拾陸


 敬一は、幼い頃から他の人には見えないものを見ては、気味悪がられた。家族は最初、小さい子ども特有のひとり遊びの類いと思っていたが、成長につれ減るでもなく、小学校に上がってから段々と、母親が気にし始めた。それはエスカレートし、最終的にはヒステリックな程執拗に、彼を『治そう』とした。
 悪いものでも憑いたのではないかと、神社や寺等々お祓いに散々連れ回し、精神的なものかと、病院にも何度か連れて行かれた。神社などは良かったが、敬一は病院が苦手で、よく駄々をこねては母親を困らせた。
 とうとう入院までさせようかという頃、漸く見兼ねた父親が間に入りそれは免れたが、敬一はもうその頃には己が人と違うのだという事を実感していた。
 ひとり部屋で話しているところに、誰と話していたのか訊かれても、目の前の存在が、母には見えていない。
 敬一がそこに小さな人が居るんだよと、母に教えたところで、見えない上に、怖がらせるだけ。母だけではない。父にも、3人の兄姉にも、友達にも見えない。
 それを知った敬一は、気を使う必要があった。父親はある程度の理解を示してくれたが、母親の手前、妙な行動を控えるように言われた。
 身近に理解者が居ないのは辛かった。だが敬一にとっては思わぬところで理解者に恵まれる。
 姉である。
 共働きの敬一の家では、彼は一つ上の姉と過ごす時間が多かった。敬一は末っ子の四人兄弟だが、兄二人は歳が離れていたせいもあって、敬一の面倒を見るのは専ら姉の役目だった。
 大雨の降った夜。二人きりで、怖くて、布団に潜り手を握り合って眠った。学校で虐められ、猛烈に怒った姉が仕返しし、結局二人して返り討ちに合った。
 彼女はずっと敬一の奇妙な行動を傍で見てきたし、不思議な体験を共有したこともある。敬一にとって両親よりも身近な家族。それが千草(ちぐさ)、姉である。
 中学に上がって直ぐ、敬一が泥だらけで帰って来た事があった。母親はパートで居らず、千草だけが敬一を迎えた。
 彼女は敬一を風呂場へ押し込んだ後、服も、靴も、廊下に付いた足跡も、汚れた玄関も、全て綺麗に片付けて、それでも敬一を叱る事はなかった。
 お母さんには内緒ね、そう言って、疲れた顔をした敬一に向かって、悪戯っ子のように微笑んでいた。
 彼女のおかげもあって、敬一は小学校以来、母親とギクシャクする事はなかった。敬一自身も自覚してからは行動に気を使ったが、それでも誤魔化しきれない何かが起こっても、すかさず千草がフォローしていた。
 家では千草もあまりおおっぴらには言えないが、前に一度言われた事がある。母親が近所の噂を耳にして、問い詰められた日の夜だ。
 ――敬ちゃんは、きっと他の人より、ちょっと目が良いんだよ。
 高校受験を控えた中学三年の頃だった。勉強を見てくれたのは、勿論千草だった。
 お母さんには内緒ね。あのちょっぴり意地悪な微笑みで、勉強の気分転換と称して敬一を近所のファミレスに連れ出してくれた。
 そして晴れて高校生となった敬一は、彼の今後を左右する出会いを果たす。
 彼の唯一の友人。
 この『泡沫荘』の持ち主。
 彼に出会って彼は、初めて自身の力がなんたるかを知るのである。その使い方も。その使い道も。
 そして敬一は、本人も驚く程に『そっち』の才能に恵まれていた。一気に開花した才能で、まず彼はとんでもないモノと繋がった。 必要としたのは、高位のモノノケであったはあったのだが、それが予想より遥かに大物だった。
 それで持ち主に頼まれ、彼は高校生と同時に『泡沫荘』大家となる。卒業して直ぐ此処に移り、以来そのまま、此処に居続けているワケである。
 千草の結婚を聞いたのは、『泡沫荘』に居を移して三年目の事だった。恵が生まれたのは、その五年後だ。
 敬一は実家と疎遠な分、千草とよく連絡を取り合った。子どもが産まれてからは尚更頻繁となり、千草もそれを喜んだ。
 しかしとある事情により、敬一は千草と距離を置かなくてはならなくなった。
 千草も、恵に対する敬一の可愛がりようを知っていたから、心苦しくはあったが、彼女は母親として、恵を守らなければならなかった。
 しかし敬一は、千草に言われずとも、事実を知った時点で離れようと決めていただろう。彼にとって千草は特別で、彼女の子もまた、特別だったのだから。
 千草と敬一は、二つ約束をした。
 一つは、敬一が恵に今後近付くのを禁止する事。
 そしてもう一つは、恵が自分で判断出来る歳になったら、彼女の意思で、選ばせる事。

