布団の上で正座する、機嫌の悪そうな恵の後ろで、畳に鎮座するのは機嫌の悪そうな天弧。
 背中を向けあう両者は、敬一が一旦席を外してから、一言も発していない。
 だが10分ほど過ぎた頃、呟くように天弧が口を開いた。
「何故我に触れられるのだ」
 彼女に戒められて、敬一と共に驚愕した先ほど。それこそ言葉を失うほどに、天弧は心底驚いたのだ。
 目線と首を背後に動かし、恵は何がと言わんばかりに眉を顰めた。天弧は微動だにせず、砂壁を見つめたまま再度口を開く。
「有り得ぬ。何故お主は我に触れられた」
「………なにそれ」
 うんざりしたように恵が顔を前に戻した。
「減らず口ばっかり叩くからでしょ。それとも何、まだ自分は高尚な存在だとか言うつもり?」
 む、と天弧の口が曲がる。
「当たり前よ。お主のような小娘、言葉を交わせるだけ有難いことだと心得よ」
「あーそーですかー」
「…………………」
 恵の煽るような返事に、天弧のこめかみが強張ったが、彼は辛抱強く続けた。
「それもそうだが、今我が言わんとする事とは違う。ただの人間が、しかも小娘ごときが、我に触れる事など有り得ぬのだ」
「あっそう。もう二度と触んないから安心して」
「だからそうではない。きちんと聞け」
 天弧が焦れて腰を上げた時だった。部屋の扉がノックされ、彼らは同時に玄関へと顔を向けた。
「入るよー?」
 ドアを開けて入って来たのは敬一。のほほんと笑顔を浮かべる彼に、天弧は小さく舌打ちすると、再び腰を落とした。
「遅かったですね」
「うん、給湯器の電源入れたりしてきたから。お風呂、入るでしょ?」
 敬一が言いながら、恵の鞄を部屋の隅に置いた。
 ああ、と納得したように声を漏らした後、お手間かけます、と頭を下げた恵に、振り返った敬一が微笑む。
「いいんだよ、気を使わないで」
「はあ………あれ、何ですかそれ」
 上目に敬一を見た恵が、ふと彼が皿を手にしていることに気が付いた。その皿を僅かに掲げて見せた敬一が、これは天弧に、と言うや否や、彼女の背後で嬌声が上がる。
「いなり! 寄越せ敬一!」
「うわ凄い食い付きよう」
 跳ねるように敬一に近づいた天弧を、恵は案外可愛いかも、とひとつ唸りを上げた。狐は見た目に、可愛らしい。天弧は言葉を話すし、尾も多いが、それ以外は狐なのだ。
 お稲荷さんにはしゃぐなんて、ちょっとは愛嬌あるじゃないか。
 膝を折った敬一がラップを外すのを、ウロウロと落ち着かない様子で待っているのを見たら、恵はなんだか気抜けして、ふう、と息を吐いた。
 すると身体が急に倦怠感に包まれる。知らず張り詰めていた気が緩み、身体が疲れを訴えた。
 それはそうだろう。知らぬ土地へ来て、早々始めたのは掃除。それだけでも疲弊するのに、全く非常識な事態が起こった。最も気力を削いだであろう原因は、今や稲荷に夢中だ。
 恵はもう一度緩く息を吐き出すと、微笑みながら天弧を眺める敬一へと声を投げた。
「叔父さん、先にお風呂へ行ってください」
 ん、と敬一が顔を上げる。
「いや僕は後でいいよ。恵ちゃん先に入りな」
「でも……」
「遠慮しないでって、何回言ったら、恵ちゃんは気を許してくれるのかな」
 困ったように笑う敬一に、恵は焦った。慌てて息を吸い込む。
「っそんなつもりじゃ……あの、じゃあ、お先にいただきます」
 恐縮しながら言った恵に、うん、と敬一が頷くと、彼女は鞄へと這って手を伸ばした。
 彼女が鞄と向き合っている間、天狐は稲荷にご満悦の様子。やがて隣で胡坐を掻き、頬肘を付いた敬一に、着替えを手にした恵が振り返った。
「えっと、何処に……」
「ああ、この廊下の突き当たり右にあるよ。あ、あとタオルは棚にあるのを好きに使っていいから」
「はい」
 部屋に風呂は付いていない。それは最初から聞かされていたから、場所を確認した恵はそのまま、部屋を出た。

