拾壱

 ――キャアッ!



 と、敬一が引き戸を開けたその時、悲鳴が響いた。

 その声にさあ、と顔を青くして、敬一は続いて壊さんばかりの勢いで浴室の引き戸を開け放つ。
「恵ちゃん!」
「うぎゃあ!?」
 突然バシィンと音を立てて開いた引き戸に驚いた恵が、再び悲鳴を上げる。バシャリと湯がさざめいた。
「なっ、な、な、」
「恵ちゃ、良かった、無事……」
 湯気の立ち込める浴室には、湯船で唖然と口を開け閉めする恵の姿だけ。それにほっと息を吐いた敬一が、僅かに口角を上げた時。
「いっ、いやああああ!」
 衝撃やら羞恥心やら混乱やらがない交ぜになった恵が、湯船に浮いていたタオルを、敬一へと投げ付けた。
「うぶ!」
 ビタン、と顔にタオルを張り付けた敬一に、息巻く恵の怒声が飛ぶ。
「出てってください!」
「うー、いち、あっ、ごめ、」
「早く! 出て!」
「ごめん! いっ、今、」
 慌てて浴室から出た敬一が、引き戸の向こうで再度謝罪を繰り返した。
「――ごめんね!」
 肩を抱いた恵の心臓はドキドキと煩く鳴っている。鼻息荒く引き戸を睨み付けていたが、磨り硝子の向こうで、敬一の影が何度も頭を下げるのを見ていたら、これ以上責める気になれず、むくれたまま口元を湯に沈めた。
 ぶくぶくぶく、と文句の代わりに泡を吐いて。
「本当にごめんね、覗くつもりじゃなかったんだよ。悲鳴が聞こえたから焦って………」
 覗くつもりだったら洒落にならないだろ、と思いながらも、恵は口元を湯から上げた。
「ああ、悲鳴で……」
 確かに先ほど、驚いて声を上げた。しかし自分が入っている風呂に、遠慮なく飛び込んで来る程の事だろうか。例えばちょっと滑っただけでも、悲鳴は上がったりする。
 納得出来たような、納得出来ないような、複雑な心境で恵が黙っていると、代わりに敬一のすまなそうな声が響く。
「そうそう、あの、さっきはどうかしたのかな?」
「え? …………ああ、猫が」
 言って恵はきょろ、と辺りを見回した。
「猫?」
「はい、猫が、居て」

 悲鳴の理由。
 何となく違和感を覚えたものの、全く正体が分からずに結局、恵は元の体勢へと身体を戻した。
 その際にふと、視界の片隅で何かが動いた。何だろうと顔を向けて、そして驚いたのだ。
 白い湯気のせいではっきり姿を確認出来ず、黒い影の塊となったそれが、キラリと目を光らせた。つまりよく分からないものがいたから悲鳴を上げたのだ。
 が、よく分からないと思っていたものが、恵の悲鳴の後に続くように鳴いた。
 ――にゃー
 と。
「あれ………どこ行ったんだろ」
 緊張感を破るような可愛らしい鳴き声で、彼女はそれが猫だと判別出来た。姿を見たワケではないが、他にニャーと鳴く生き物に心当たりがない。
 しかし湯船を移動しても、猫らしき姿はない。恵が首を捻れば、背後から声が飛んできた。

「窓」

 いやに近くで響いたその声に、恵は肩を強張らせて振り返った。
「なっ………………!」
「が、開いている」
 絶句して見開いた瞳が、白い狐を写し出した。
「閉まっていた筈だ。違うか」
 恵は目眩を覚えたが、くら、としたそれを振り払うように頭を振った。
 白い狐、天狐は悠々と湯に浸かり、気持ち良さそうに目を細めている。恵を見てはいない。顔を向けてはいない。が。
「何をしてんだこの変態狐!」
「………下品な」
「うっさい! 今直ぐ出て行け! 今、すぐ! なう!」
「断る」
「変態!」
 真っ赤な顔の恵が、湯をバシャリと天狐目がけて放つ。
 頭に乗せた小さな手拭いは、冗談なのか分からないが、湯は手拭いごと天狐の頭を濡らした。
「っ、何をする!」
「それはこっちの台詞だっつうの! 何をしてるかお前は!」
「恵ちゃん!? なんかあった!? ねえ!」
「湯に浸かっておるだけではないか!」
「だけて! 悪気なしかふざけんな!」
「恵ちゃん! 天狐がいるの!?」
「出てけっ!」
「何故我が、貴様が出て行けばよかろう!」
「それこそなんでだよ!」
「天狐! 恵ちゃん!」
「「煩い!」」
「…………え、なんで僕今怒られたの?」

