからない。天狐の言う事は最もで、注意しないと繰り返しになるかもしれないが、こんなのに何を言えと言うのだ。無駄に思える。
 ――いいやしかし言わねば。言わねば何も変わらない。言っても変わらないかもしれないが。
 恵は決意した顔をふたりに向けた。怯えた顔のふたりは、上目に彼女を見つめ続けている。それを見れば、うっと言葉に詰まった。
「……………っ、」
 しかしここで負けてはいけない。挫けそうになる自分を何とか奮い立たせ、恵は拳を握り、息を吸い込んだ。敬一と火車がぎゅっと目を瞑った。
「けっ………――、が、が、無くて、良かったです」
 無理だった。
 瞳を逸らし、苦々しく笑う恵を見て、天狐が少し大袈裟に首を左右に振った。
「でも、あの……、いつも怪我がないとは限らないし、あんまり、家の中では……うん、家の中では、ね……うん」
 これが彼女の精一杯だった。控え目な主張である。
 そこで次に口を開いたのは天狐だった。
「敬一、主にしては常より室が整然としておったようだが、誰の所業か」
 ずっと黙って呆れていた天狐の、援護とも取れる発言に、思わず彼女は目を丸くして彼を見下ろした。天狐は恵を良く思ってない筈だ。と、少なくとも彼女はそう認識していたからだ。
「それ、は……」
 敬一にそれは気にならないようだった。それよりも言われた言葉の内容に、首を竦ませ、上目に恵を見ている。
「考えずともであろう。直ぐにこうなると判っておろう主が、片付け等無駄な事をする筈がない」
 半眼で敬一を見据えていた天狐は、言い終わるや立ち上がり、恵から離れた。美しい四躰が、滑らかにフローリングを移動する。ふわふわと揺れる九本の尾が、敬一の隣を過ぎる。
「煩わせたくなくば、改めねばなるまいな、敬一?」
「………うん。ごめんね恵ちゃん」
「え? あ、いえ、あ、はい」
 天狐に気を取られていた恵は、眉を下げっ放しの敬一に、慌てて頷きを返した。
 天狐はそれを一瞥だけして、扉へ向かう。一瞬だけ尾が騒つくと、ドアはあっさりと彼に口を開けた。
「せっかく片付けてくれたのに……」
「ああ、いや、それはまあ、良いんですけど。でも流石に毎日これじゃあ、私は叔父さんの部屋のお掃除だけしてる訳にも、いかないんで」
「あ、いいんだいいんだ! 此処は僕が自分でやるから!」
 敬一がわたわたと両手を振って示したが、恵は果たして彼に掃除等というものが出来るのか、甚だ疑問であった。
 否、彼自身に掃除が出来ない事は、ないのだろう。ただ天狐はこうなる事を見越しているふうであった。それに、恵は最初の惨状を目にしている。
「叔父さん、あの、こう、いつもカシャと、えー、この、こんな事? をしてるんですか?」
 幼稚な喧嘩、と恵に限らず誰もが判ずるだろうその言葉を、まさか大の大人にそのまま伝える訳にもいかず、しかし他に何の言い様もなく、恵はかなりふわっとした言い方で誤魔化した。すると肩身の狭そうな敬一が、思わずといったように視線を逸らした。
 だが、天狐はもう居ない――恵は気付いていないが――し、火車は火車で、謝るタイミングを完全に逃してしまって、どうにも口を開けないでいる。答えるのは敬一しかいないのである。
「いや、その、毎日って言うか……――」
 チラ、と恵を見上げる。恵が小さく首を傾げた。
 そして意を決したように告げられた言葉は、一息であり、普段の倍以上の早送りでもあった。
「――……毎日と言うか火車だけに限らず大抵の輩は僕の部屋で暴れたり遊んだりするから輩ってのは三階の奴らなんだけど今三階は埋まっててあいつら本当に暇って言うか悪戯の対象が僕しか居ないって言うかだから毎日と言うよりいつも常になんだ!」
「………………………………………………………………………うん?」
 恵には秘境の言葉のようだった。


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