拾弐


「………何を猫の真似事なんぞしている。我をおちょくっているのか」


 眉を寄せ、威圧的に告げた天狐に、黒猫は尾を一振りしてみせる。注視すべきはその尾が、2本あることだった。
 だが天狐は動じず、何も答えない黒猫から視線を逸らすと、溜め息を吐いた。
 ギシギシと板張りの床を踏み鳴らし、恵の部屋へと入って行く。廊下には、水を滴らせる彼の足跡がくっきりと残っていた。
 天狐が部屋に入ると、続くように黒猫も部屋へと足を踏み入れる。
 天狐が存外丁寧に、恵を布団へ降ろすと、黒猫は彼女の傍らに腰を降ろした。
「………………………」
 寝顔をじっと見つめる黒猫を、また天狐も見つめる。因みに、天狐は真っ裸であるが、腰に手を当て、清々しいまでに堂々と立っていた。恵が見たなら、絶叫しただろう。
 彼が何かを言おうと口を開いた時、慌ただしく敬一が部屋に入ってきた。天狐と黒猫が同時に顔を向ける。
「み、水、水を!」
「落ち着け敬一。のぼせただけだ」
 グラスに入った透明の液体を、撒き散らしながら部屋へ上がり込んだ敬一に、呆れたように告げて、天狐は首を回した。コキ、と小さく音が鳴る。
「のぼせたって、のぼせて気を失った人なんて僕見たことないよ! ど、どうしたらいいの?! これ、飲ませたらいいの?!」
「意識のない人間に水を飲ませるのはそうそう容易くないと思うがな。置いておけ、目が覚めれば飲むだろう」
 どうでもよさそうな天狐の言葉に、敬一はふんふん、と何度も頷くと、恵の隣に水を置く。心配そうに彼女の顔を覗き込み、それからはっとし、キョロキョロと辺りを見回し、羽織っていた淡い桃色のシャツをおもむろに脱ぎ、そしてそれを彼女に掛けた。
「……忙しいことよ」
 天狐の呆れた目線も気にせず、ようやく息を吐いた敬一は、穏やかな寝息を漏らす恵を見つめる。
 濡れて顔に張り付いたままの黒髪をそっと指で払い除ければ、僅かに上気した頬が見えた。
「やっぱり、無理なのかな……」
 切なく呟いた敬一を、天狐は横目に見つめる。揺れる瞳に暫く彼女を写して、ふらり、と顔を上げた。
 そして、僅かに肩を揺らす。
「わっ! ………、火車、いつから此処に」
「最初から居たわ戯け」
 黒猫の代わりに、吐き捨てるように言った天狐は、玄関に居た。敬一が自分を見るや、ふん、と鳴いて、部屋を出ていく。
 それを無言で見送ってから、敬一は再び黒猫――『火車』へ顔を向けた。

「キミには、後で紹介しようと思ってたんだ。彼女、覚えてる……?」
「………………………」
 スッ、と細められた金の瞳が、恵を捉える。何を考えているのか読めない火車を、敬一は暫く眺めていたが、やがて言葉を吐き出す為の息を吸い込んだ。
「キミの命の恩人だよ。大きくなったでしょう」
 火車は動かない。だが一瞬、瞳が揺れたのを、敬一は見逃さなかった。
「今夜は、キミに任せようか。天狐は、ああ見えて疲れているみたいだから」
 にこりと微笑み、首を僅かばかり傾けた敬一に、火車はゆっくり頷いた。
 その様子に満足して、敬一は彼女の部屋を後にした。彼は彼で、これからやらなければならない事がある。
 部屋に残された火車と恵。敬一が居なくなった途端、火車は彼女の顔の隣へ移動した。
 ごろごろ、と喉を鳴らして、彼女の頬へ擦り寄る。
 そのまま、寄り添うように丸くなった火車は、瞳を閉じた。彼女の寝息を聞きながら。



 ひんやりとした廊下に佇む敬一は、静かに視線を巡らせて、天井のある一点で止めた。
 小さく眉を寄せ、目を細める。
「…………悪戯したら、お仕置きだよ」
 彼が見やる先に、足跡があった。どうやって付けたのか、小さな素足の跡。子どものものだ。
 呟いて、何が変わった訳でもない。だが敬一は小さく笑んで、視線を外した。
 んー、と片腕で片腕を掴んで伸びをし、首を鳴らしてから、さて、と歩きだす。
 それはごくごく細やかな変化で、気付く者といったら稀であろう。
 敬一は気付いていた。
 恵と夕飯を取り終えたあたりから、建物全体の空気が淀んでいた。泡沫荘の中だけが、外界から切り離されたように、そこだけ時の流れを留めるように、空気が止まっていた。
 夜の泡沫荘は、特別。
 何が特別なのかを、今夜、彼女が知ることはないだろう。

「今夜くらいは、静かにして欲しいんだどなあ」

 自室の扉を開けた敬一が、玄関を振り返る。
 その時、チカチカ、と蛍光灯が瞬いて、敬一は苦笑を漏らした。それからドアを潜る。靴を脱いで、自室に上がる。ドアは開いたまま。
 そこをするりと通り抜けるのは、風だった。
「散らかさないでね。掃除してくれたんだ」
 誰も居ない部屋で、ひとり告げた敬一が、台所へ消える。
 誰も居ない筈の部屋で、テーブルの上の空箱が、ズリズリと動いた。蓋が開く。半分ほど残ったピザが顔を出した。
 そこへ、台所から缶コーヒーを手にした敬一は、戻って来るなり呆れたように眉を下げる。
「もー……散らかしちゃ駄目だって言ったのに」
 少し欠けたピザが、床に散乱していた。敬一が拾い上げる。
「ん? ああ、恵ちゃんのだよ。後で返しておかなくちゃね」
 ピザを箱に戻しながら、ふと敬一の目に付いたのは、テーブルの上の和柄のハンカチ。
 ひとり、まるで誰かに語り掛けるような敬一は、奇妙ではあるが、これが泡沫荘では日常だ。
 彼が親戚のみならず、世間から遠退くのも頷ける。彼の友人は少ない。居ないと言ってもいい。ひとりを除いては。
 本当の彼を知る友人がたった一人居るのだが、その話は今は置いておこう。因みに、ここで言う友人とは、人間の、という意味だ。
「まあ、此処に居る分はまだいいか。でも恵ちゃんの部屋には行っちゃ駄目だからね?」
 箱の蓋を閉めた敬一が顔を上げる。
「行ったところで、火車に怒られるだけだしさ」
 敬一が火車、と名前を出したところで、部屋の隅の観葉植物がバサバサッと葉を揺らした。窓は開いていない。
「ふふ、分かったら今夜は悪さしないことだ。今夜に限らず、火車は恵ちゃんに付いていそうだけれど」
 悪戯っぽく笑う敬一は、ソファーに座り、缶コーヒーの蓋を開けた。
 彼の夜は長い。泡沫荘の夜は、まだ始まったばかり。



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