拾肆


 廊下に出れば、埃っぽさが鼻につく。実際床に降り積もった白い埃の上には、靴跡が二種類、大きいものと小さいものが安易に見て取れる程残っており、恵はうえと顔を顰めた。
 ドアの前にある窓は、汚れで白く曇っている。窓枠にはこれまた大層な量の埃が積もり、長年開けられていないであろう事が伺えた。
 縦にスライドさせるタイプの窓で、鍵はない。防犯はなっていないが、こんなぼろ屋では空き巣も入らないだろう。顔は顰めたままだったが、恵は思い切って窓に手を掛けた。が、しかし簡単には開かなかった。
 傷んで歪んでしまったのか、びくともしない窓に、こんにゃろう、頭で呟いて、恵は腕を捲る。
「ふっ……!」
 財布とシャツを脇に挟み、足を踏ん張り、両手で一気に力をかけてやっと、僅かな隙間が出来た。だがどう頑張ってもそれ以上、彼女の力ではひらかない。
 仕方ないと諦め、手をパンパンと払う。汚れで何も写し込まないガラスを改めて見て、ふと違和感が頭を擡げた。目を細める。
「あ、れ………?」
 それは直ぐに違うものへと変わった。変わった瞬間、ぞわりと背筋を悪寒が走る。

 ――私は、昨夜、窓に写る自分を、見た。

 一体どういう事なのか、それが何を示すのか、思っても分からず、また考える余裕もないまま、息を詰める。埃が光の中で踊っていた。
 ――なんで、え、待ってそれ、なんかすごく、こ、怖くないか?
 そうパニックに陥りかけている彼女は動けない。
 その強張った肩を。
 ――ぽん
 と、誰かが叩いた。

「っんにゃあああ!」

 反射的な行為だった。
 タイミングがタイミングだ。驚きのあまり何者かの手を大きな動作で払い除けた。叫び声は彼女が自分でも今まで聞いたこともないような奇声だった。咄嗟に瞑った目は固く、身を縮こまらせている。
 しかしそこで何者かの声が漏れた。
「え………恵、ちゃん?」
 するりと耳に馴染むような、柔らかい低音。戸惑いがちなその声を拾うや否や、ぱちり、恵の瞳が開く。次いで勢い良く息を吸い込みながら、泣きそうな顔をがばりと上げた。

「あ、と……大丈夫?」

 隣で戸惑いながら目を瞬かせていたのは、敬一だった。

「叔父、さん………」
 恵は呟くように溢して、深い溜め息と共に肩をへなりと脱力させる。敬一が苦笑した。
「なんか、驚かせちゃったみたいだね」
「ああ、まあ……あ、いえ、すいません、考え事してたもんで」
 疲れたような顔をしていた恵だったが、気を取り直したのか、最後には敬一へ苦笑を向けた。敬一はきょとんとしながらも、伺うように首を傾ける。
「何か、心配事?」
「いえ大した事じゃ……あ、そうだ」
 恵は引き続き苦笑して手を小さく振って誤魔化すと、自身の脇に挟まれた服の事を思い出した。 えらく遠慮がちにそれを差し出す。目は合わせられなかった。
「あの、これ………」
 ああ、と服を見止めた敬一が漏らし、手を伸ばす。と、恵がガバリと頭を下げた。
「昨日はご迷惑かけて、すいませんでした!」
 突然移動した彼女の頭を見下ろしながら、ぱちりと敬一が瞬く。そして伸ばしかけだった手を、慌ててヒラヒラさせた。
「や、大丈夫! 大丈夫だよ、そんな気にしないで」
「いやでも、大変だったろうと思うし」
「いや僕はいいんだよ恵ちゃんこそ体調は」
「部屋に運ぶだけでも絶対大変だったろうし」
「何処か痛くない? 気分はどう?」
「て言うか本当にお恥ずかしい限りで」
「もし具合悪くなったりしたら遠慮なく」
「すみません本当にすみません」

