拾捌


 ――火車、

 呼ばれても彼は反応しなかった。正面からの視線が怖くて、顔を上げられずにいた。
 彼は本来、荒々しい気性な筈だった。恐れを知らぬ、気丈夫。彼を知る者はそう言うだろう。その彼は今、すっかりなりを潜め、ソファーの上で縮こまっている。何者も恐れないと言われた彼は、まだ成人すらしていない娘を前に、これでもかと言わんばかりに怯えている。

 ――火車。

もう一度、敬一は諭すように、彼を呼んだ。
 火車は俯いたままだったが、漸く、小さな声でそれに答えた。
「ごめん……隠してた訳じゃ、ないんだ」
 更に俯く。伏せ切った耳が、より伏せられたような錯覚が生まれた。
「なんか、言う機会逃したっつーか。俺、俺、怖がらせたく、なかった、から」
「結果、我より余程効果的に恐れを抱かせたよなあ。あれは絶妙だった」
「ほっ、本当だ! 俺は本当に、怖がらせるつもりなんてなかったんだ!」
 横から茶茶を入れられ、火車は険しい顔を天狐に向けた。すらりとした鼻筋を真っ直ぐ前方に向けたまま、天狐は静かに瞳だけを横にずらす。
「だからなんだ。つもりであってもつもりでなくても、主はそういう者なのだ。何を小僧のような事を抜かしておる」
「っ、……………、」
 返す言葉がなかった。火車は悔しそうに再び俯き、口を閉ざす。
「………一々嫌味だなあ」
 そして代わりに、そこへ口を挟んだのは、恵だった。ふん、と天狐が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「なんでそんな言い方するかな。てかあんた何、なんで割り込んでくんの。今カシャが話してんだから、黙っとけばいーじゃん。好きなの?」
「…………………は?」
 思ってもみない言葉に、澄まし顔の狐は、暫く固まった後、ぽかんと口を開けた。
 気付けば、敬一も火車も天狐を見ていた。
「な、なんだ。見るな。ちっ、違うぞ!? 断じて違う! そんな事あるわけなかろうが!」
「ムキになるのが怪しいね」
 火車がそっと距離を取った。敬一も身を引いた。天狐が慌てれば慌てるだけ、周りは引いていく。
「違うと言うに! こっ、〜〜〜〜、娘! 戯言も程々にしろ! 食らうぞ!」
「そーだね、あんたからかっても大して面白くなかった」
「なんぞ!?」
 ぱくぱくと口を開け閉めする天狐から、恵は火車へと視線を移す。
「でも、天狐の言う事も事実ある。多分私は、どんなふうに判ったとしても、怖かったわ」
 うー、と不満そうに呻いた天狐以外。火車と敬一は、2人揃ってしゅんと肩を落とした。
「でも、今は……キミの言葉を聞けて、良かったと思う」
 そして2人同時に顔を上げた。
「よろしくね、カシャ」
 丸くなった金の瞳に、にっこり笑った恵が写っている。天狐がつまらそうに外方を向いて、けっ、と吐き捨てた。
 火車は僅かに耳を伏せはしたが、それ以上の反応らしい反応を返さなかった。戸惑うように瞳を揺らし、小さく開いた口からは、何の言葉も出て来ない。
 見兼ねた敬一が、代わりに恵に顔を向けた。
「こちらこそ、よろしくね恵ちゃん!」
 敬一は笑顔と共に、右手を差し出す。その手に一度目を落とした恵が、はいと笑顔で応えた。握られる手と手。めでたしめでたし。一件落着。
 それは感慨深く、敬一の胸をじんとさせた。同時に、両の眼もじんと熱さを帯びる。ぐっと曲げた唇の下には、皺が寄った。気付いた恵が、驚いて目を見張った。
 敬一が慌ててごしごしと左腕の袖で目元を拭うのを、恵が僅かに狼狽えながら見つめる。そして不安気な彼女がそっと様子を伺う中、突然勢い良く敬一が顔を上げた。がばりと音が付きそうなそれに、恵の肩がびくっと震えた。
「本当に嬉しいよ! 僕ぁもう駄目かと、本当に、本当にありがとうね!」
 がっちりと掴まれていた恵の手が、上下にぶんぶん振られる。
「あ、はあ、はは……」