 部屋を出て、気怠さを覚える足を引きずり、廊下を進む。天狐の事が衝撃的過ぎて、彼女は共同風呂の前に来るまで、建物に感じた恐怖を忘れていた。
「此処か」
 しかし、引き戸の前に立ち、手を掛けた時に、ふと視線を感じた。
 顔を上げた恵は、薄暗く静かな廊下を眺めたが、そこには誰も居ない。何となく怖くなって、彼女は素早く浴室へと滑り込んだ。
 共同風呂は、一度に3人程なら入れる広さで、服を抱きしめたまま脱衣場から中を覗く恵は、決して好奇心で覗いた訳ではない。
 誰も居ない。
 窓も閉まっている。
 敬一が沸かしてくれていた、浴槽から湯気が立ち上っている。
 古ぼけているが、普通の浴室。
「ちょっと、汚い、けど……」
 よく見れば黒い黴が所々に繁殖しているが、特におかしな所はない。それに安心して、脱衣場にある棚へと歩み寄った。
 竹で編んだ籠が2つづつ並ぶ、木枠だけの棚の前に立ち、その内の1つの籠に、自分の着替えを入れる。
 一番上、平均的な背丈の恵が辛うじて届く程度の位置に、タオルが積んであり、背伸びしてそこから大小一枚づつ引き抜くと、着替えの上に乗せた。
「しかし静かだな……」
 泡沫荘の周りに何もない事も関係しているのだろう。車の音1つさえしない。
 自分の呟きが消えると、しん、と静まり返るそこに居ると、酷く心細い。恵は手早く膝丈のトレーナーと下着を脱ぎ捨てると、小さな方のタオルだけを手に浴室へ足を踏み入れた。
 3つのシャワーに、3つの鏡。椅子と桶は角に積まれており、それを手に、真ん中のシャワーの前に座った。それぞれのシャワーの間には、小さな黒いプラスチックの籠が置いてある。シャンプーとコンディショナー、ボディーソープが入ったそこから、シャンプーを取り出すと、シャワーの蛇口を捻った。
 もわもわと白く湯気が立つ。全身に浴びて、彼女はひとつ深く息を吐いた。
「怖くない、怖くない、怖くない……」
 それは本当ではなかったけれど、口に出してまで言っておかないと、今すぐ逃げ出してしまいそうで、恵は呪文のようにそればかりを繰り返した。
 頭を流す際に、目を瞑る勇気を中々出せずに、結局無理矢理開けたままにし、悶絶する羽目になったが、浴槽に浸かって漸く、ほんの少し落ち着く事が出来ても、やはり同じ言葉を呟いて。
「怖くない、怖くない………はぁ」
 ゆっくり、浴槽を移動する。窓の下まで来て反転すると、顎までを湯に沈めた。
「明日、どうしよう……」
 此処に居たくない、というのが本音だった。
 広いのに、ピチョン、と小さな水音さえも耳に届く静かな浴室。瞼を閉じれば、敬一の優しい笑顔が浮かんだ。

 人の良さそうな彼を、がっかりさせてしまうだろうか。

 そう思うと良心が痛んだ。
 眉を寄せ、唸る。

 その頭上の窓に、ぎょろり、と妖しく光る2つの目に、彼女は気付かない。

「お母さんに相談も出来ないしなあ……」
 電話しても誰も出ないであろう家の事を思い、自然と溜め息が出る。その時、カタン、と小さく窓が鳴った。
 見上げたのは、条件反射で、首を逸らした彼女の目に、黒い窓が写る。
「?」
 別段、何もない。わざわざ体勢を変えて正面から見上げて見たが、夜を切り取った黒い窓は黒いままだった。ただ、何か違和感がある。
 その正体が、彼女には分からないだけ。何が、おかしいんだろう、と首を傾げる。何が、違う?
「違う………?」
 ポツリ、と呟いた彼女の背後で、湯が揺れた。


―――………


「良いのか?」

 あっという間に稲荷を平らげた天狐が、顔を擦りながら訊ねた。質問を受けた敬一は、きょとんと瞬いて、質問の意味さえ解っていないようだった。
 それを横目で見た天狐が、呆れたように溜め息を吐く。
「どういうつもりなのだ?」
「え、と、何が?」
 天狐が恵が出ていった玄関を見ると、敬一もそれに倣った。そして小さな苦笑が浮かぶ。
「此処を……」
 呟くような敬一の声に、天狐の視線が彼へと移される。
「任せられたら、って思ってたんだけど……僕だっていつまでも此処を守れないからね」
 君と違って、と自分に微笑みかける彼を、金の硝子玉でじっと見つめる。
「あれは……主と同じか?」
「分からない」
 僕と同じ血が、流れてはいるけれど、同じとは、思ってなかった。そう言って、敬一は何処か遠くを見るように目を細めた。
「僕の場合、血族に同じ者を見た事がないから、血は関係ないって思ってたんだ。けど……」
「我に触れた、か」
 引き継ぐように口を開いた天狐を、眉を下げて見返すと、敬一はごろんと仰向けになった。
「しかし、何の力もないと思っていた娘を、よく此処へ呼んだものだな」
 四肢を投げ出し、天井を仰ぐ敬一の隣へ移動した天狐が、分からないと言ったふうに告げた。
「君が居るじゃない」
 と、事もなげに敬一が返すと。
 阿呆、と心底呆れた声が降ってきた。
「我に頼るのは間違っておるぞ。あんな小娘、どうなろうと知った事か」
「でも、此処が無くなったら、天狐だって困るだろう? 僕には分かる」

 ――君は、必ず、あの子を守ってくれる。

 そう言って、敬一は天狐の首筋を撫でた。ピクリと三角の耳が動き、ふん、と鼻を鳴らした天狐だが、されるがまま、動こうとはしない。
「ああ、そうだ。それより良いのか?」
「それ、さっきの話? 一体何のこと?」
 最初に訊ねられたのと同じ事を言われて、再び敬一が不思議そうな顔をした。

「娘の事よ。風呂など、絶好の機会ではないか。我なら、逃さん」
 続く天狐の言葉に、はっとした敬一の顔から、段々と血の気が引いていく。
「今頃、どこぞの低級が、若い血肉を欲しておるやもしれ――」
「そういう事は先に言えー!」
 そして最後まで言葉を聞く事なく、跳ね起きた敬一は部屋を飛び出した。
「恵ちゃーん!」
「……やれ、忙しいことよ」
 息を吐いた天弧の白い尾が、ゆらゆら揺れていた。



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