 敬一にとって久しぶりの連絡は、敬一から恵へのコンタクトとしては、最後のものだったのだ。
 恵が会わないと決めたなら、敬一は一生、彼女に会うつもりはなかった。
 会ってみても話次第では、やはり最後となるだろうとも思っていた。
 けれど彼は、思い出の中の彼女をどうしても忘れられなかった。泣きながら家に飛び込んで来て、猫さんが、猫さんが、としゃくり上げながら千草の手をぐいぐいと引っ張る恵を、今でも鮮明に思い出せる。
 優しい子だった。あの優しさが、今も続いているような気がして、つい彼女なら、と期待した。
 そうした甘えが、昔の幻想が、今の彼女を苦しめている。
 昔、垣根の上からぬっと一つ目の何かが顔を出した時、わあっと声を上げた。怖いと、思った筈だ。今でも驚かされる事は多い。怖くないだけで。
 その感覚を忘れていた。
 怖いと、思う筈だ。怖い筈だ。どうして恵なら、なんて思ったりしたのか。
 ヤカンからシュウシュウと湯気が立っている。
 台所に立ったまま、敬一はポケットに手を突っ込んだ。よれた四つ折りの白い紙を出して開く。

 千草 ×××−×××−……

 恵が着く頃、連絡の取れる連絡先がそこにはあった。敬一は恵が家に戻る事になった時の為、両親が戻るまでの生活費もきちんと預かっている。
 必要になるであろうそのメモを、再びポケットにしまってから、ヤカンを手に、敬一は居間へと戻った。気分は沈んでいたが、それをおくびにも出さぬ笑顔で。

「お湯沸いたよー」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「あの、お湯………」

 居間では、敬一が台所へ入る前と一ミリも変わらぬ体勢で、一人と二匹がテーブルを囲んでいた。
 ツンと鼻先を上げたまま恵を見下す天弧と、それを不機嫌極まりないしかめっ面で睨む恵と、天弧の隣で俯いたまま微動だにしない火車と。
 重苦しい空気に、敬一の笑顔もぎこちなくなったが、それでも何とか明るい声を出す。
「お茶煎れるね」
「お構い無く」
「玉露以外は飲まんぞ敬一」
 素早く返した声は同時に重なり、長かった天弧の声だけが後に残った。偉そうなその態度に、はあ? と恵が顔を顰める。
「お茶なんかどうでもいいでしょーがあんた何なの何の生物なの説明しなさいよ」
「我は我だ。それ以下でもそれ以上でもない」
「狐以下でも狐以上でもない狐は喋りません」
「我はただの狐でないわ阿呆」
「だからなんだっつーの!」
 恵の荒げた声に、火車がびくりと身体を揺らす。慌てて敬一が間に入った。
「やややだからさ、だからね? 妖怪で、」
「妖怪ってなに! 二十一世紀の今の世で妖怪って!」
「おっ、落ち着いて恵ちゃん」
「河童って聞いた時には驚愕でしたよ! 河童って!」
「あれは根暗故会うこともなかろ」
「根暗な河童って! えっ根暗な河童ってなに!?」
「いやだからね、」
「わらしは気分屋故その内ひょっこり、」
「そのひょっこりが一番嫌だっつってんの! あとわらしってなに!」
「わらしはわらしよ。子どものなりはしとるが」
「天弧ちょっと黙ってて!」
 テーブルの上にどんと置かれたヤカンの口から、湯が飛び出た。珍しく怒った顔をした敬一に、全員がびくりと震え、そして口を閉じた。静かになったのを見計らって、敬一は恵に視線を定める。
「恵ちゃんあのね、僕は引き寄せ体質なんだ」
 敬一は至って素面だ。よく理解出来ず、恵は目を泳がせる。
「見える事は、それを呼ぶ事でもあるんだ。小さい頃は本当に嫌だったよ。でも今は、それを受け入れてる。此処は『境』が曖昧だから、普通の人にも、恵ちゃんにも見えるんだ。外に出れば、相手が見せようとしない限り見えない」
 見えない、と言われて、恵は目の前の二匹に視線をやった。普段見えないものを見る事が出来る場所。此処を出れば、おかしなものは一切見えない。おかしな事は起こらない。怖い思いは二度としないで済む。
 ――出て行くか。
 それを己に問うて、否何かが違うと感じ、再度問い直す。
 ――出て行って……、出て行ったとして、私はこれを一切忘れて過ごしていけるだろうか。果たしてなかった事に出来るだろうか。
「僕はね、見える事で寄せてしまうけれど、此処に居れば、余計なものを寄せずに済むんだ。この場所の『境』が曖昧なのは、彼らを寄せるのではなく、彼らを『寄せない為』に、そうなんだ」
 ――無理だろうな。
 何処か諦めたように悟って恵は、敬一を見返した。
「寄せないのに、『居る』って矛盾してないですか」
「だから、余計なものを、だよ恵ちゃん」
 真剣だった敬一の顔に、小さな笑みが浮かぶ。
「こいつらは余計じゃないと」
「こいつらとはなんだ!」
「天弧」
 牙を見せた天弧を、敬一は静かに制すと、まだ納得していないような顔の恵に柔らかい微笑を返す。
 そして、うん、と頷いた。

「昔は嫌だった。でも僕は、沢山見てきたんだ。沢山出会ってきたんだ。振り返ったら、それは『出会い』だったんだ」

 まるでその『出会い』が、大切な宝物であるかのように、敬一の眼差しは優しく暖かかった。



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