 ――これは一体何なんだろう。

 階段前で、ぽつんとそこに座しながら、彼は首を傾げた。
 階段を降りてみれば、訪ねようと思っていた相手は自室の扉を開けっ放しで、廊下で上半身を忙しなく揺らしている。向かいに立つのは、自分の何となく気に入らない存在で、此方は腰を折ったまま、そして2人揃って何やらワーワーと言い合っている。
 暫く眺めていたが、よく解らない。
「人間とは……さも不思議な生き物よの」
 呟いて、彼は飽きたとばかりに踵を返し、敬一の部屋へと入っていった。

「重かったでしょうし」
「寒くなかった?」
「いい歳こいてほんとにもう……私ってば……」
「あっ、水、水置いておいたんだけど気が付いたかな?」
「ああ!」
 終わりがないかに見えた2人のおかしな気の揉み合いは、しかし恵のはっとするような叫びによって終幕した。
 びくりと揺れた敬一が、何事かと彼女を見つめる中、2人の隣でカリカリと壁を引っ掻く音が漂う。ニャーニャーと必死に鳴き続ける声も。
「そうだ猫!」
 恵はそれを聞き付けたのだ。猫、と聞いて、ドアをチラリと見た敬一が、一瞬表情を固くさせた。だがすぐに微笑を浮かべ、黒猫? と彼女に返す。
 恵は首を振って肯定すると、ドアに向かった。
「此処の飼い猫なんですか?」
 鍵を開け、扉を開ける。と、そこに居た猫を恵は拾い上げた。大人しく抱かれている黒猫を見下ろしながら、振り向いて彼女は問う。
「うーん、僕のではないけど、此処に住んでるって言えば確かにそうだね」
「野良なんですか?」
 恵が顔を上げる。敬一は何故か困り顔で、答えを迷っているようだった。
「叔父さんが餌あげてるんじゃないんですか?」
「餌はー……勝手に食べたりしてる、みたい。たまに食べ物無くなってるから、多分」
「なんですかそれ?」
 恵はくすりと笑みを漏らした。まさか猫が勝手に戸棚やら冷蔵庫を開けて食べる訳もない。
「叔父さんの食べ残しを片付ける係なんですか?」
 想像出来ると言ったらそれ位で、大方散らかった部屋の残飯を猫が食べているのだと恵は思った。あの散らかりようだ。野良猫の一匹もそりゃあ呼び込むだろう。
 しかし敬一は首を横に振った。恵の手元に手を伸ばし、小さな頭を撫でる。
「こいつグルメなんだよ。食べ残しなんてやったら顔中引っ掻かれる」
 恵は目を細めて、小さく首を傾げた。我が叔父の言葉が、いまいち理解出来ない。全ての矛盾を生んでいるのは、叔父がこの猫の飼い主ではないと初めにはっきり断った事にある。野良だが此処に住み付いており、しかし特に餌付けもしておらず、けれど猫の食事の好みまで知っている。要領を得ようとしても、これでは何が何やら。
 考え込む恵の顔を金の瞳が見上げた。
「ニャー」
「ん?」
 可愛い声に恵の意識が戻される。微笑んで頭を撫でる彼女の手に、猫の喉がぐるると鳴った。
「……火車、と言うんだ」
「カシャ?」
 様子を眺めていた敬一に不意に言われて、恵は顔を上げた。何の事かときょとんとした彼女に、敬一がにこりと笑んだ。
「名前」
「この子の?」
「そう」
 恵に笑顔が生まれる。
「叔父さんが付けたんですか?」
 敬一はその笑顔に、応えられなかった。否定とも肯定とも取れる曖昧な首の傾け方で、口端はぎこちなく釣り上がっている。しかしあー……、と漏らした声が後を続ける前に、恵が猫に視線を戻した。
「お前カシャって言うのかー」
「ニャー」
「うんうん、いいお返事だねー。気に入ってるの?」
「ニャウ」
 くり、と火車が首を傾げる。不思議そうに見上げる金の瞳に、恵が思い切り頬を緩ませた。
「可愛いー………叔父さん」
 つと恵が敬一を上目に見やった。敬一は小さく首を擡げる。
「この子、私飼ってもいいですか?」
「……………………」
 敬一は直ぐに返事が出来なかった。表情を固まらせたまま、瞳だけがゆっくり、火車へと動かされる。
 これが『普通』の野良猫なら、可愛い姪の頼みだ、にべもなく許可したに違いない。此処がペット禁止だという事もない。
 しかしそれは『普通』ならばの話だ。
「……………………」
「……………や、あのっ……えと」
 動かない敬一と、火車を戸惑うように見比べていた恵が、何かを察したように声を上げた。
「何となく、その、何となく言ってみただけで、よく考えたらまだ引っ越したばかりだし、自分の事もちゃんとしてないのに、生き物なんて飼えない、うん、飼えないですよね」
「恵ちゃん……」
 渇き気味の笑いを、恵は何とか漏らした。敬一は気を回した彼女に、是と言ってあげられない事に胸を痛めた。本当なら、快く承諾してやりたい。迷い、葛藤した挙げ句、敬一は呟いた。
「………本当は、ゆっくり教えていきたかったんだ」
「え?」

