拾漆


 恵は疲れたように額を押さえると、溜め息を吐いた。ここで暮らすという事は、彼らと暮らす事でもある。それは確かに気が重かった。
 敬一が煎れてくれた緑茶から仄かに湯気が漂っている。彼はお茶を煎れた後、茶封筒とメモを出して寄越した。
 母の連絡先と、生活費。
 テーブルの真ん中に置かれたそれをチラリと見やってから、恵は再び息を吐いた。
 敬一は平然とお茶をすすり、彼女を見ていない。彼はもう、覚悟を決めていた。彼女を引き止める真似は今後しないだろう。
 素っ気なく思える態度の敬一に顔を向けて、恵は漸く口を開いた。

「急に出て来られると怖いんで、止めて貰えません?」

 敬一は、虚を衝かれたような顔をした。何を言われたか理解出来ない、というような目である。
 聞こえなかったのかと思って、恵はもう一度同じ言葉を口にしようとしたが、それより先にすました狐が声を出した。
「それは無理というもの。怖がらせるのが気質ゆえ。そういう性(さが)よ、諦めろ」
 恵が顔を顰める。
「怖がらせるのが習慣なの?」
「そうだ」
 うへえ、と声に出さず口を曲げて、心底嫌そうな顔をした恵は、不意に火車に目を向けた。伺うように上目に彼女を見ていた火車は、慌てて視線を逸らした。
 恵は何を言うでもなく、しげしげと火車を眺め見てから、正面へと顔を戻した。
「でもキミは、そんなふうに見えないけど」
「我を低級と一緒にされては困るな。人間を脅かすのが奴らなら、人間に敬われるのが我よ。娘、遠慮なくこうべを垂れよ」
 得意気に鼻先を反らした天狐に、恵は返事の代わりに冷ややかな視線を送った。完全に馬鹿にした目である。
 そこで呆然と恵を眺めていた敬一が、彼女を下から覗くように身を乗り出した。
「ど、どういうこと? 恵ちゃん、出て、行くんじゃないの?」
 弱ったような、困ったような顔の敬一を見返すと、恵は何故か照れ臭そうに笑った。
 それからテーブルの上の封筒とメモを、そっと敬一の方へと押し返す。
 封筒と恵を交互に見比べる敬一は、未だ戸惑っていた。

「とにかく、やってみます」
 ――管理人

 惚けた敬一へ、そう付け足して、恵はやはり、はにかんで微笑んだ。

「……………馬鹿、じゃないのか」
 驚いたのは、敬一だけではなかった。
 ぽつり、漏らした第一声は、高飛車な狐のものだった。
 恵はむっと口を曲げると、彼を睨んだが、天狐は珍しいものでも見るように彼女を見返すのみで、恵はなんだか怒る気を削がれてしまった。本当に驚いて口にしただけのようだった相手に、文句を言う気にもなれず、しかしじろじろ眺められて、やりにくそうに視線を逸らした。
 見れば敬一も、目を合わせようとしなかった火車も、自分を僅かに開いた双眼で見つめている。
「……そんな、意外でしたかね」
 口を尖らせた恵に、敬一がはっとしたようにブンブンと首を横に振った。だがやはり、口を開いたのは天狐だった。
「愚かとしか言いようがない。あれ程怖い怖いと口にしておいて、何故此処に残ろうと思う。全く解せぬ。言え、何故だ」
 不快そうに天狐に告げられて、恵が眉を寄せるのを見て、敬一が慌てて宥めに入った。
「何怒ってんの天狐、別にいいじゃないか。折角残るって言ってくれてるんだから」
 そう、折角残ると言うのだ。天狐が余計な事を言ってやっぱり止めた、なんて事になるのは勘弁願いたい。
 敬一はこれがぬか喜びになるのを防ぎたかった。だから何故かとても不機嫌な天狐には構わなかったのである。
「だから何故残るなどという答えが出るのだ。答えなど、一つであったろう」
「もーしつこいよ天狐。恵ちゃんがそう決めたんだからそれでいいでしょ」
 ね? と敬一ににっこり微笑みを向けられて、恵が曖昧に頷く。見つめ合う2人から視線を逸らし、天狐は渋々といったように口を閉じた。
 だが気が治まらなかったのだろう、不意に隣の火車を蹴飛ばした。ふぎゃ、と上がった悲鳴に恵と敬一が同時に顔を上げる。
「なに、何すんだ!」
「おお、生きておったか。なに、あまりに静かだからな。死んでおるやもと心配したついでよ」
「ついでに蹴んな!」
「我に心配して貰えて光栄であろ」
「思うか馬鹿やろ!」
「噎び喜ぶが良い」
「聞けよこの自己中神獣!」
 しれとした天狐に、お腹を押さえた火車が吠えるように叫んでいる。ふ、と呆然となった恵の耳に吐息が届く。敬一が笑っていた。
「いかにも、我は神獣。ひれ伏せ骸の運び手よ」
「自己中を省くんじゃねえよ!」
 ぎゃいぎゃい喚く火車と、何処吹く風の天狐と、くつくつと喉を鳴らす敬一と。暫く放心していた恵が、ふと思う。
「全く喧しい事だな」
「誰のせいだよ!」
 ――あれ怖くないな。うん、全く怖くないなこれ。
「あの娘のせいか。猫を被った猫なぞ面白くないぞ火車」
 火車の尾がピン、と伸びた。
 硬直した彼は、先ほどが嘘のように静かである。恵は思う。
 ――怖くないんですけど。吃驚するほど怖くないんですけどいいのかそれで。え、逆に心配なんだけど私大丈夫なんだろうかこの感覚。
「あはは、火車、今更遅いって」
 天狐は厭らしくにやにや笑っている。敬一に朗らかに言われて、ぎぎぎ、錆びたロボットのように、火車は恵にゆっくり顔を向けた。
 それを、眺めながら。
 
――もし自分の感覚がおかしくないのなら、否、麻痺していたのだとしても、私は――

「……………――、にゃあ?」
「えっそこでまた猫出してくんの!?」

 突っ込まずにいられなかった彼女の感覚は、そんなに鈍いものでもない。



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