 恵が再度湯を立てたが、今度は天狐も黙ってやられてはいない。ふわりと浮いた彼は、湯を避けると、カッと金の瞳を光らせた。
 流石にこれには動きを止めて驚いた恵だが、口をあんぐり開けて天狐を見上げる彼女は、次の瞬間。
「んぶはっ!?」
 頭から湯を被った。
 ゆらゆらと波打つ湯が、小さな津波を作り出し、彼女を襲った。呆然とした彼女の、髪や額や顎からポタポタと湯が滴り落ちるのを見て、天狐がせせら笑う。
 そして中途半端な位置に上げた腕をそのままに、呆然としていた筈の恵にとって、その笑いは起爆剤となった。
「こ、の、やろう………!」
 最早彼女に自分が裸という意識はない。
「狐の癖に狐の癖に狐の癖に!」
 恵は相撲のツッパリのように、手の平を勢い良く何度も突き出し、湯を飛ばした。
「っ、この、生意気な小娘が!」
 勿論天狐も反撃する。何本もある白い尾が、ざわざわ揺れ、彼が手を触れずとも湯は波を立てた。
「狐狐狐狐!」
「小娘小娘小娘小娘!」
「狐きつ、ぐ、げほっ! は、鼻に………!」
「ゴホッ! ケホッ!」
 咳き込むくらいなら、止めればいいものの、互いに手は休めない。厳密には天狐は手を使っていないが。
「ちょっ、たんま、一旦、やめ、止めよう!」
「ぬ、主が先に、手を止めよ!」
「ふはっ、わかっ、同時! 同時に! なら、いいでしょ!?」
「よっ、よかろう!」
 バシャバシャバシャバシャ煩い浴室を前で、脱衣場の敬一はウロウロと落ち着きなく動き回る。
「せ、せーのっ!」
「…………………」
「…………………」
「ちょ、止めろや!」
「主こそ!」
 湯の応酬は続く。
「ふ、は、はっ、も、まじで!」
「っ、は、はあっ!」
 開けるのを躊躇っていた敬一が、引き戸に手をかける。中は見ないつもりだ。開けて、何をしているのか訊いて、何もなければ天狐を出して、すぐ閉める。
 これだけ喚き声やら激しい水音がしていたら、何もない訳もなかろう。が、敬一は天狐が一緒なら恵に危険はないだろうと思っていた。
 その恵は、天狐と戦っているのだが。
「…………あ、開けるよー?」
 声をかけ、だが手は動かない。敬一は恵に嫌われたくないのだ。未だ開けていいものか、葛藤している。
 だから彼は律儀に彼女の返事を待つ。
 と、煩かった水音が、ふと止んだ。首を傾げた敬一が耳を澄ませる。
「…………………………」
 しん、とした引き戸の向こう側。眉を寄せ、不安になった敬一が息を吸い込んだ。
「……てん、わっ!」
 突然、ガラリと引き戸が開き、敬一は肩を揺らした。
 彼の目の前に立つのは、背の高い青年である。それと、青年に抱かれた、恵だ。
 恵の姿を見るなり、敬一は慌てて視線を逸らしたが、横目でチラと見た彼女が、ぐったりとしていて、今度は別の意味で慌てた。
「な、どっ、どうしたの!?」
 青年の姿の天狐に横抱きにされる恵に、意識はない。だらりと腕を垂らし、瞳も閉ざされている。恐らく天狐がやったのだろう、薄い手拭い一枚だけが身体にかかっていた。
「水の用意をしてやれ」
 狼狽える敬一の前を通り過ぎ、それだけを告げると、天狐は脱衣場を出る。後ろに続いた敬一は、心配そうにしながらも、天狐を追い越して、先に恵の部屋へと戻った。
「…………何故我がこんなことを」
 不機嫌そうに顔を顰めた天狐は、恵の赤い顔に一度目を落として、息を吐いた。

 何故か。

 なんて、考えるのも馬鹿らしい。
 天狐がもう一度疲れたように息を吐いたその時、彼の耳は小さな声を拾った。
 天狐が一人になったのを見計らったように、静かな廊下の何処からともなく、囁くような声が響いてくる。天井の隅から、小さく開いたドアの隙間から、はたまた壁から染み出るかのように。


 ――天狐
 ――ねえ天狐

「……………………」

 ――それちょうだい?
 ――人間、ちょうだい
 ――そうだ独り占めはよくない

 ひそひそと、けれど重なるそれは、ざわざわと。

「……………………」

 ――嗚呼、悲鳴、悲鳴が聞きたい
 ――にんげん、ちょうだい
 ――よこせ、天狐
 ――にんげん、よこせ

「……………黙れ」

 顔を上げた天狐が、一言呟けば、ひそひそ声もざわざわした気配も、一瞬で消えた。ふっと息を吹き掛け消えた炎のように。


 ――にゃー

 天狐の前に座する、黒猫を除いて。


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