 『普通』じゃないなら。
 『普通』じゃないから。
 それは理解出来なくて当たり前の事だった。時間を掛けたところで、結果は変わらない事があるのも、承知していた。
 それでも敬一は、願っていたのだ。彼女が受け入れてくれるのを。

「でも天弧は勝手に出て来ちゃうし」

 危険は徹底して己が引き受けるから、ただ、解って欲しいと。

「火車はストーカーだし」
「シャー!」
「わっ!」

 敬一の言葉に反抗するように、突然手元の火車が牙を剥いた。恵は敬一の何故か悲しそうな表情に目を奪われていたから、これに肩を跳ねさせ驚いた。
 なんだどうしたと火車を宥めようとする彼女の前で、敬一は顔を顰める。
「だって本当だろ? 僕が知らないと思ったわけ?」
「フー……!」
「え、ちょ、」
「僕は河童に聞いて知っているんだからね。お前恵ちゃんの入学式卒業式ならず文化祭や体育祭とかイベント1つ残らず見に行ってたんだってなちきしょう!」
「ええっ!? ちき、ええっ!?」
 ずいっと火車と顔を突き合わせた敬一に、相変わらず火車は毛を逆立てて唸っている。恵だけが突然の展開に付いていけず、一人と一匹を、どうしたらいいか分からずおろおろして見下ろす。
「僕があんだけ我慢したのに! お前はなんて羨ましいことを!」
「えっ何の話!?」
「シャー!」
「ストーカー!」
「シャー!」
「ストーカー!」
「ちょっと何これ……!?」
 猫と喧嘩する自分の叔父。狐と喧嘩した自分がとやかく言えたものでもなさそうだが、繰り広げられる映像はどう見ても滑稽だった。
「悔しかったら言い返してみろストーカーストーカーストー、」
「っの! てめいい加減にしろくそ親父!!」
 牙を剥き出し、それは今までの威嚇の声と同じように小さな口から飛び出した。
 視線を何処にやったら良いかと、叔父と火車をうろうろしていた恵の瞳が見開かれる。口は半開きのまま、眼球だけが恐々と、手元を見下ろす。
 固まった恵と同じく、尻尾と耳をピンと立てた火車が、ぬいぐるみの如く硬直していた。
「………………………」
「………………………」
「………………………」
 息を止めて火車を見下ろす恵。
 息を止めて空を見つめる火車。
 何故か遣り遂げた感の残る顔で腰を戻した敬一。

「けーいちー! 稲荷がないぞー!」

 敬一の部屋から、何時だってマイペースな誰かの声が響いた。



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