 相手の感激具合に、恵は一線引いたところで、一応合わせて笑った。笑うしかなかった。目を僅かに充血させた敬一との温度差は明らかである。
「……俺、俺は、あんたの傍に居てもいいのか?」
 そしてぽろりと零れ出たように、火車が惚けた声を出した。恵はそれにきょとんとした顔を向けた後、表情をふにゃりと崩して息を吸う。
「私、猫好きなんだ」
「っ! 〜〜〜〜〜〜〜」
 殊勝な火車の態度は、彼女の何かを擽ったようだ。元々、火車を飼おうとしていたのもあって、汐らしくされて可愛いと思わない筈も無かった。
 余程嬉しかったのか、火車はうるうると瞳を揺らせ、口を引き結び、鼻をひくつかせる。泣くのを懸命に堪えるそれを見た敬一まで、またもや顎に梅干しを作っていた。天狐だけが冷めた目で、やってられないと言うように首を横に振った。
 一方恵は、二人の随分大袈裟な反応を見比べ、掴まれたまま自分の手を見下ろし、そっと瞳を逸らした。それでも尚向けられる濡れた視線に、あは、は、と一応笑ってみたものの、空々しい。感動屋か。それを言える程空気が読めない訳でもなかった。
 大体、自分は残ると言っただけなのだ。そんな事で一々涙ぐまれるとなれば、ある意味この先不安になる。
 温度差があると人は、相手に不安を抱くらしい。恵は一つ学んだ。
「や、あの、色々と、その、よろしくお願いします」
「恵ちゃああああああ!」
 感極まって、感極まり過ぎて、爆発したらしい。敬一の両手が大きくがばりと広げられ、恵はひいと小さく悲鳴を上げた。
 首を竦ませた彼女は、抗う間もなくその腕(かいな)に包まれる。
「よく決心してくれた! よく決心してくれたね! 僕はこの時をどれ程待ち侘びたか!」
「てめっ、ケイチ! 恵にくっ付くんじゃねえ!」
 親戚に抱き締められても、喜ぶ娘はそうは居ないだろう。例外の密かに憧れている従兄弟だったりする訳でもない。叔父に抱き付かれた恵も、やはり喜んだりはしなかった。身を固くした彼女は、うっわまじで? こいつまじで? ちょ、勘弁しろよ、みたいな顔をしていた。みたいな顔だ。言った訳ではない。目がそういうふうに語っているだけだ。
 代わりに抗議に乗り出したのは火車で、小さな白い歯を見せて、実に猫らしくフー! と鳴いた。
「離れろケイチ!」
「僕は叔父だからくっ付いてもいーんですー」
「何だその屁理屈!」
「屁理屈じゃないですー持論ですー」
「心底うぜええええ!」
 火車は、基本的に言い争い等はしない。平和的に聞こえるだろうが、そうではない。
「いいった!? 火車! 引っ掻いたな!」
 彼は、口よりも、手が出るタイプなのである。否、猫であるから足か。
 タタン、と軽やかにテーブルの上を駆け抜けて、普段は隠れている鋭い爪で、恵を抱く敬一の手を、容赦なくひと掻き。
 反射的に腕を振り上げた敬一により、結果恵は解放された。彼女はそれには少なからずほっとしたものの、ミミズ腫れとなった手の甲を擦り憤慨する敬一と、背骨を丸く盛り上げ毛を逆立てる火車を見やれば、呆れ顔へと変わった。
「君はどーしてそう直ぐ暴力に訴えるの!」
「知らねーよ! ケイチがわりーんだろ!?」
「僕は悪くない!」
「ケイチがわりー!」
「僕は悪くない!」
「ケイチがわりー!」
「僕は………――

 子どもの喧嘩である。
 恵が疲れたように溜め息を吐いたが、それも最もと言うもの。こんな異様な光景が、これから毎日続くのだ。猫と喧嘩する大の大人。既に飽きてテレビを見出した狐。住居人ゼロの廃屋管理人。返した茶封筒とメモをチラリと見て。
「ケイチがわりーケイチがわりーケイチがわりー」
「僕は悪くない僕は悪くない僕は悪くない」
 やっぱり恵は、疲れたように、溜め息を落としたのだった。



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