拾参


 火車――

 火車〔カシャ〕
 仏教用語。生前悪事を働いた亡者を乗せて運ぶという、火の燃えている車。また獄卒が呵責に用いるという火の車。

 火車・化車〔カシャ〕
 妖怪。葬儀中や墓場から亡骸を奪う妖怪。全国に様々な事例を残す。正体は猫の妖怪とされることが多く、年を過分に重ねた猫がこの妖怪に変化するとも言われる。※妖怪図巻より
















 いくつかの夢を巡り、そのどれもを記憶に留めずに、恵は朝を迎えた。彼女を目覚めへと誘ったのは、寒さだった。
 初春はまだ浅く、煖を求めるように、もぞり、と布団に潜るように動く。するとまず、肩口だけが妙に温かい事に気が付いた。寝呆け眼で、頬に感じる柔らかい毛並みを見れば、それが黒い事だけを確認した。
 何だろう、思って、不意に鼻がムズムズと疼く。
「は、……っくしゅ!」
 嚔の反動で身体が揺れる。と、肩の温もりがするりと彼女の首元を撫でた。
「うえ、さむ………あれ」
 寒さに顔を顰めながら僅かに身を起こした彼女に、漸くその姿が写った。布団にちょこんと丸まる黒猫は、じっと彼女を見つめている。
「何処から………、うおお、寒い」
 恵は不思議そうに呟いたが、ぶるりと震え寒さを思い出した。首を竦めた彼女は、ふとそこが自分の部屋でない事に気付く。ぼんやりする頭で暫く考えて、あ、と思い出す。そうだ、此処は家じゃない、叔父の所に来たんだった。そしてそれに至った時、自身に違和感を覚えた。
 ゆっくりと視線をずらす。剥き出しの肩が見えた。すり、と両足を擦り合わせる。肌同士に伝わる感覚は直だった。
 そろり、恐々と、布団の中の自分の手を動かして、布団と自分の間に隙間を作る。見た瞬間、急いで布団を引っ張り戻した。
「な、なんで……?」
「ニャー」
 愕然と呟いて、ずず、と身体をずらし布団に潜る。返事のように猫が鳴いたが、恵はそれを気にする余裕がなかった。口元まで隠してから、険しい顔つきで視線を彷徨わせ、昨夜の記憶を辿る。
「昨日、昨日は、」
 そして思い出せば思い出すだけ、益々顔は険しさを増した。奇妙な狐に会った。夢ではない事は、自分が此処に居ることが証明していた。
 ――いや待てよ、首を傾げる。狐の部分だけは夢って事はないだろうか。ピザを食べ、真っ暗な廊下に出た、時点で私は恐怖のあまり失神したのかもしれない。という現実逃避をしてから、彼女は昨夜お風呂に入った事を思い出した。
 夢だけど、その夢の最後は、自分が狐とお湯を掛け合っていたところで途切れている。つまり、何故裸なのか、辿り着いた答えは、せっかくした現実逃避を壊すものだった。一気に悲壮に満ちた顔を浮かべた彼女は、わあっと顔を両手で覆った。猫がびくりと震えた。
「まじでか………!」
 ぴくりぴくりと耳を動かし様子を見ている猫の隣で、ううー、と呻いて、恵は完全に布団に頭まで埋めてしまった。猫は立ち上がり、彼女の頭の上をうろうろし始める。
「ニャー」
 何かを呟いているようだが、布団の中でくぐもるそれは本人にしか聞き取れない。引き続きうろうろする猫にも。だがその時間は長くは続かなかった。
 突然うつ伏せた恵は、布団に包まり、芋虫よろしくずりずりと移動を始めた。目を丸くした猫がばっと飛び退いて耳を伏せる。
 彼女は部屋の隅まで移動すると、鞄から服を出した。布団の中に引き込んで、不意に朝の光が燦々と射す窓を見上げ、暫く固まった、かと思えば突然立ち上がる。猫がびくっと震えた後、慌ててくるりと背中を向けた。
 猫には衣擦れの音しか聞こえなかったが、恵は恐ろしい早さで服を着ると、駆け足気味にシンクに向かった。捻った蛇口から、勢いよく水が飛び出す。
 その音に猫が顔を向けた時、恵はシンクに手を付き、水を頭から被ったところだった。
「っ!?」
「っは! あー、冷たい!」
 頭を上げた彼女が、天井を仰いで言って放つ。髪からはぽたぽたと滴が垂れ、床に水玉を作った。
 それからハアッと息を吐き出すと、首を回して解す。コキリ、コキリ、と何度か鳴った後でもう一度息を吐いて、ゆっくり頭を戻した。最後はカクンと電池の切れたように項垂れて、流れ出ている水に気が付くと、キュ、と蛇口を閉めた。
 と、丁度その時、足元からニャーと声が上がる。
 目を丸くして一部始終を見ていた猫は、小さな足音を立てながら彼女の背後に寄って来ていた。振り返った彼女の足元に擦り寄り、再び鳴いた。
「キミは、どこから入って来たのかなー?」
 甘えるような仕草に眉を下げ、恵はしゃがみ込むと小さな頭を撫でた。
「お腹空いたの?」
 恵の手に自ら擦り寄る猫に微笑んで、彼女は立ち上がった。
「何か買ってきてあげる。うちは引っ越してきたばっかりでねー、なーんもないのよー」
 のんびり猫に語り掛けながら、再び鞄に近付き、財布を取り出す。彼女が移動すると猫もついて歩いた。
 そしてそこでふと、薄手のシャツが一枚、床にくたりと無造作に捨て置かれているのに気が付いた。
 見覚えのない服に、少し首を傾げて、財布を膝に、シャツを手に取り広げてみる。とても薄い、ピンクのシャツ。よく見れば裏地の縁に、桜模様の布地が縫い付けられていた。見えないおしゃれ……、と誰にでもなく呟いた恵は、うんざりしたようにふらりと視線を逸らした。
「みっともない……」
 どうみても、自分は風呂でぶっ倒れたのだろう。意識がないのだから、当然、誰かが運んでくれたのだ。このシャツは、昨夜叔父が着ていた物だと思う。なら、やはり叔父が運んでくれたと考えるのが妥当。狐に人間が運べるとは思えない。
 かなり自己嫌悪するが、逃げていても仕方ない。何だか直ぐに出て行ける雰囲気ではなくなってしまったし、生活事情として両親が戻るまでは厄介になった方が懸命だ。それならば、早々に彼に会って、彼に謝罪とお礼を述べるのが先決。先延ばしにして良かった試しがない。
 そこまで考えてから、彼女はシャツと財布を手に、立ち上がって踵を返した。
「ニャー」
「ちゃんとキミのご飯も買ってくるよ」
 玄関まで付いてきた猫に振り返って、待っててね、と小さく微笑むと、恵は部屋を出た。

 ぱたん、と閉まったドアの元、ちょこんと座した小さな黒猫の尾っぽが、ゆらゆら揺れる。尾は、1本。
 遠ざかる軽い足音を聞きながら、確かにその時、猫は溜め息を吐いた。まるで『ひと』のように。

 ふう、と一息、吐いたのだ。

[ 13/24 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -